第10話 描けない

 それから、何日か後。

 その日も、わたしは絵を描いていた。

 お母さんの作業室とは別の部屋。昼を過ぎて気温はその日の最高に達しているけれど、わたしは冷房をつけず、あえて窓を開け放したまま、画用紙に薄く鉛筆を走らせていた。

 気持ちよく晴れているのに、窓の外にも風はほとんど吹いていなかった。
 弱のまま首を振っている扇風機が日差しを遮るカーテンを少しだけ揺らして、そのたびに部屋の明るさが変わる。
 外から聞こえてくる蝉の合唱は体感気温をさらに上げていた。

 まとわりつくような暑さの中、描いているのは一輪の向日葵だ。
 高く、大きく伸びた向日葵。周りには何もなくて、ただ一本だけ他から抜きんでて飛び出しているイメージ。
 風景の中に溶け込ませるのではなく、向日葵だけを一輪。広く咲いた花と太い茎は力強く、さらに真正面ではなくもっと上を向かせることで上へ向かう士気を載せる。
 画角に入る全体像を頭の中に描きながら、頬を伝う汗をシャツの袖で拭った。 

 ここからは、鉛筆で書き込むよりも、細い筆で黒を重ねた方がいい、かな。
 そう思って、一旦鉛筆を置いた。

 絵に対する感性は暑い部屋の中でも十分に機能していた。

 今描いているこの絵のイメージは、あのコンテストの絵から持ってきていた。もっと正確に言うなら白雪さんの絵である。
 白と黒に、ほんの少しの赤だけで描かれた花の絵。油彩だったけれど柔らかで、水彩、もっと言えば水墨画に近いようなデザインのあの絵にわたしの中の何かが引っ張られていた。

 それが、元々わたしが持っていた絵が描きたいという気持ちがまっすぐ表れているものじゃないっていうのも何となく感じていたけれど、あえて深く考えないようにしながら筆を取る。

 悔しさは抱えていい。悪いものじゃない。
 お父さんと話してそれは理解した。
 それでも、絵を描こうとすると不安が持ち上がるのだった。

 あの日から、コンテストで初めて負けた日から、ずっと、
 大丈夫、大丈夫。
 そう言い聞かせながら、右手を振るっている。

 今のところ、筆は以前と変わらず、しっかり走ってくれていた。
 向日葵を、雲を、山を、森を、湖を、風鈴を、何枚もの絵を自分の心から取り出して、それが今までと遜色ないレベルで描けているのを確認する。

 夏になると人物画より風景とか静物画が増えるのも、いつもどおり。
 変わってない。
 わたしは、何も変わってない。

 不安を振り払うように深く息を吸う。吸い込んだ空気は冷たくも暖かくも無い。勿論味も無いんだけど、いくらでも吸い込めそうだってのが勘違いなのは知っていて。限界まで吸い込んでから大きく息を吐くと、それはなんだか溜め息みたいに聞こえるのだった。

 この息には、何も乗ってないよ。
 誰かにではなく、自分に言い聞かせるために、声に出さずに口を動かした。

 新しい画用紙をセットするために椅子から立ち上がると、足元がふらついて慌ててそのまま床に座り込んだ。
 ひざと手をついて、ゆっくり大きく息を吸うとぼやけた視界はすぐに晴れていく。息を吐くと頭がちょっと震えた。側の床に置いていたペットボトルを手に取って中身を一息に呷る。半分凍らせていたお茶はそのほとんどが融けてしまっていたけれど、口と喉、通ったところをスーッと冷やしてくれた。
 口に出したくない言葉も、一緒に流し込んで喉を鳴らす。

 なんで負けたんだろ。

 それは、悔しさとは別のものだ。
 疑問というか、なにか理由があって負けたのならそれはやっぱり明らかにしておきたかった。
 頭の中にはそればかりが渦巻いていていつまでたっても離れようとしなかった。

 わたしは、今までと変わってない、と思う。何も変わってなくて、それまでと同じようにいい絵を描いてきたはずだ。少なくとも日本代表になれるくらいの絵ではあったのだし。

「でも、」

 それじゃあ足りなかった。
 少なくともあのコンテストで一等を取れる絵ではなかった。それがなんでなのか、それを確かめる方法は、今はない。
 あのコンテストは、順位は付くけれど批評もコメントももらえない。あるのは一等にならなかったという事実だけ。だったら、それが何なのか知りたいと思うのは、当たり前じゃないか。

 そう思ってその辺、お父さんに聞いてみたけど、

「んー、どうだろ、別に、何か悪かったわけじゃないと思うよ。何かを直さないといけないとか、そういうところにはもう無いと思う」

 といった具合でいつも通り、具体的なアドバイスはもらえないのだった。
 無責任じゃないかとちょっとムッとしたんだけど、それを口に出さなくてよかったなと思う。

 好きなことを、好きにやれ。

 わたしは、お母さんたちに「絵を描きなさい」と言われたわけじゃないのだ。
 自分がやると決めたことで、自分の力が及ばなくて出てきた壁に対して、自分で何も考えずに文句をつけようとしていた。
 それは、わたしの目指すわたしのやるじゃない。
 何が足りないのか、自分で考えて、自分で探して、身につけないといけないのだ。

 新しい画用紙を画版に挟んで、端までピシッと張ってからそれをイーゼルに固定する。
 部屋の隅にある扇風機を真横まで持ってきて、強さを最大にして首振りも止める。風が撫でる部分だけほんの少し温度が下がった。

 シャツの下にじんわりとにじんだ汗をタオルで拭って、改めて深く呼吸する。
 夏の熱を体の中に取り込んで、それを燃料にイメージを作る。
 カーテンがはためいてほんの少し部屋が明るくなる。外から入り込んだ空気が、夏の匂いをわたしに運んだ。

 閃く。

 その思い付きは、見たことのない空想の風景だった。
 深く、暗い、けれどそこかしこに熱を孕んだ、海の底。一筋だけ光が届き、そこにだけ青の濃淡がある。それ以外の全ては闇に包まれていて、生き物も何もない。
 それはほんの一瞬のイメージ、それでも、

(捕まえた)

 その感覚は現実ではないけれど、その確信に口の端が上がる。
 空想だろうと一度捕まえてさえしまえば、あとは右手を走らせるだけだ。
 何年も何年も積み重ねてきた鉛筆の動きは、しっかり画用紙を捉える。直線も曲線もその薄さを保ったまま素早く引けた。

 描くべきものは多くない。海の中で、光と、闇と、水と、空気。底に堆積する砂に「何か」を一つ。すごく曖昧なイメージを形作るのに必要な「ほんの少し」を、必要なだけ置いていく。進めているうちに置くべき色もだんだんと見えて来て、一つ、また一つと頭の中が更新されていく。
 なんとなくの完成図が頭の中に浮かんで、あとは何がいるかなと考えながら右手をほんの一瞬だけ止めた。

 なんだかこれ、珍しいな。

 ふと、そう思った。
 わたしが今まで描いてきた絵とは何となく違うと感じた。それが何かは判らない。モチーフか、温度か。海ではあるけど海面ではない。生物もおらず、夏らしさを感じさせる色もほとんどない。抽象画というほどではないけど、風景画でもないような。厳密なジャンル分けには詳しくないけど――
 そこまで考えたとき、

 右手に、ざわりとした感覚が混じった。

 不思議に思って指の間でくるりと鉛筆を回すと、つかみ損ねて鉛筆が手から滑り落ちる。
 え、と思ったのと鉛筆が床に落ちるのが同時。
 そしてそれを合図に、自分の中にあった熱がじわじわと離れていく感覚が始まった。

「あ、」

 声が出る。
 熱さを感じていた空気が自分の周りからどんどん逃げていく。
 感じていたはずの風もいつの間にか無くなっていて、それまでのイメージに、寒く澱んだ空気が纏わりついた。
 海の底には光が届かなくなり、その温度を感じさせるものが消える。

 背筋から頭まで、震えが走った。
 さっきまでの感覚を取り戻そうと頭の中でイメージを作り直すが、上手くいかない。纏わりついた黒い空気が胸の真ん中に居座って、どんどん冷えていくような気がした。
 何をすればいい、どうすればいい。

「ま、待っ」

 鉛筆を拾おうと屈んだ先で、そのまま床にぶつかってしまう。肩を強く打ち、鈍い痛みが頭に響いた。痛みに開いた口が震えたまま止まらなくて、ガチガチと歯がぶつかる音が聞こえる。
 起き上がろうと力を籠める手が、どこにあるのか判らなかった。肩の先に繋がっているはずのそれが、目に見えているのに思うように動かせない。

 あ。やばい、かも。

 声をあげた。お母さんが、二つ隣の部屋にいる。絵に夢中で気付かないかもしれないとか、呼んだところで運んでもらえないとか、そういうのが頭をよぎったけれど、どちらにしても呼ばないと、まずい。そういう判断はできたし、自分では声を上げたつもりだったけど、自分が何を言っているか、そもそも声を出せているかも判らなかった。

 息を吸う。周りにある熱を取り込もうと何度も何度も呼吸をする。息をするたび口の中は熱くなるのに、肺に空気が入る感じが一切しなかった。
 体の真ん中から黒い何かが全身に広がり、触れた部分がどんどん冷えていく。
 耳鳴りがし始める。薄い羽根が回るような音は不快さを増しながらどんどん大きくなり、怖いという感覚も無いまま、わたしの意識は途切れた。

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