主体的な思慮が経験の記憶の継承になる


原爆について、なんとなくの知識がある。それほど浅い知識ではないはずだが、それほど深くもない。こういうときに、「日本人として知るべき」という言葉は使いたくないが、自分が日本人として、日本の教育を受けてきた中で、この知識はどの国でもあたり前に享受されるものではなく、日本に生まれ育ったからこそ身についている知識であることを改めて強調したい。私たちはこの記憶をどのようにしてつなげていけばいいのか。もっと言えば、「戦前としての」私たちはどのようにこの記憶を核戦争の抑止力として利用することが可能なのかということも考えてみたい。

教育の中で、私たちは広島と長崎の被爆の記憶を受け継ぐ。写真を見たり、講演会が開かれたりと機会は多く提供されている。しかし、私たちのような非戦争体験者の知覚するこれらの経験は、他の学校教育での経験となんら差別化されることはなく、記憶される。何かを特別に強調して教えるということに対して様々な意見がありそうだが、わたしがここで主張したいことは、教育外での機会の提供による被ばくや戦争経験の記憶の継承の可能性があるのではないかということだ。

例えば、私の経験で言うと、私は大学の先輩がそのような戦争に関することの展示会をしていた。大学という場所がそもそも教育機関であることは一度置いておいても、受動的に経験の記憶が享受されるような場所に自ら赴き、戦争について考える時間を敢えて確保するという主体的な行為の重要性がはっきりとした。

つまり、主体的な時間の確保が大切なのだ。私たちは、戦争や政治について考えるべきだとよく言われる。「考えるべき」が意味するところは、考えることの義務化だろう。私たちは主体的に考える時間を確保することが義務なように感じられて、そのようにした自分のことを認知すらしない。それが当たり前であるべきだからだ。

しかし、現代の私たちは、今を生きることに精一杯だ。「個人的なことは政治的なこと」という言葉があるにしても、今生きている世界と政治的な世界とでは感覚的な壁があるように思えるのは当たり前だ。そんな中で意図的に政治や戦争について思いを馳せることは困難なのではないか。ただ、「考えるべき」とだけ、無責任な言説は私たちに説得しようとしてくるが、それは実際の私たちの生活とはかけ離れている。もっとも必要なこととは、そんな生活の中で、主体的に思い、考え、もしくは行動することだ。そのような主体性を実感することが経験の記憶をよりリアルに継承することの第一歩となるのではないか。

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