第9話 反応

 最初はやっぱり、間違いだと思った。
 何かを見落としているんだと思った。

 ページを上に下にと動かして、一つ一つゆっくり名前を見ていった。アリスって名前も、夏目って苗字もどこにも書かれていなかった。

 読み込みを急ぎすぎたかもしれないと、ページを更新してみて受賞者の名前や国籍、そこに表示された絵が変わらないか何度もやってみた。
 わたしが、別の名前で登録されているとか、他の国の人と間違えられてないかとか、別のカテゴリに交じってしまっているんじゃないかと、何度も何度もそのページを行き来した。

 ページの情報が何も変わらないと判った後、わたしは年度を間違えているんだと思った。
 このコンテストはもう二十年以上の歴史がある。わたしが応募し始めたのは今年からで、その前年なら勿論わたしの名前はない。
 そう思って一度わたしの名前で検索して、ホームページに入りなおした。
 翻訳機能は切れていたけど、西暦で書かれた数字はそれでも変わらなかった。

 飛んだリンクが間違っているんだと思った。
 わたしが覚えていたコンテストの名前は「ヤングアーティストコンテスト」とは別物だったし、何かの間違いで他のコンテストの賞に飛んだんだと思った。
 サイトに載っていた森白雪っていう名前はたまたましづかさんと苗字が同じだけの中学生で、それがたまたま別の絵のコンテストで優勝しているのだとそう思った。
「夏目アリス」の検索結果の一番上が、未だに国内予選優秀賞だということに気付いたときも、まだその更新がされてないだけなのだと、思っ――

 いや、違う。
 わたしは、それに気付きたくなかったのだ。
 だから、そうじゃない可能性を頭がどんどん思いつく。
 ちょっとでもありそうな、でも少し考えたら判るようなちっぽけな可能性を、現実から目を逸らすための言い訳を探す。
 そしてそのどれもを大方否定できた時、ようやくわたしはその現実を受け入れる。

 わたしは、他の誰かに、絵で負けたのだ。

 それは人生で初めてのことで、その衝撃に放心した。
 今まで、誰にも負けたことなんかなくて。それこそお母さんと同じようにたくさんの賞を取って来て、これからもどんどん取っていって、同じように負けることなく進んでいけるんだろうと、そう思っていた。
 そう思って、その目標を立てて進み始めたばかりだった。

「あ、う」

 声にならない言葉が口の中で混ざる。
 頭を重い物で叩かれたみたいな耳鳴りが響いて、自分の真ん中に黒い何かが降りてくる。
 自分の体重とは別の重さを感じて、足元が少しふらついた。

 パタパタとスリッパの音を立てながらお母さんがリビングにやってきた。お母さんはお風呂に入ると画家のスイッチがオフになる。だらしないモードでは風呂上がりのこの時間が一番身嗜みが整っていて、丁寧に乾かされた髪はふわふわしている。

「ん、アリス、どーしたの?」
 ふわふわした雰囲気そのままに、ふわふわな質問をぶつけてきた。

「あ、えと」
 返答に詰まってるとお父さんもあとからやってきて、

「どうだった?」
 ズバリ聞かれた。

「あ、えと、」

 もう一度詰まる。今までにこういうことは無くて、だからお父さんもわたしが同じ報告をするのを疑っていなくて、だからそう率直に聞いてくるんだけど。
 お父さんのそれを期待だと捉えるなら、それに応えられなかった返事をしないといけないことが――いや、何だろう。うまく言えない。辛いのか、悲しいのか、苦しいのか、恥ずかしいのか。そんな色々が綯交ぜになっているけど、どれも正しくはなさそうだ。

 わたしの真ん中に下りてきた黒っぽい何かは色と同じように相応の重さを持っていて、わたしの口はそれに塞がれるように重くなっていった。
 それでも、わたしは口にする。
 できるだけ、軽く。何でもないように。何も気にしていないように、そう聞こえるように。

「ダメ、だった」

 無理だった。
 どれだけそうしようと思っても、重く塞がれた口を開いて出てきた言葉は明るくならなかった。
 うつむいて、前を見れなくて、フローリングを見ながらつぶやいた言葉は暗く沈んでしまって、お母さんたちに届けるというより地面に向かってしゃべっている形になった。

「あ、そーなの?」

 だから、ふわふわしたお母さんのその言葉に、わたしは驚いた。

「え?」

 怒られると思っていたわけじゃない。笑われると思っていたわけでもない。それでも、少しは残念がったりはするだろうと、そう思っていた。
 けれどお母さんは、ふわふわした言葉を投げるだけだった。

「そんなこともあるでしょ。気にしない気にしない」

 それだけ言って、てってこリビングから出て行った。後ろ手にドアを閉めるときにあくびを一つ残して、おやすみーと言いながらぱたんと閉じられたドアの音は、お母さんの軽さそのままだった。

「……」

 少しの沈黙。

「まぁ、ああいう奴だから」

 そんな風にお父さんがフォローする。テーブルに寄ってくるとその椅子をギッと引いて、掌を向けてきた。

「それで、ダメだったの?」
「あ、うん……」

 お父さんにスマホを渡す。椅子に座って、受け取った画面をするすると動かして眺めると、「あらほんとだ」と一つ呟く。

「……初めてだっけ?」
「うん」

 お父さんは、ちゃんとわかってくれていた。
 一番に限らず、コンクールに出品して、受賞に至らないということが初めてで、それに少なからずショックを受けていること。そしてそれをお母さんがまったく気にしないで、戸惑っていること。

「そっか」

 そう言ってポンポンと隣を椅子の背を叩く。促されるままに椅子に座ると、重さを支える部分が増えて、心も安定するような気がした。

「これは、責めたりしてるわけじゃないんだけどさ、」
 お父さんはそう前置きして、聞く。

「どう思った?」
「どうって、何が?」
「負けてしまって、というか、まあ僕は絵の表彰とかで負けって言葉あんまり使いたくないんだけど、今回受賞できなくて、どう思った?」

「なんで、そんなこと聞くの?」
「僕が知りたいんじゃないよ」
「?」

 スッと息を吸って、続いた言葉はまず質問だった。

「アリスは今、絵を描くのやめようとか思ってる?」
「思ってない」

 即答した。

「だろ?」

 それを聞いて、お父さんは苦笑する。

「アリスは、これからも絵を描いていく。そして色んな賞に挑戦していく。ずっと絵を描いていくんだったら、ずっと勝ち続けるってことは絶対に無い。自分の描く絵が、世界の全員に良い評価をされるなんてことは絶対に無くて、描き続けていく限りどこかで必ず一番を逃す。今日は、その一回目だ」

 お父さんは目を細くする。
 普段しっかり開かれている目元が、優しく緩む。

「絵ってのは芸術だ。明確な点数で比較するわけじゃないし、その評価も人によって変わる。もちろん技術的な水準はあるけど、これから先に進んだらそれを満たしている人たちしかいない。そうなったとき、極端な話をするなら同じ絵だとしても出す賞によって、審査員によって受賞出来る出来ないは変わってくる。だから、こころちゃんが言ったように、その結果を気にするなってのは、一応正しい」

 お母さんの言葉を拾って、それを言い聞かせるように続ける。

「でも、画家だって人間だ。評価されれば嬉しいし、評価されないのは悔しい。それは当たり前の話だ」

 そう聞いて、悔しいという言葉がわたしの心に引っかかる。

「だから、まず自覚しよう。自分がそういう負けに出会ったときに、どういう風に感じて、どんなことを考える、どんな人間なのか。それを、自分で知っておくんだ。それを知っておけば、次に負けた時にどういう風になるのか大体判るし、どういう事をすればいいのかって対策もできる。やっちゃいけないこととかやらないほうがいいこととか、そういう線引きもできるようになる」

「どういう、人間なのか」
「そう。だから」

 お父さんは、これまでよりいっそう真面目な顔で聞く。

「負けて、どう思った?」

 わたしの目を見つめるお父さんの視線はまっすぐだった。
 それを受けて、わたしの中にできた黒い塊がぐらりと揺れる。
 それを持つことも、吐き出すことも悪いものじゃないんだよと教えられて、それを一つ一つ小さく削って、言葉に乗せて外に出していく。

「……最初は」
「うん」
「間違ってるって思った」
「審査員?」
「とか、大人の人が間違って、わたしの名前載せ忘れたんだって」
「それは……うん」
 お父さんは、何か言おうとしたけれど、それを引っ込める。

「なんで負けたか判んない」
「うん」
「みんな上手くないのに」
「うん」
「絶対に、わたしの方が上手いのに」
「うん」
「だから、」
「……」
「悔しい」

 顔は上げられなかった。黒いものが口からどんどん吹きこぼれて行く。それは間違いなくわたしが思っていることなんだけど、今までそんなものがわたしの中にあるなんて思ってもいなかった。

「悔しい、悔しい、悔しい、」
「うん」

 言葉はどんどん強くなる。より大きな塊が次々に出て来て、それを受け止めるお父さんの言葉はそれに合わせてどんどん優しい響きを纏う。

「死ぬほど悔しい」
「それでいい」

 そう言って、言葉と同じように優しい手で頭をなでてくれた。

「それは別に悪いことじゃない。負けて悔しいのは当たり前で、負けてしまうのも当たり前だ。ちゃんとそれに向き合っていけるんなら、アリスはもっと上手くなる。だから、今は悔しくていい」

 全部吐き出すのは無理なのだろう。黒い塊の内、いくらかわたしの中に残るものはあって、まだ引っかかってもいるけれど、さっきより、だいぶ減って軽くなった気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?