相手の視点は、双眼鏡を借りるような感じ
同じ目線になる、の話。
相手とおなじ目線に立って考える、ということは
えてして子どもなど 社会的に弱者と言われるような存在であることが多い気がして
なんだかその時点で「自分が1段おりて、よりそって、あげる」というニュアンスすら感じてしまう今日この頃です。
もちろん言葉自体にそんな意味合いはないのですが
使われている場面を思い返すと……という印象。
身のまわりにあるものを自分とは違う視点で捉えている存在は、子どもでも大人でも、まずは自分が認めて、そのうえで相手の視点に近づくことができるように自分が工夫していく、という姿勢でいたいものです。
なんでこんな話をするに至ったかといいますと
クラスに車や電車のタイヤがものすごく好きな子がいるので、なんとかその子の視点になってみたいと先程ひとりで挑戦して、がんばって目でタイヤを追いかけて見たところ、5秒で酔いました。
そういえば、幼いころ、車や電車の速度に自分の足や目が追いつかないことに、軽く絶望しながら憧れたり驚いたり、ということをたしかに感じたなぁと思い起こしまして。
わたしとしてはそこで終わった「車と電車の速い世界への憧れ」ではありましたが、その子にとっては今も追いかけている存在であるようなので、勝手に打ちひしがれて、そのことすらも忘れていた自分を思い返してみると、やっぱり相手の視点に立つということは「自分があわせてあげること」ではなくて、「その視点を覗かせてもらうこと」、に近いのでは、と感じました。
……ますば三半規管がつよくなりたい。
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