双影 二
「雛子さんに仕事を止すよう言ってくれないか」省吾は次の酒を注いだ。風の音のないのを不審に思っていたが、冷房が時間で切れたのだった。
「もう諦めたら?」莉佐はもう一度電源を押し、
「寝苦しくてまた点けることになるわ」
「まさか、まだ梅雨入して三日だよ」
「晴れたら暑いし、雨なら吹き込むから」省吾は窓を開いて露台へ下りた。上層階から望む雨足は長く、音は無い。明りのほとんど消えた街は細密な版画のようであった。
「ねえ、私今自分で言って思ったのだけれど」莉佐は手もとにグラスを寄せた。
「今でさえこうなのだから、梅雨が明けたら、毎晩こう冷えないうちに日が昇ることになるじゃない?ということは、これから七月や八月は一時間の途切れもなくこの暑気が居座ることになるのよ。雨も殆ど降らないのだし」省吾は食卓のちり紙で飛行機を折ると、嘴を手に持ったまま彼女の顔の前を滑らせた。
「低空飛行でいつまでも落ちない、よくできた飛行機の軌道だ。どうだろうこの謂は。子どもらに伝わるだろうか」
「低空飛行なんかじゃないわ、気が狂いそう」飛行機は殻の剥けたばかりの蝉のように翅は萎え、省吾をそれを握りつぶして屑籠へ放った。
「どうせ台風が来るさ」莉佐はグラスをそのままに席を立った。絞ってあった音が高くなるのを背に聞いた。
「お湯を張る?」
「いいわ、足を洗うだけ」
山は朝からだという省吾に連れられて登ったが、降りてもまだ薄曇りの日は高かった。登山口までの参道は山菜や竹細工の小物を売る店ばかりで、山頂で小さな羊羹を齧っただけの二人は空かせた腹のまま麓から車を走らせた。
月のものかと趾を開いた。なんてことはない、洗い残した土が足首に付いているだけだった。莉佐は伸ばした袖で座面を拭い腰を下ろした。明りを点けていなかったので見分けにくいのを、水をつけただけで拭った。それにしてもなぜこんなものをそのままにしておいたのか。
鶴巻温泉で遅い昼食を取り、湯に浸かったのち畳の広間で少し睡った。起きると汗をかいていて、それでまた身体を流した。暑いので殆ど客が無かった。莉佐も、晴れ間に照らされるのを嫌って、裸を蔭の寝椅子に休ませていた。
雛子は、同年の省吾と莉佐より一回り近く若い、女子大学の文学科を出たばかりだった。去年の秋から、学校に出られないでいた。
「お為ごかしにしか聞こえないだろうけれどね、間違ったことを言っているつもりもないんだよ」
「分かってる。省吾は正しいわ」莉佐は冷蔵庫を開いたまま、冷えた蕎麦茶を一息に飲み干すともう一杯注いだ。
「酒はもういいの」
「うん」山の疲れがまだ残っていた。この頃、毎年長い休みに入る前に限って風邪を引く。気の緩みだと自分を責めることが、病気そのものよりも辛くみじめだった。
「もう寝るわ」
「じゃあ、僕もそうしよう」省吾は二人分の酒を流しにあけ、執拗なまでに長く水を落とした。冷えた風を流し続けれなければすぐに蒸風呂になるこの部屋は、窓は閉め切っているはずなのにいったいどこから暑気は侵し入るのか。
「ねえ、でもあの子また秋から出てくるというのよ」せめて目覚しのなるまではと、暗幕に隙間のないことをあらためる。
「ああ。けどもう一年になるんだ」
「それはそうだけれど…」
「莉佐は、彼女がこの一年足らずの間、学校のことを忘れて静かに暮らせていたと思うの」
「きっとそうではないわね」
「うん。むしろ僕らに迷惑をかけ続けていると自分を苛んでいたに違いないよ」
「でも、おかしな言い方だけれど、つまり彼女の入ってくる前に戻っただけなのよ。前任の香田先生だって、最後の二年半はほとんど入院していたのだし」
「そうだよ。だからとくに僕らに何かがのしかかってきたわけではない。けど、それは彼女が自分を責めることとは何らかかわりないことだろう?」
「ええ」
「僕らは、彼女を退かせることでむしろ彼女に被せていたものがあったんだよ。無理をするなと口では言っておいて、あるいは僕らが悩むべきであったかもしれないことを、彼女ひとりに押しつけたにすぎない」昂ぶった省吾は天井を一点に見つめ、掛け物を軽く握りしめた。
「分かった。話してみるわ」
「申し訳ないとは思っているよ。ああ言っておきながら、僕はまたいやな仕事を君に押しつけている」
「それは違うわ。同じ女同士の方が、あるいは話しやすいこともあるだろうと、そういうことでしょう?」
「ああ…」欲しかった言葉をくれてやると、省吾は落ち着いたのか夜灯の下の水を一口含んだ。
「明日は何時に出るの?」
「九時の新幹線だ」
「指定席?」
「うん、一応取ってある」
「忘れないようにね。仕舞ってある場所は?」
「紙の切符はもういらないんだよ、全部携帯で済むんだ」
「そう。なら充電だけ忘れないで」伸ばした手を省吾が制した。
「今日は点けたままにしておいてくれないか」
「…」莉佐は、応えないでいるのが暗に拒むものではないことを示すために、すぐに手を引いた。
「もしどうしても眩しくて嫌なら言ってくれていいから」応えずとも、今度は彼ももう苛立ちも焦りもしない。莉佐は何よりもそれが心安く、目を閉じた。
目を覚ますと灯りはまだ点いていた。省吾が出ていくときに消し忘れていたようだった。鈍い朝の光が、すでに部屋にしみ入っていた。
早速電話をかけてみようとしたが、いつか、そのような人を前にしてはどのように連絡を取るかさえ前もって確かめておかなくてはならないと聞き知っていた。それで莉佐は、端末を起すのも億劫でそのままにしておいた。昨晩の昂ぶりは波のように引いたのか、冷淡でいる自分に驚いた。
朝食を済ませると仕事にかかった。考査が済んで生徒たちには一週間足らずの休みが与えられていた。むろん教師には他の仕事もあったが、技術は進んで、答案を画像として取り込んでおけば採点などは家の端末からでもできるようになっていた。むしろ実物を持ち歩いて無くす方がよほど面倒なことになる。これまでのやり方に馴れきっていた老教師らは別として、だから会議などがない者は殆ど出てこなくなっていた。
「もしもし」省吾からだった。
「もしもし。無事ついた?」
「うん、今新宿」雑沓が親しみをともなって聞こえた。
「どこまで行くのだっけ」
「市ヶ谷だよ。会館があるんだ」省吾が連盟の仕事にもつくようになったのは、むろん彼が望んでのことではない。持ち回りの順が、先年の子を送り出して担任が外れ、一通りの学校運営に習熟していた省吾に当たっただけのことだった。
「名誉職にもならないよ、てんで別の方を向いている花々をひとつに束ねるなんて、徒労だ」しかし、皆が同じ方を向くというもそのように向かせるというのも穏やかではあるまい。だからこそ彼は「束ねる」と言葉を選んだのだということを、もう長らく同じ日を過ごした莉佐にはすぐに知れた。莉佐は、それ以上言葉を重ねなかった。
「天気はどう?」
「さっきぱらっと来たな、まあでも、帰りまではもつだろう」
「傘は?」
「きっと大丈夫だよ、でも」
「でも?」
「でも、もし雨に降られたとしても会館のすぐ横にコンビニがあるから、買えばいいんだ」
「そうね」泊まるところは、と訊く前に電話が切れた。莉佐は、携帯を伏せて画面に向かった。
昼過ぎにはすべきことは済んだ。彼女には珍しく、強い空腹を感じた。傘を持たずに出たが、雨は止んでいた。
公園に裏から入ると資料館に近い。すべきことは済ませているのだから何もやましく思うこともないのだが、ふだんあまりにめまぐるしく過ごしているために、この頃の莉佐は暇な身を遊ばせるということがうまくできなくなってしまっていた。畳の上で慣れない座を強いられた後の足が痺れるように、莉佐は半ば自棄になってもう通いなれた池のほとりをわざと大回りに回った。
「教師というものは、たいてい…」ニーチェの箴言に、今の自分の在り方をきっぱりと断じたものがあったはずだ。が、莉佐はその詳しくを思い出すことができなかった。それじたい、箴言を俟つまでもなく、彼女の歪められ方を示してはいた。それに気がついて、思わずいやしい笑いが洩れた。
代り映えのない資料を、それでも二三の気づきを得て出た莉佐は、いつもそうするように文面にして省吾へ送ろうと携帯を出したところで、やはりよして車へ戻った。仕事帰りの客で混む前に、買い物を済ませてしまいたかった。二人で暮らし始めてしばらくになる。それより前のことを、莉佐はよく思い出すことが出来なくなっていた。彼女の今の暮らしに、その必要がないからかもしれない。
「お久しぶり。宮前です。」仮眠状態にあった端末をまた開いて、文をおこした。かぎりなく棘を落とした、子どもへよりも優しい言葉。誤解をされないよう、邪推をされないよう、そしてそれが何らかの引金とならないよう―髪の先まで神経を行渡らせるような、自然ではありえない畸形の言葉だった。莉佐はそのあくどさに気がつきながらも、むしろその人工物のいじましい美くしさに酔うようだった。
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