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 彼女らはその時―そう、あのときは、いや、あのときに限らずいつだって三人だった―仁和寺の桜のことを思い出さずにはいられなかった。大学入学と同時にこちらへ越してきたキジュは知らずにいたが、このあたりの旧い家では、いじらしく低い枝に叢がって咲く遅い花を見るために、普段の出不精が打って変わって電車を乗り継ぎまでするのだそうだ。七条からだと嵯峨野線を太秦で一度降りて嵐電の撮影所駅まで歩かねばならない。話に聞かされただけでは、彼らの面倒を厭わずに足を伸ばすその訳が分からずにいた。
「桜なら大阪でも見えるでしょ」と諌めようものなら、ふんと鼻を鳴らすのだが、多恵子もその次は言ってはくれないのが常だった。「秘すれば花なり」を地で行くには、もう少し平生の振る舞いを顧みるがよかろうものを。
多恵子はもう、三月の末から落ち着かない様子で、民放のニュースではそう毎度やるわけではない天気の長期予報が出るたびに、半分口を開けたまま予報士の口ぶりを真似るのであった。
「そんなに一喜一憂することないじゃない」と眠りを妨げられたギジュが不服を申し立てるように皮肉を込めて言うのも、「雨雲レーダーはまだかしら」と、せいぜい3時間後までしか見えない洛中地図の、彼女が▷のカーソルに合わせた指を左右に滑らせるごとに雨雲を表す濃く淡い青色のしみは単細胞生物のようにexpandとshrink、結合と分裂を繰り返し、その度にピンの刺さった名勝の数々を青く飲み込んだり干いらせたりするのだった。しかし、仁和寺といえば古都に敷かれた条坊の外れにあるのではなかったか。キジュはそのことを聞こうとしたが、あまり熱心に画面を覗く多恵子の前に二の足を踏んだ。
「あんときは和栗さんの車に乗せてもろうてな」
「そうだっけ」多恵子は、もう一杯おくない、と思いがけず裏返った声を張ってから、グラスを拭っていた店主が小さな眼鏡をくいと上げるのを見、顔に朱の差すのはどこか狡いような気さえした。

「今日も原チャで来はったん」
「ん、まあ」遅れてやってきた男はすっぽん首の娘の横に腰を下ろし、スーツには似合わない黒いリュックサックを向かいの空いた席に置いてもらった。
「おもっ、なんやのこれ」
「なにって、地球の歩き方」腰を浮かせた彼が長い腕を卓越しに旅行書を抜き取っていくと、リュックサックは支えを失い低く項垂れた。
「こんなぎょうさん買って、これ全部買って来はったん」
「あほ、借りてきたんや」男は内ポケットから紫のカードを抜き取ると、これみよがしにひらひらと揺らした。

「ブレンドでございます」思いがけない声に我に返った二人は、思わず顔を見合わせどちらともなくくすくすと笑い始めた。(つづく)

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