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「なんで原チャがあかんの?いやごめんなさいこんなときに、そやけど気になって」
「ええ…」
「あ、でもそやね、さすがに原チャに三人は乗られへんから、たしかに今日みたいな日ぃは夜も暑うてかなんし」三人は顔を見合わせてどうしようかと言葉なしにお互いを窺ったが、多恵子が澄ました顔をしているのを見てそれが冗談でないことを悟り、
「三人乗りどころか、30キロまでしか出されへんのです」と繁に返させた。
「へえ!」たしかに多恵子はふざけて言ったのではなかった。キジュは彼女の顔を見てすぐに分かった。おそらくどこかでみたサイドカー付きのバイクのことが頭にあったのだろう。それでも三人は乗れないが、しかし、このようにおどける多恵子の目に嘘のような涙の粒が止まっているのを彼女は見逃さなかった。
 そう、多恵子のこの振る舞いはいわばすべてポーズなのだ。湿っぽいのを嫌う彼女の性分だ。争いを憎む彼女のイノセンスだ。自分が蒔いた陰気な種から危うく萌える破綻の芽を道化師のステップに悉く踏み抜くために、彼女は今のような大立ち回りをしたのだ。人の庭にまで踏み入って、この店で起こるすべての諍いの種さえも自分の蒔いたものとして摘んでいこうというのだ。しかし、多恵子の名誉のために言っておくが、彼女は本来このような無粋な、無茶な人間ではない。北山の品良い家に生まれ育った、はんなりで気の良い娘さんなのだ、ただひとつ、時折顔を覗かせるこの生来の道化師としての気質が、もっともそれが人間のうちに結ばれる諸関係のある重要な局面において現れることが多いために、彼女は姉妹からの愛情を失い、男を失い(もっともその当時付き合っていた男は西院の碌でもない坊坊だったが)、無二の親友としてのキジュを失った。しかし繰り返すが、どれもこれも彼女が好き好んで着ているのではない毛ぐるみなのだ…キジュには、彼女が自分との再会を良いものにせんがためにこうも無理をしているのが痛いほど良く分かるだけになおいじらしく、また哀れでもあった。
「ちょっとお手洗い行ってくる」おちつけおちつけと、一遍は自分にそして一遍は多恵子に向け口の中でつぶやき、キジュが奥に消えるのを、多恵子はひどくもの寂しげな目で見ていた。

 キジュがハンカチを手に席に戻ると、テーブルの上はすべて下げられ、新しく注がれた水のコップだけが残っていたが、キジュのだけは他の食器と一緒に下げられてしまっていた。あべこべに気まずさを覚えつつポーチから財布を抜くと、それに気づいた多恵子が、「お水おくない」と言った。おそらく今日のぶんのゴミ袋でもまとめていたのだろう―カウンターの向こうでがさがさとやっていた若い大学生のアルバイトは「ああ、すんません」といい、さらさらと手を洗う水音が聞こえ、なみなみ注がれたコップをキジュの前に置いた。
「失礼しました」
「いえ…」また妙な気まずさを与えられ、その渇きをもらったばかりの水に潤した。せわしないなと独り言ちると、キジュは「もういきましょう」と言った。

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