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アラ古希ジイさんの人生、みんな夢の中 フィリピン編⑰ マニラ湾の夕日

さて、今回は今まで出てこなかった、その他総集編のマニラに関するお話。

(1)マニラ首都圏
  マニラと周辺16市をまとめて、メトロマニラとかマニラ首都圏と呼ばれる。ショッピングモールや繁華街中心のマカティとか、官庁街のケソン(フィリピン電力や弊社の事務所もあった)とか、分かれている。因みに、2019年の統計による世界の都市圏の人口で4位(約25百万人)になっている(1位は東京‐横浜で人口3850万、以下2位ジャカルタ34百万、3位インドデリー28百万、7位上海22百万)。人口だけだと世界的な大都市圏という訳だけれど、確かに勢いでは相当なもんだと思う。これも随分前、オーストリアとデンマークの出張後、マレーシアに寄ったら、ヨーロッパの閑散としていたところから、人人のエネルギーに溢れた、アジアの世紀と言われる21世紀を目前にして、違いを実感したものだけれど、暮らしやすさは別としても、勢いやエネルギーは人が創るものだと思います。

(2)マニラ日本人会
  アメリカに居る時、日本人会のような組織があったのかさえ知らないが、途上国では、テロや災害、それに何より病気した時、日本人会のような組織があると誠に有難い。日本人会の診療j所は、日本語も勿論通じて、予防注射の残り(A型肝炎の3回目-期間を置く必要があったことから日本では受けられなかった)もここで受け、あと1回風邪をひいた時も診てもらった。
  予防注射は、日本で破傷風2回、A型肝炎2回、狂犬病2回受けた。狂犬病は結構痛かった記憶がある。マラリアもあることはあるが、地域が限定されていたので、受けなかった。
  日本人会は、そもそも親睦や教育、企業の交流等をメインにしていると思うが、当然我々は現場サイトがほとんどだったので、日本人会とはあまり縁がなかった。

(3)まにら新聞
  日本語の数ページだけのタブロイド版だが、日刊郵送で、マニラの寮⇒事務所に届けてもらえた。しかし、会社で購読していた訳ではなく、個人購読で、赴任時、自分の前任者が購読していたので、入れ替わって、自分が購読し、溜まったものを現地サイト寮に置いて、回し読みしていた。フィリピンの情勢とか、日本国内のニュースを時間遅れで、報道していた。中には、フィリピン人女性が、「子供を遺して、日本に帰ってしまった、罪作りな男の消息を尋ねる記事」もよく出ていた。ホント悪いことは出来ないものである。弊社にも、会ったことはないが、フィリピンに子供を残して帰任してしまった罪作りの男がいたそうである。よくクビにならなかったなあ?と呆れたものだ。(口の悪い不良中年の先輩が、フィリピン赴任を「レストランに行くのに、弁当持って行く奴は居ねえよなあ!」と言っていたことがありますが、そういう思いが出来る国でもあることは確かです。)

(4)ショッピングモール
  首都圏のところで述べたように、マカティ市には、巨大ショッピングモールがいくつかあり、とにかく広くて、高級品からバーゲン品まで売っていた。もともと我々の寮があった外国人居留区も、後に借り上げ寮となったアパートも、マカティにあったので、ショッピングモールは徒歩圏内で、利用できた。現在は、おそらく、もっと立派になっていると思う(ネットで見ると、何百というショッピングモールがフィリピン中にあるようだ)。我々が宴会やパーティをする中国レストランは官庁街にあったが、マカティにはイタリア、オーストリア等のレストランもあって、たまに行っていた。東京ほど、世界のレストランがどこにでもあるところを、自分は他に知らないが、外国資本が世界を席巻している現在では、大都市には日本食を含め、各国の料理が食べられるし、世界のブランド品も買えるようになっているのだろう。

(5)大統領選挙
  アメリカでは、4年に1度の大統領選挙に当たったけど、フィリピンでは6年に一度の大統領選挙と、スペインからの独立百周年(本当は米西戦争の結果スペイン領からアメリカの植民地と変わったのだが、アメリカは緩やかな支配をしたので彼らは独立ととらえている。因みにその後日本も大戦中支配していた。)を経験できた。特に98年6月の大統領選挙は、正副と上院・下院の半分、それに地方統一選挙と同時で、国中が選挙に沸きかえった。選挙は実弾(現ナマだけでなく、本物の銃弾まで)も飛び交う、それこそ何でもアリで、選挙演説会は歌謡・ダンスショーと合体という、お祭りであった。
 そしてフィリピンでは、ジョセフ・エストラーダが第13代の大統領になった。彼は、レーガン元大統領以上に、フィリピンで人気の映画俳優であった。東南アジア、インド等の映画広告は、昔の日本同様、手描きの看板だった。さすがに今は、写真をプリントした看板が主流のようだが、やはり看板を描く職人が多く、手間賃も安いのだと思う。だから、エストラーダは、まさしくフィリピンの看板スターだった。発電所の完成時等にも来てくれた。その後、グロリア・マカパガル・アロヨ⇒ベニグノ・アキノ3世⇒ロドリゴ・ドゥテルテ⇒現マルコスJrと大統領は変わったが、フィリピンは着実に発展しており、歴代大統領の功績はやはり大きいと思います。

(6)マニラ湾の夕日
  マニラに限らず、西側に海や大きな湖があるところは、夕日が映えると思うが、アメリカの西海岸には何回も行ったが、夕日を眺めた記憶がない(1回だけクリント・イーストウッドが市長をやったカーメルの海に面したところで、夕食を摂った時に夕日を見た後、すぐ目の前をイルカが何頭も泳いでいて壮観だった、夕日よりイルカしか記憶にないが)。日本の九州や沖縄でも、随分見る機会はあったはずだが、余裕がなかったのか、あまり記憶がない。台湾の台北に近い、淡水というところの夕日は、そういえば大そう綺麗だった。
  マニラ湾の夕日は、日中暑く、夕方やや涼しくなるので、余計夕日の美しさには感慨深いものがある。第2次大戦中、フィリピンでは激戦が繰り広げられ、フィリピン人、アメリカ人、日本人が大量に犠牲になった(フィリピン111万、日本52万、アメリカ1.5万)。特に日本兵の多くは餓死である。自分のフィリピンでの仕事も終わりに近づいたが、何とかやれたのは、何と言っても、反日感情が余りなかったこと、フィリピン人のやさしさに尽きる、とよく思ったものだ。
  
マニラ首都圏の人口密度は、東京の約3倍で、ホントに街のつくりも人もゴチャゴチャだけれど、人のやさしさで救われているなあ、と思う。
マニラは、危険なところさえ避ければ、女性でも十分楽しめる、と思います。

今回の1首
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける    
                      紀貫之(古今集)


マカティのショッピングモール
マニラ湾岸
湾岸(右側)のホテル群

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