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お金はお金であってお金じゃないんだ

 徒然なるままに書いているので、小見出しはつけなくてもいいかなと思う。なんかもう、線状降水帯とかで豪雨が降っては猛暑が繰り返すみたいな、九州全土はサウナですみたいな息苦しい暑い日が続いてて、ああ夏は暑いからな〜って、ぽや〜んって生きていたところ、8月18日のアウラズームミーティングで、あおひこさんがシュタイナーの経済学講座(前半)をまとめて導入篇として話してくれたことが改めて地域通貨について考え直すきっかけとなった。いや、ぽや〜んってしてたところからいっきにすごく考える、いや、考えたい、熟考したい気分に転換した。

 あおひこさんの導入篇は素晴らしいまとめで、シュタイナーの講義(前半)のまとめと、一般的教養としての貨幣と経済の歴史についてのまとめだった。うぉ〜、すげえ、これはインスパイアされる。そんなかんじ。

 それで、ここからは、あおひこさんがまとめてくださったことではなく、私の意見になるのですけど… なるのですけど…

 お金が交換価値を持つことと、資本として貯蓄されることあるいは増やされることは別の意味を持つ。資本主義、商業主義によって、私たちは生きることがかつての時代より自由になったのかあるいは、より不自由になったのか。お金っていうけど、日本でも1930年代より金と貨幣が同等の交換価値を持たなくては貨幣としての価値を保証しないという制度をやめている。お金はもはやお金ではない。おキン、ゴールドじゃないと。じゃあ、何なの?って思いますよね。

 ほんと、何なの?なんだと思うんですけど。単なる紙とかじゃないんですよね。国家の信用で「これはお金なんですよ」って発行している紙とかが貨幣なんですけど、それが日本みたいに資本主義の国だと、お金持ちの人のところにばかり集まって貧乏人のところには毎日の食卓に並べる野菜を買うためのお金もないっていうことになってて。貧乏人の家には貨幣がないのよ。ムカつくわ。だって、お金持ちってだいたいケチだからお金を溜め込んで使わないでしょ。だからどんどん資産が増えるし。さらに貯まったお金をもとに自分がさらに裕福になるためにお金を増やすことも得意でしょ。私に言わせれば、川の流れを我田引水的に自分のところに引き込んで増やしているのに、その水を循環させていないから、他の水が必要な人の土地はどんどん乾涸びてるわけなのに、知らん顔で自分の裕福さだけ追求し続けたり、あるいは自分の気に入った人たちだけは富を分配しているわけ。ひどいでしょ、それ。社会主義がいいとは思わないけど、資本主義はさらに最低でしょ。もう、私、ほんとにそう思っているわけ。そう。そんで、インスパイアブルなアウラズームミーティングがあって、それから数日後の出来事でした。

 かつて、20代の頃に宮台真司のマジ、ファンだったという、福祉の仕事の同僚(夜勤チーム)のサダさんと資本主義経済についての話で盛り上がった。サダさんはホームの夕食を作りながら、私は朝食作りと訪問の仕事の合間に経済の話をするって、まぁ、楽しい職場ですよね。

ちなみに参照のこのYouTubeの最後の〆の言葉がすごく良くて、ぜんぜん、若い頃の宮台真司じゃないんだけどこれを貼っとく。

 そんで、サダさんのお話を聞いて、うぉ〜、そんなん考えてるんや、面白いなって思ったのは、資本主義はやさしいっていう考え方。私からしてみれば、資本主義が世界の市場を我田引水的に横取っていて、強大な資本を持つ国あるいは個人が資本のないあるいは少ない国の市場を破壊しているように思うのに、そうではないと。えー、そうではないの?

サダさん曰く、海外からの資本が入ることで、その資本が少なく貧しい国は経済成長しているではないかと。海外の資本から投資を受けることによって、その国で新しい商品が生産可能になり、仕事が増え、そうすると給与が増えさらに国民は豊かになっているじゃないかと。そして、資本主義は才知のある人にお金が集まってくるという性質を持つ反面、一旦、それなりに資本ができてしまえば、それを受け継ぐ人がいて、その人がまったく才知がない人であったとしても資本つまり生きていけるだけの十分なお金があれば生活できるじゃないかと。

う〜ん。ほんまやな〜

資本主義がやさしいなんか考えたこともなかったわ。なんか、たぶん、やさしい人たちで資本主義をコントロールできたら、資本主義も悪くないかもしれないとちょっと考え直した。サダさんありがとうやな!

 そんで、次行ってみよう!そして、それから数日後に、月一回、30年以上に渡って福岡で開催されている人智学協会「魔笛」の読書会に参加。現在読んでいるシュタイナーの本は「歴史兆候学」。この本、めちゃ面白い。高橋巌さんの訳。ちょうど、30年戦争、フランス革命とナポレオンについての講義だった。そこで、フランス革命の理念であった「自由、平等、友愛」が、シュタイナーの社会三分節化運動の「精神の自由、法のもとの平等、経済の友愛」とどう関係しているのかについて話題になった。おおお〜、経済の友愛。おお友よ、このような歌でなく、歓びの歌を歌おうみたいな、めちゃ嬉しい話題やったな〜。私的に。暑い最中、ずっと考えてたことやったから。


La Liberté guidant le peuple, Delacroix 


そんで、そこで、うわ〜、それすごいおもろい!そのテーマだけで話をしてもらいたいわ!って思ったのは、樋口さんが「歴史兆候学的な観点で捉えると、オキュパイ・ウォール・ストリートは左派ポピュリズムの社会的振動で、その揺り返しとしてMAGAのような右派ポピュリズムが登場したんじゃないだろうか」って話されたこと。それで、オキュパイ・ウォール・ストリートっていうと新自由主義への反動として起こった事件だった思うんだけど、アメリカのような資本主義、商業主義の席巻する国で民衆は常にポピュリズムに先導される誘惑の危険性が高いと私は思っていて、そんなこともいつか樋口さんとお話ししたいなぁと。商業主義と政治の傾向について考える時に、twitterで成田悠輔さんがツイートしてたのがすごく、ああ〜、そうか〜って私的には記憶に残っていて、樋口さんのお話を聞いて思い出したんですけど。

 それで、それはそれとして、ですね。私が言いたかったのは、読書会の時に高島さんが「資本主義も新自由主義が登場してから貧富の格差が急激に広がったので、資本主義が貧富の格差を広げたとは言い切れない。」と話されていて、サダさんのお話を思い出したのでした。ということなんです。

 コミュニティ、共同体ということを考える時に、フランス革命あるいはコミューンについて一つの原型を見出すことができるように思います。私自身はいつも思っていることは「最後には物でなくて人が残る」ということです。ものはものとして大切でありその価値を十分に知るべきだと考えていますが、本当の豊かさとは物に集約されるのではなく、人と人のつながり、あるいは共同体であると私は思っています。

貧乏で
金はなくとも
愛はある

越睦美作

みたいな。ですね。

 よく聞くじゃないですか。お金持ちの人も、お金がすごくたくさんあってもありとあらゆる人を疑って生きているのでちっとも幸せじゃないみたいな。あれ、本当だと思うんです。資本主義や商業主義って、資本が増えれば増えるほど、欲望も増して、そして他者を信用できなくなる思想だと思うんです。だから、どこかで共同体は貨幣を友愛の経済に変える必要があるんだと思うんです。

 まだこの話は続くのですが、今日はもう仕事に出かけるのでここまでにしたいと思います〜


母ちゃんの家の裏の畑の米。台風一過で米が倒れていないか、農家の年老いたご夫婦が軽トラックで見に来ていた。いつ収穫ですか?と聞いたところ9月末とのこと。この二人で何反もの田圃で米を作っているんだなぁと思うと心から尊敬する。私も引っ越したらぜったいコメ作る!!!!!!