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緑の少女⑪

「人多いなー、てかきったね、さすが学生街」
「でもこいつらも早稲田なんだよな」
「それを言うなよ悲しくなるから」
「決めた、俺受験勉強やめる」
「始めてもないでしょ」ロータリーの人の多さに吐き気を催してイチイを見ると、意外にも彼女は平気なようで足元の鳩の群れを不思議そうに眺めていた。
「食われるぞ」
「はい」
「鳩って肉食なの?」
「うるさい」ビッグボックスの通りを少し行った先の、雑居ビルの四階が受付だった。中に入ると、壁には見たこともないヴィジュアル系バンドのポスターがサイン入りで貼られている。待合室のベンチでだらだらと話をしていた大学生四人組の一人と目が合って、とっさに浅香に話を振った。
「なんかガラ悪いな、ここ」
「てかほんとに朝までやんの?指もたないんだけど」
「キャンペーンだし、テスト終わりだし」リングだらけの指で会員登録用のデータを打ち込む不慣れな手つきを白い目で見ていた。案内された部屋は大きめのカラオケルームのような内装で、ソファの代わりに大きな機材がいくつも並べられている。コード類もそこかしこに積まれていたがそのどれもが綺麗に束ねられていておまけにビニールテープで色分けされてあるので接続に迷うことはない。壁一面は鏡張りになっていて、自分と一緒に映るギアを見る度に胸は高鳴った。
 意気込んで始めた練習は二時間後には面白いぐらいペースダウンして、ゲリラダンジョンの時間が来るたびに雑談を始めてはその先をどこまでも延ばしていった。イチイはさっきからずっと携帯をいじっている。脚は組んだままスニーカーの先で床を叩いていた。
「でさ、オンラインやってたんだけどマッチングした奴が芋で、だから五時にそいつがログアウトするまで鯖に粘着してたわけ」
「え、じゃあ寝てないん」
「そう」
「うげえまじかよ」星はガムでも踏んだかのような顔をする。
「石見さ、そういえば、お前モテる?」
「はあ!?」危うく水を噴き出すところだった。
「なんだよいきなり」
「いやなんとなく」
「モテないこともないんだなあ。これが」さすがにこのタイミングで彼女の方を見るほど馬鹿ではない。浅香は口を挟まなかった。
「シーソーゲーム感覚、って分かる?恋愛の話」
「なにそれ」
「まあ、いいや」
「なんだよ」
「それより練習しない?」雰囲気を無視した浅香の一言に今度は救われた。窓のない部屋に長いこと居て気が滅入ってきたので、通しの後で一旦飲み物を買いに行くことにした。イチイもスキップでついてきていたのだが、後ろでいきなり歌いだして僕をぎょっとさせた。
「まなつの ピークがー さったー」
「え、なにいきなり」
「それ、うちの姉ちゃんも歌ってたな。なんだっけ」
「知らないの?」迷惑そうな顔をしてすれ違う人さえ、今のイチイには見えていないようだった。
 それぞれ買ってきたものをスピーカーの上に置いた。ドクターペッパーが二本にコーヒー牛乳が一本、そして僕のサイダーが一本。結局練習はなあなあになってお茶会が再開された。
「そうだ、ロッキン取れたんだよ、四枚」
「え、本当?」
「やるじゃん」
「なんで上から目線なのかはわかんないけど、うん」イチイは一気にたくさん飲んだせいでしゃっくりが止まらないようだ。
「行こうよ四人で!ありがとう浅香君大好き」大げさな言い方にうまい返しが見つからない。
「でしょ、だから皆二十九日空けといてね」
「今年遅いんだな」
「最近フェス多いから、ひょっとしたら日にちずらしてるのかも」
「まあこれぐらいの時期なら今ほど暑くなんないだろうし、丁度いいんじゃない?」
「確かに」
「俺さ、残暑って嫌いなんだよな。真夏ならよしこいって覚悟できんだけどさ、九月とかもまあ暑いじゃん?なのに気分はもう秋になりたがってて、だから余計つらいわけ。むかつかない?」
「お前なに言ってんの?」
「浅香は感性死んでるからな」
「うるせえよサブカル畜群ども」こっそり横のイチイの携帯を覗くとタイムラインが開かれていた。アイコンはいつもと違って猫のものじゃない。赤く腫れた彼女の人差し指も可愛かった。
「そういえば、夏休みいつまでだっけ」
「二十九」
「え、ってことは?」
「フェスの次の日に始業式」
「は!?」星と浅香が大騒ぎする。
「石見、お前はセンスがない」
「打ち首獄門の上市中筆引き回しの上お家取り潰し。宗教裁判、魔女の火炙り、クカタチ、十年ROMってろ」
「しんど。最終日だけ奇跡的に取れたんだからそれだけでも感謝してほしいんだけど」援軍を求めてイチイの方を見るが彼女は「まあまあ」と適当になだめるばかりで携帯から目を離そうとしない。
「しゃーない」
「チケット半額で許す」
「寝てる間にお前らの弦全部マロニーに張り替えるからな」
「うわ、さむ」
「くたばれ」
「そういえばさ、あれどうなったの。キララちゃんだっけ」
「あー、やっぱ辞めるらしいよ。俺の親が向こうの親と仲良くて、こっちの耳にもいろいろ入ってくんだよね」
「そっか、でも、なんでだろうね」
「あ、そうだ。イチイそういえばあの子と地元同じじゃなかった?」話を振られたイチイはおおげさにびっくりして、その拍子に携帯を落としてしまった。ハウリングを起こして会話が中断された。イチイは「トイレ行ってくる」とポーチを手に席を立つ。三人残った部屋でじっとしているのも何だか気が引けて、「俺もトイレ」とドアを開けようとしたら背後に星が立っていた。
「俺も」不自然な笑いにいらついた。
 用を足してトイレを出ると、隣の女子トイレから水の流れる音が漏れていた。蛇口をひねりっぱなしにして何をしているんだろうと不思議に思っていると、今度は紙を握りつぶすようなクシャという音が耳に入った。次にジッパーの閉まる音。目に見えないイチイの一挙手一投足を耳に頼ってすぐそばに感じていた。
「おお」出てきた彼女はトイレの前でじっとしていた僕と星を見て驚いたようだ。さすがのイチイでももう疲れてしまったようで眼に力がない。僕の大好きなその桃色の唇の端に輝くような水の滴が留まっていた。

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