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子育て奮闘記 絵描きの視点から

父子家庭という挑戦

プロフィールを作ってないのでアレですが、私は2019年から(厳密にはもう少し前から)父子家庭として生活しております。

もともと、料理や家事全般に関して、割とできるというか好きな方なので、父子家庭でもさして問題はないと考えていましたが、実際やってみると家事部分だけでなく大変なことはいろいろありまして。

私、生来面倒くさがりなので、そういうダメな部分が生活の質を下げているのは間違い無いですが、それはまあいいとして、育児に関して考えられることはできるだけなんとかしようと思っているところがあります。

もちろん生活の質が低いこと自体が育児に悪い影響を与えているとご指摘されるならば、ごもっともももすももももものうちですが、それはそれとしてちょっと置いておいて。

もっと違う視点での子育て奮闘記を描いてみようかと思いました。

絵描きは独り言の癖あり(個人の感想です)

ものを作ったり絵を描く人間のよくある行動から紐解いておきましょう。
まずは、何にでも話しかける。
みんながみんなそんな風かどうかわかりませんが、割と独り言や話し掛けが多いように思います。それは今までの数多のひとびととの関わりで何度となく感じてきましたし、自分も日常的に行なってしまう癖。
あいつヤベェ、なんかぶつぶつ話しかけてる⁉︎って言う自分もそれを独り言でって。
よくある話ですね。あるあるです。

自分語りをすれば、声に出すかどうかは別としてなんでも、誰でも、ものでも、生物でも、場合によっては空気にさえも、話しかけてしまうタチです。

自覚ある場合と自覚がない場合と色々あるのだけれど、どちらにせよ、自分の中の何かと会話しているのは確かで、それによって考えや想像や意識の外の眼のようなものの精度が上がっていくと信じているところがあります。

オカルト的霊的なものなのか、人間という未知なる生物にそもそも備わっている能力なのか、どうしてそうしてしまうか細かい理由は分かりませんが、私はもっと明確に相手に対して話をしてしまうことがあり、それによって何かを受け取れる場合を経験している(気がする)ので、どうしてもそういう行為を軽視できないでいます。

例えば初対面の犬猫や、その瞬間たまたまあった幼児や乳児。
下手すれば、捨てられた人形やおもちゃ、忘れられたカバンや靴なんかにも話す可能性あります。そういう物や者達に話しかけると、思わぬレスポンスが帰ってくることがあります。

そのほとんどは自分の妄想かもしれない、と考えつつも、それと同じくらい勘や経験、精神に大事な糧となって影響してくれたりするので、やはり、話しかけることは絶対に必要なことだと考えるに至っています。

育児はきっと会話だと思った

そういったことを踏まえて育児をできたらと、子供ができる前に考えていたし、生まれてからは経験的に対話することを惜しまずに模索して実行していくこととなりました。

育児を始めたのは前妻が産後うつで入院した、息子が生まれて3ヶ月の頃。
もちろん、自分でも育児には興味があったので、参加するつもりではいましたが
まさかほとんどの時間で関わるようになるとは思いませんでした。

初めのうちは、全くと言っていいほど訳がわからない状況で、未経験事案の連続。
聞き取ろうとしてもよくわからず、雰囲気を見てもほとんど理解不能で。

ですが、初めて言葉の通じない相手との幾日もの生活で、最初に感じたのは、
会話もままならないこの小さな者も、きっと何かを話しているのだろう
と思ったことでした。

しかし、それはこちらにはもちろん理解不能で。
たとえわかったとしても、それは根源的な欲求がほとんど。

寝たい、腹へった、うるさい、気持ち悪い、おしっこ、
うんち、などなど、そういう生活していて感じる最低限のもの。

でも、その中にもっと違った雰囲気を感じ取るように注視するよう
何かを試してみたいと思ったのです。

そこで、息子に絶えず会話する作戦を決行したわけです。
もちろん会話が成立するわけではない、キャッチボールになるわけではないのに。

それでも、子供から受け取る何かがあるならば、その子も何か相手に伝わった感覚を得られるかもしれない、そう思っていろいろと続けていきました。

空を切る会話

その頃の私は、息子と無闇矢鱈で一方的な会話をしていました。
息子が泣けば、一般的にはというか経験者であるならば、
おしっこ?うんち?お腹すいた?眠い?と聞くようなところでも、
私は、夜になるのが怖いの?とか空気が冷えて顔に当たると痛いね、など。
確認のしようがない、自分がその時、感覚的に思ったことを尋ねる行為を
常にし続けていました。

もちろん、欲求的な質問、、、例えばお腹すいたの?などを投げ掛ければその場は収まるようにも思いましたが、それでは、息子、いや彼が、それ以外のフと感じた感覚を表現したくなった時の一助にならないと思い、欲求を読み取る以外の感覚的な問いも併せてするようにしていました。

側から見ると、図体のでかい男が一人でぶつぶつ話しかけ、時に、ゲラゲラ笑って、
完全に同化してる姿を日常的に晒してきたのです。

そのせいもあってか、息子は今ではよく話すようになった気がします。
そして、話すよりももっと別の形を模索する用になっているようにも思います。

表現というのが根付いた、かもしれない

乳児の時から色々な話をし、またはリズムに合わせてラップをし、はたまたその時の状況を載せた歌を即興で歌いながら育ててきました。

もっといえば、夜のBedtime Storyは即興でお話を考え何話にもわたる壮大なお話を考え、それを毎晩聴かせて寝かしつけたり、まあそういうことも出来る限りしてきました。親としてというより、私個人として面白いし、息子の反応はそれ以上に興味深いものとなっていきました。

ある日、それは突然やってきました。
その日はショッピングモールに出かけた日でした。
ファストファッションのお店を見回ると、おもむろに彼は、店内のEDMに体を委ね唐突に、踊り始めたのです。
店員の皆様はニコニコ、周りのお客さんも朗らかな顔でその光景を見ていました。

それを止めるでもなく、一緒にやるでもなく遠くから眺める。
とても良い瞬間だった。映像なんて撮る暇もなく。

きっとあの瞬間、何かが芽生えたのかもしれない、と。

それからというもの、彼の表現力が言葉ありきにしろ、動きにしろ、踊りにしろ、
格段に上がった気がします。彼がまだ4歳の頃。全く末恐ろしい。

ある時は公園で鳥と戯れている。明らかに鳥は息子をあやしているような行動。
それを見て息子は追いかけ、追いかけられるかどうかギリギリのところで鳥は降りてきて毛繕いの様子。またも息子が追いかける、鳥は鳴きながら飛んで楽しそう。
奇跡のような素晴らしい光景でした。

またある時、息子が枯れた枝葉を取り、不思議な踊り始めました。
何してるの?と聞くと、「風を吹かせている」と。
息子はその風の舞をしばらく舞い踊り続けます。
すると、佳境に入るあたりで本当に風が。息子はやめない、風は強くなる。
すごい光景でした。目に焼き付いて忘れられない。

最近では、心配になるようなこともあるが、基本放っておいています。
そして、今度はもう少し言葉を使ったせめぎ合いもしています。
そして、いけないことを叱る場合は、激しく叱るようにもしています。
ちゃんと私の怒りを表現しなきゃならんと思う。
そうでなければ、彼は悪いことをしたことを感じ取れないかもしれないだろう。
そんなに怒ることはなかったとしても、叱るときは少しはっきりと叱るようにしています。

やはり表現というのは全身全霊をこめて行うものだと思います。
適当でも適度でも中身がなけりゃ伝わらない、そう思っています。
量や強弱じゃない、質の問題。きっとそう。その人の思いが入った行動であればきっと何かしら伝わるはずで、それは知識や経験では補いにくいようなものを最短距離で伝えられる信号発信技術なんじゃないかと思います。

きっと彼はそれを親父の変な教育で会得したのかもしれない。
かもしれない。
かも。しれない。

良いのだ、それで

別段気にしなくても良いのだ、とも思います。どこかで何かしら学ぶ心術体術だと思ってるから。
でも、周りを見れば、そういうことは蔑ろにされがちな気もしてます。
まずはうちの子から、いろんな行動を促してみようと思います。

今や、というか初めからかもしれないけど、息子の表現力は親の私を超えております。
求心力や、浸透力は半端ない。人集め、輪の中に入るなどは、何のストレスもなくどこでも何が相手でもできるようで、完成したのち発展著しく。

変人になっちゃうなぁ。間違いなく。まあ、良いのだ、それで。
それでもきっと彼が得た稀に突発的に超越した力が、彼を助ける日がきっとくるのだ、
と私は常日頃から思っています。

育児奮闘記もいろんなスタンスで書き増やしていこうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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