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波穂子⑪(最終話)

 「久しぶりですね」返事はなかった。吐いた息の冷たい匂いがした。
 靴箱にかけてあった雑巾を手に取り底を拭いた後で、慌ててそれを脱いで廊下に上がった。部屋にはほとんど物がなく、しかし、あの一組の椅子とテーブルは変わらずにそこにあった。もとからあの人の持ち物ではなかったのか。夢であの人が掛けていた方の椅子に腰を下ろすと、ふいに手に触れられるほどはっきりとした輪郭をもった懐かしい匂いが、私のすぐ目の前をよぎっていった。それでも、頭を振って部屋を見回すような真似はしないでいた。ここは今私の部屋なのだ。あの時のように、今度は自分でその机の傷をなぞってみる。目で見るよりも深いその痕は切創に触れた指にひやりとした。

 待っているわけじゃない、そう言ったあの人の声が今でも懐かしかった。
少し寒い。足元に下した大きなリュックサックからホーローびきのやかんとマグカップを取り出したところで、はっとしてベランダに出る。あの花の鉢はどうして枯れずに頷くように風に揺れていた。とたん、蓋を開けたように恐ろしさに襲われた私は、裸足のまましゃがみこむと、その鉢によく顔を近づけてみた。つつましく寄り集まった花序の下に厚い扇のような葉が広がりその裏をびっしりと銀白の短い毛が覆っている。私はその一茎の根に指をかけ、ひと思いに引き抜いてしまおうとした。
「ねえ、思ったよりも根が深いでしょう」耳元でささやく声にのけぞったのは、その低い声があまりに自分によく似ていたからだ。
冷たい風が髪を揺らす。遠い雷鳴りが窓を震わせる。この部屋で過ごすはじめての夜はいつも、誰しもこんな嵐の空なのだろう。

 「テープとか貼った方がいいんだっけ」姉はそう言って頬張った口のまま立ち上がりシンクの下棚を物色し始めた。
「そこじゃないよ」しゃがんだその肩越しに彼女の手にした砂の袋が目に入り、藍はつい眉をひそめた。これは、と取り上げたハーブティーの小箱を見た藍は、「もう開けていいよ」と澄んだ低い声で答えた。
「うん、それぐらい、ありがと」米の字に貼り付けた養生テープの合間から、鏡になった夜の窓に顔を寄せて街の様子を伺った。時折、冷たい雨粒の一群が放たれた矢のように窓にたたきつけ、哀しげに吼える風が船底のようにどす黒い雲の下で逆巻いた。時には閉め切った部屋の中でさえ声を張らなければならないほどで、地上波の放送が乱れるなんて初めてのことだった。
「早く帰れてよかったね」
「朝から休みにすればよかったのよ」姉は藍の皿にコロッケを半分のせると、「案外ベタなのね」と言って笑った。
「スーパーで安くなってたから」恥ずかしげに俯く弟の尖った唇を素直にかわいらしく思った姉は、それまで探していた言葉をよして「何観る?」と訊いた。
「今日何曜日」
「もく、」水道が止まると急かされて先に順番で風呂に入って、それからの夕食だったから時計はすでに11時を回っていた。
「こんな遅かったんだ」
「シャワーでよかったのに」藍がこぼすと、姉は「だめよ、いつだって湯船に浸からないと」と言って、そうでしょうと確かめるように顔を覗き込んだ。
「ニュース見よう、今はどうなってるんだろう」
「何もなしに過ぎてしまえばいいのにね」その晩、藍は何日かぶりに自分の部屋のベッドで眠った。空の下に囚われた手負いの獣のように豪風はのたうち回り、雨は墓標のように蝟集した街の建物をその丈高いものから順に悉く打ち崩さんばかりに降りしきった。しかし、藍は音の出るほど軋んだ胸にそれでも温かい自分の手を乗せ、むしろその空の騒がしさに甘えた心を寄せるような気持で耳を澄ませていた。嵐はその烈しさに粗熱のような悲しみが無防備な彼の眠りにつけ入るのを防ぎ、その公平さに彼を憐れもうと手をこまねくあらゆる寓意の影たちを蹴散らした。藍は(眠れなくてもいい)と自らに言い聞かせ、できるだけ薄く瞼を閉じるようにした。
(今夜僕が眠れないのは悲しみのためではなくて、この雨と風のうるさいためなんだ。ああ、本当にうるさいなあ)緊張の糸が切れてことりと寝落ちた洗いたての頬に、温かな涙が一筋新しい塩の路をひいた。

 過ぎた朝は青く澄んだ。窓のテープを剥がす音が、寝起きた頭に南国の怪鳥を描かせた。
「ちょっとポスト見てきてくれない?」惚けた頭のままエレベータに乗りこんだ藍は、濡れていないスウェットの胸をさすり、昨晩痛んだのはどこだったろうかと少し探ってみた。ドアが開くと、半袖のシャツを着た配達員が封筒の束を抱えてエントランスに入って来たところだった。
「何号室ですか?」
「ああ、ええと、504です」
「どうもすみません。一昨日昨日とお届けが遅れまして」
朝からもう何度も繰り返して来た台詞なのだろう。藍は「いえ、とんでもない」と言って昨日のニュースでやっていたJRの計画運休の話を思い出した。
「504…はないですね。今日到着分はないです」
「はい、ありがとうございました」礼を言った藍は、乗りつけたタクシーのように律儀にその場で待っていたエレベータに再び乗ると、今日は暑くなるのだろうかと気持ちが少し浮足立つのを感じた。階数を示す電光板の隅に「20××年9月1日(金)」と今日の日付が小さく浮いていた。
「珍しいね、こんな時間まで」ソファにかけた姉は窓外に後光を差されながら「どうだった?」と藍に訊いた。
「何も届いていなかったよ」ごくろう、と掲げた麦茶のグラスが、ふと忘れ物に気づいて帰って来た夏の光を透いて、藍の胸元に鈍い燐光を揺らした。
「真夏日だってさ」姉はそう言ってテレビを切ると、二番目にのっぽのリモコンを川の字に寝そべっている兄弟の間に並べ、「お昼にしましょう」と台所にたった。
「お姉ちゃん、今日仕事は?」
「何言ってんのよ」
「ああ、」
「金曜は研究日」乱暴に閉じる冷蔵庫のドアを不憫に思いながら、藍は、瓶のなくなったぶん少し広いテーブルのどこかに傷はないだろうかと目を細めてみた。(完)

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