理想と見積もり

人間のことを好きになろうとするたびに人間が嫌いになっていく。

この世には治安の良い場所も悪い場所もあって、家庭や学校のクラスのようなごく小さなコミュニティであってもその差は千差万別だと思うんだけど、仮に人類全体として見た時の善悪のスコアを50ぐらいとした場合自分はどの位置で生きてきただろう?
きっと80ぐらいのときもあれば20ぐらいのときもあって、平均して50ぐらいにおさまってるんだろうか。

生きてきた環境のスコアが低いほど苦しいのかといえば、それはもちろん生きづらいだろうけど私はちょっと違うと思っていて、
多分、それぞれが人間に対して抱いてる「こうあってほしい」理想と、「実際はこんなもんだろう」という見積もり、その乖離が大きければ大きいほど苦しむんだと思う。

私は実際、かなり悪い環境で何年も生きてきた経験から人間をかなり低く見積もっている部分がある。人間なんて凡そが邪悪で他者を蹴落としたいとかいたぶって楽しみたいと思ってるんでしょう、みたいな、人間に対するある種の失望や嫌悪が意識の深くに刻まれてしまっている。
一方で、人間とはかくあるべきという理想があまりに高すぎる自覚もあって、人は皆キリストや釈迦のようにあらなくてはいけないんだ、それすらも完璧ではない、という脅迫的な正義感が自分や他人への失望を強めているなという感覚。
スコアの話でいえば、実際の人間がまあ50ぐらいが普通なのに対して100の理想と0の見積もりをぶつけている。だからギャップが大きい。当然だ。

人間は自分が思うほど邪悪でもなければ高潔でもない、そう頭で理解していても、心の奥深くに染みついた感覚というのは理性よりもずっと強固で、今日も人間を勝手に美化したり嫌悪したりしている。
もう記憶も思想もすべて取り払って、理想も見積もりもなしに、ありのままの世界を受け取れたらいいのに。
そうしたらきっと、今より楽なはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?