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木が倒れていろんなこと考えた!

 今年、2023年の6月22日に雷と暴風によってゲーテアヌムにある菩提樹(リンデンバウム)が倒れたそうだ。

 6月28日に開催されたゲーテアヌム農業部門の共同代表であるジャン=ミッシェル・フロランさんとの対話の録画を見ていたら、冒頭で入間カイさんとジャンさんがシュタイナーが生きていた当時からあったリンデンバウムが倒れたという話をされていて、リンデンバウムってどんな木だっけな?と思いながら、違う木を色々思い出していた。

先週のナサニエルさんとのZoomセッションに続き、ゲーテアヌム農業部門共同代表のひとり、ジャン=ミッシェル・フロランさんとのZoomセッションを6月28日に開催します。前回お問合せ頂いた方、春から実施しているNext100のイベントへ問合せ...

Posted by Meets Anthroposophical Society@100th anniversary on Sunday, June 11, 2023

 槐、欅、楠… など記憶の中の樹木はどれもリンデンバウムではなかった。あれ〜、どんなんだったけ?と思い、インターネット検索してみたところ、蜜蜂が好きな花が咲き、葉っぱは桂のように丸い。ヨーロッパでよくみられるリンデンバウムはナツボダイジュとフユボダイジュの両方の性質があるとのこと。ゲーテアヌムのリンデンバウムが倒れたことを伝える記事に掲載されていた写真を見ても、樹形や樹肌はなんとなく想像がつくのだけれど、葉っぱの大きさなどが不明。

ありし日のリンデンバウム(ゲーテアヌム内公園)

思い出そうとしても全く記憶がなかったので、よーし!実際に菩提樹を見に行ってみよ〜!と思い立ち、由布院近辺(今、母の家に居候中につき私、由布院在住)で菩提樹が見られるところ探したところ、ブンゴボダイジュという種類の菩提樹が存在することが判明。リンデンバウムとブンゴボダイジュではちょっとなんか、雰囲気ちがう?でも、まぁ、いいか。

ふむふむ。ブンゴボダイジュは「中国南西部の四川省と雲南省に生育するティリア・イントンサと同一種である」か。だとすると、中国から種を持ち帰った人が植えた?などなど、夢は広がる。早速、車で九重町の相狭間まで向かうことにした。

 ナビコビッチ(愛車のナビのあだ名)が指す場所は、大分県九重町の菅原という、日田から由布院に向かう途中の場所だった。宝泉寺温泉の近くだったので、山道を走る車が結構いたのに驚いた。しかし、宝泉寺温泉を通過してこんな山道を通る人って結構いるんだな。右も左も木しか見えないのに、でも信号があまりないからこっちを通って由布院方面に向かう人も結構いるのだろうか、なぜ、三隈川や筑後川沿いの美しい風景を楽しみながらドライブしたいと思わないのか。なぜ?カーブもあまりなくほとんど真っ直ぐにただひたすらアップダウンするだけの山道は、私にとっては長い樹木の壁紙が貼ってあるトンネルの中を走っているようで、川沿いのさまざまに移りゆく水際の自然の景観のない山道を走る意味を考えさせられた。散々考えたけれど、私にはきっと理由など思いつきもしないし、聞いたところで理解できないことなのだろう。

ありし日の日田のセブンイレブン前。日田のセブンイレブンは山小屋のような建物。


筑後川沿いにある朝倉の山田堰

菩提樹かぁ。リンデンバウムっていう曲があったなぁ。優美な樹木なんだろうな。人間でいったらきっとマリリン・モンローみたいなイメージ。釈迦は菩提樹の下で悟りを開いたっていうから、インドやネパールのあたりでは、ここいらでいうたら檜や杉みたいに当たり前にある木みたいにして、ふつーにある木なんやろな〜。菩提樹がふつーにあるって優雅やな〜。

 リンデンバ〜ウム♪ って歌いながら、風景の変わらない山道を走って目的地に到着。え〜っと、ここって?鳥居があるけど、何の神様がいるの?あ、看板があるやんか。え〜っと、菅原の里。農産地、生産者紹介?すがわら?え〜っと、菅原天満宮?菅原?菅原道真ゆかりの地?なの?

看板の前でしばらく考え込んで、しかしどうも看板には菩提樹のことは書いていなく、神社の近くにどうも大きな樹齢の古い萱(カヤ)があると書いてあったので、いや〜、別に萱が見たいわけじゃないんだけど、菩提樹がどこにあるかわかんないから、萱でもいいか。いや、よくないけど、まぁ、いいや。と、あきらめて神社へ向かった。境内の下の階段のわきに看板が立っていて、菅原道真が太宰府へ向かう途中、大雪によりこの地から動けなくなった際、自らの姿を萱で木彫して自分の身代わりとしたところ、雪がやみ旅を続けることができた。と書いてあった。

 ふぇ〜、身代わり!かぁ!

調べたところ、歌舞伎の演目で「菅原伝授手習鑑」という、菅原道真が出て、自らを木彫して身代わりとなってもらい危機を脱出したというものがある。しかし、それは大分の九重であった出来事から作られたストーリーではない。ふむふむ、これわ…

日本の伝統芸っていうか、伝説のあるパターンとして「危機脱出の技」というのがあると思うのです。古くは、古事記に出てくるヤマトタケルが野原で火事にあって、アメノムラクモという剣で草を薙いで、火打ち石で迎え火をして火事を相殺して助かったという伝説。不思議なのは、アメノムラクモは、スサノオが八岐大蛇を退治した時に手に入れた剣で、それはスサノオ自身が持っておらず、アマテラスに渡り、ニニギノミコトがその剣を譲り受け地上に持って下り、さらにその剣がヤマトタケルに譲られるまではヤマトヒメが保管していた。ヤマトヒメがアメノムラクモの剣と火打ち石をヤマトタケルに渡したという伝説が残っている。このアメノムラクモの剣がヤマトタケルの手に渡って、草を薙いで難を逃れたということで草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになったが、草薙剣の本物を誰も見たことがないというのが伝説の肝。えっ、そんなことってあるの?最大の危機を逃れることができたっていうのに、その証拠の品がないの?剣、ないの?あるの?ないの?
と日本人なら誰しも思うだろう。そして、伝説のお決まりのパターンどおり、菅原道真が身代わりにしたとされる木彫の実物を見た人は誰もいない。

 このような伝説を私たち現代人はどう受け止めるのかということ。それってやっぱ、嘘でしょ。何の証拠もないんだから。と言い切れるのでしょうかね?そのように私は思うのです。

ヤマトタケルの草薙剣について、もう少し詳しくその後を追ってゆくと、ヤマトタケルも自らを救ってくれた剣を自分では持たずに、妻のミヤズヒメに預けます。その後、名古屋にある熱田神宮に現在も草薙剣は奉納されているそうです。しかし、箱に収められている剣を見た人は誰もいないとされています。

 さて、ここで全くちがう角度から、伝説に現れる人間が見ることができない宝物について考えてみたいと思います。ある民族の遺伝的特徴は、命がつながってゆくことによって保持されます。それは物質としてはDNAとして情報が引き継がれるということになりますが、DNAは構造を持っており、その特徴は情報として解析可能なものです。日本人らしさとは何かということを、物質的な特徴として保持可能なように物質自体が情報を伝達していく性質を持っていること。そして、さらに言語によって民族の秩序が形成されることが民族の特徴を決めます。言語の持つ文法はその民族の思考や感情に秩序や形式を与えます。DNAと言語。この二つの民族に与える影響を同じものと考えるのではなく、私は別様であると考えています。

 人間や動物、植物の命についてR.シュタイナーは「エーテル」という名称で呼びました。人間や植物の遺伝的な特徴はDNAによって保持されます。それは、物質の領域とエーテルの領域に存在します。先ほどの伝説で出てくる、草薙剣や菅原道真が身代わりとして制作した木彫などは、民族あるいは個人のエーテル的な特徴を保持した物質的な存在として物語に登場します。それは、民族の血の流れを通して受け継がれることも可能であり、また個人の物質的形態やエーテル的な特徴を感覚として受け取ることが可能なような表現形式を与えることもできます。

 言語的な特徴とは、民族的なものに関わるのでエーテルの領域なのだろうか?というのが長年の私の疑問でした。日本神話に出てくる剣や菅原道真の身代わりとなった木彫、あるいは平安時代の陰陽師である安倍晴明が使役したという式神なども目に見えない存在として物語の中で語られています。これらのものと言語を関連付けて考えると、私たち日本人が継承している日本的である思考、感情はエーテルあるいは物質の領域に存在するのではなく、アストラルの領域にあるのではないかということが一つの結論として思い浮かびました。

アストラルという名称は、エーテルと同じくR.シュタイナーによって定義された、人間の魂あるいは心の領域で、感情、思考、意志を司どる領域のことです。それらは、エーテルよりさらに目のような感覚で捉えることができない領域で、例えばアウラのように色彩として知覚できるけれど、それは実際の目に見える虹のような自然現象として存在しているものではなく、アストラル的に見る(観照する)ことを通してしか存在しないものです。言語を支配する言語霊や伝説に登場する宝物あるいは式神のようなエレメント存在はアストラルとして存在しているのではないだろうかと思うのです。これが正解かどうかはわからないのですが、ただ神界と呼ばれる精神の世界に存在するものを知覚しようとしたら、アストラル的に観照することが可能だと思うのです。なので、日本語として私たちが日常的に使っている言葉も、その女神(私には女神に見えるのですが)の振る舞いとして知覚できるものとして存在していて、伝説の剣もアストラル的には確かに存在しているのです。

 そこで〜、ですね。ゲーテアヌムの落雷によって折れたリンデンバウムに話が戻るのですが、クリスマス会議1923-24年から100年目の今年に折れたのかということをエーテル的、物質的に考察すること同時にアストラル的に考察する必要があると思って。100年以上あった大きな木がなくなっちゃったわけなんですけど、これは精神界にとっては誕生であって、何かが成就したから落雷によって木が折れたと思うのです。何が成就したんでしょうね?

菅原道真が死んだのち、祟り神となりさらに学問神として人々から敬われるようになったきっかけに清涼殿落雷事件というのがあります。雷雨が天皇の住まいに降り注いで都を滅ぼしたという伝説です。まぁ、同じような理由ではありませんが、もしゲーテアヌムのリンデンバウムを落雷によって打ち倒すことができる存在がいるとしたらR.シュタイナー本人としかありえないような気がしますよね…。シュタイナーは何を今、伝えたかったのでしょうね。後世のアントロポゾフに託したさまざまな約束が守られていませんよね。プラトンだって生まれ変わって存在しているっていうのに、どこにいるんでしょう?本気で皆さん探してます?今日からでも急いで探しませんか?

清涼殿落雷事件