著者ではないライターと、小説家の原稿に入る直しの違い

もう鎮火したようなので、私見を述べても大丈夫じゃないかしら、というあの話。
小説家や漫画家などの原稿に対する認識と、ライター(著者として名前が出ない場合)や(おそらく)脚本家の原稿に対する認識には、大きな海を挟んでいるくらいの違いがあるのではないか、という話。


脚本家の大変さというと、映画「ラヂオの時間」が思い出されます。
自分の書いた筋を、あれやこれやの都合で、どんどん変えられていく。
それでも、自分が書いたと言わなければならないつらさ。
胃が痛くなるような映画です。
(ただし、めちゃくちゃおもしろいです。)

おそらく、脚本家のかたは、あの映画ほどではないでしょうけれども、自分の書いたものを変えられていくという経験はあるのではないかな、と推察します。

自分はライターですが、何人かで一つの本を書いているときや、補助的な文章を書くとき、原稿の文言が変えられることはよくあります。
もちろん、それを嫌がるライターのかたもいます。
前に、原稿に赤入れされたショックを受けてしまい降りた、というライターさんがいて、その後を受けて仕事をしたことがあるので、ライター全員が原稿の文言を書き換えられることを覚悟しているとは限りませんが、そういうことはある、ということです。

(ただし、著者として名前が出る場合の原稿は、小説家などの場合と同じです。ここで紹介したライターの仕事は、あくまでも、紹介文や解説文など、ある商品の部分的な仕事をした場合です。奥付などに名前が出る場合もありますが、著者として、あるいは著者と名前が並ぶという場合は、原稿の直されかたは小説家と同じです。)


一方、小説家はどうかというと、基本的に原稿に赤字が入ることはないと思われます。
私は、小説の本も出しているので、Googleで小説用のペンネームを検索すると概要に「作家」といけしゃあしゃあと出てきて、「あなた、作家と認定する幅が広すぎるのではなくて」などと悪態をつきたくなりますが、一応、小説家として活動したことがあります。

そのとき、原稿に赤字は入りませんでした。間違いがあっても、鉛筆書きで、「ここは○○ではないですか?」というように疑問出しがあるだけです。
直すも直さないも小説家次第。
ありがたいけれど、ある意味怖い。
したがって、基本的に小説家は、自分の文章がそのまま商品になる職業だといえるでしょう。
もちろん、編集さんや校正さんの鉛筆書きがないとどうなるかというと……推して知るべし。たぶん、書き手の無知と書き間違いと勘違いがそのまま本になるという、あってはならない状態になります。(私の場合だけかも知れませんが……。みなさん、けっこう完璧な原稿をお書きになっているのかもしれません。)

おそらく、漫画家も似たようなものではないでしょうか。
編集者が勝手に漫画を書き換えられないでしょうから。


さて、件の原作有りの作品の話。
もちろん、関わる人全体の話ではあるのでしょうが、
上記のような、それぞれ原稿に対する意識が違う人同士ずれが、問題を大きくしたような気もします。
片方は、原稿はある集団が「いいもの」と考えるものに近づけるため、変更可能なもの、と考えていたとします。
ところがもう片方は、原稿の表現全てに責任を負わなければならない、と考えていたとします。
前者からすれば、改変できないってどういうこと? となるでしょうし、
後者からすれば、改変されると表現に責任が持てないよ、ということになるでしょう。
また、前者の改変のレベルは「ラジオの時間」みたいなレベルかもしれないし、後者の改変のレベルは、あくまでも自分が把握できる範囲かもしれない。
たぶん、話がかみ合わないでしょう。


トラブルを避けるための方法を、比喩的に言うのなら、
最初に、原稿に基本赤字が入らない仕事をしている原作者に対し、そうでない側が、「ラジオの時間」を紹介し、なんなら一緒に観て、「こういう感じに、さまざまな事情で改変されますが、原作者って名乗っていただけます?」って確認を取るのがよいと思うのです。


以上、私見であり、戯言でありました。

余談ですが、Web小説に投稿するときも、ちょっとビビることがあります。編集さんも校正さんも関わっていない原稿を、いきなり公開するわけですからね。
でもまあ、それはお金を払わずに読めるサイトに載っているもの、ということで、ご容赦いただきたく。

拙作のことは、まあ、おいていただいて。

どのWeb小説も、書籍化される際に、編集者さんや校正さんの手を経るので、読み手にとっては、かなり良きものになっているのではと思われます。ーーというのは、もっぱら、本を買うことが多い私の希望でもあります。

以上、余談でした。

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