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『写真撮影基礎技術 - 視る訓練』より

写真が上手くなりたいと言う人は多い。どんな写真が上手い写真だと思う?と聞くと、「〜みたいな写真」という声ばかり返ってくる。しかたない。だれだって入口はそういうもの。まだそういう写真としか出会ってないんだから。

本を買ったり自分で練習したり。皆それぞれ独学で学ぶ。しかしそれはテクニックだけ。だんだん「テクニックを見せる写真」になっていく。いわゆるコンテスト写真だ。

コンテストに通るには審査員の顔ぶれを見るのがいい。審査員が最も得意とする分野か、最も撮らない分野の写真を選ぶと通りやすいと言われる。もちろん「誰が見ても良い写真」じゃないと、どうしてこんな写真が金賞なんですかとクレームが来る。そういった客観的視点もしっかり計算して応募する。自分が好きな写真というだけでは通らない。

さて、そのような競技写真のほかにも写真の楽しみ方はたくさんある。そもそも写真は、いつ・誰が・何を・どう撮ろうがまったく自由。けれどテクニックしか持たない人は、被写体を見た瞬間から持っているテクニックだけで料理を始める。被写体がなんでもたいして変わらない。なぜなら彼らはそこに大事なテクニックが欠けていることに気付かないから。なんのことはない、どう撮っても良いのに自分を縛るのはそういう自分自身なのだ。

欠けている大事なテクニック。それは、いつ・どこで・どんなふうに・どのテクニックを『どれだけ使うか使わないか』だ。人物でも風景でも、ここが決定的に重要。けれど軽視して料理しまくる。これが自分の持ち味ですと胸を張る。しかし実際は、どんな料理に対しても自分のソースをどぼどぼかけているに過ぎない。素材の持ち味なんてどこへやら。ソースの味こそ自分の味だと思い込んで最後まで気付かない。それじゃ食べる人も作る人も飽きが来る。


閑話休題。写真には「上手い」写真のほかに「イイカンジ」の写真があることをご存知だろうか。一枚の写真の前からなぜか立ち去りがたい、そんな体験はないだろうか。色がきれいで構図バッチリな写真なら納得できる。けれど構図もピントも「なっちゃない」のに、ときには何を撮ったかさえわからないのに、その写真がなぜか心に焼き付いて離れない。そんな経験はないだろうか。

写真を撮るとき。すばらしい、不思議な、美しい、めったにない...いろんな理由でカメラを向けるだろう。そうやって撮られた写真が「上手い写真ですね」色や構図を褒められる。それであなたが撮った目的は相手に伝わっただろうか。写真の内容より先にあなたの撮影テクニックが褒められる状態って、それはほんとうに写真が上手いと言えるんだろうか。むしろ「イイカンジ」の写真のほうが、見る人にちゃんと伝わる本当にうまい写真じゃないだろうか。

写真を見た人が、あなたの撮影テクニックに触れる前に「ここ、どこですか?行ってみたいなあ」「この人だれですか?優しそうな人ですね」そういう反応こそ「伝わるイイカンジの写真」じゃないかしら。そういう反応こそ嬉しい反応じゃないかしら。そんな写真を撮る人ほど「うまい人」だと思いませんか。


もちろんそのためにテクニックはあったほうがいい。しかしテクニックは日頃の撮影で自然と身に付いてくる。大切なのは心。写真を撮るには見ることが必要。ただ漫然と見るか、それとも「視る」か。ここで個性が出てくる。あなたらしい、あなたしか撮れない写真は、まず「視る訓練」から始まる。

なに訓練と言っても簡単なこと。自分が気になるものを一日一枚撮る。一年365日撮り続ける。見た感じのまま、それ以上でも以下でもなく写るように努力するうちテクニックが自然に身に付く。同時にどれだけテクニックを使うか使わないかも身に付いてくる。これを10年間休まず続けるだけで写真家になれる、写真学校でそう聞いたとき、たったそれだけで!?と思った。実際に一日も休まず撮り続けるのはたいへんだったし、ほんとうに10年続けたら写真家になっていた。その後は恩師と同じ言葉で教壇に立ち、何人かの写真家が育った。

誰に見せるためでもない、自分のために写真を撮る。これが簡単そうで実にむずかしい。「これ見せたらどう思うだろう」「もっとこうしたほうが良い写真になりそう」すぐにスケベ心が出てくる。日記やクロッキーやデッサンのように対象を素直に見つめる。それは自分を見つめることにほかならない。写真には「あなたがどう見たか」がしっかり写ってくる。その点では何を撮ろうが全部あなたのポートレートと言えるだろう。被写体はそれが人物やペットならもちろん、たとえ風景や植物など静物であったとしても、あなたに反応して写ってくる。不思議だがそれが写真の特徴だ。


もし本当に写真が上手くなりたければ、テクニックを学ぶより先に「視る」練習をするといい。いつも入選ばかりで金賞が取れない人や、周囲から上手いと言われるけれど少し飽きてきた人などは、ぜひ試してみてほしい。ほとんどの人は見ているようで見ていないままシャッターを切っている。そんな莫迦なと思うだろうが、事実だからしかたない。見る?そんな簡単なことを練習するの?と思われるかもしれないが、いざやってみると、いかに難しいか気付くだろう。自分が「はっ」としたモノや光景を「見た感じのまま」誇張も歪曲もしないで最初に見た感じのまま撮る。四隅まできちんと視て、自分が視ていないものを画面内に入れない。それがあなたの「視る訓練」の始まりだ。

最初は「へたになった」と感じるだろう。あなただけじゃない、あなたの周りの人もそう言うはずだ。しかしそれは色や構図に頼らず、あなたの色が出始めているにすぎない。日の丸構図でいい。悩んだら引くんじゃなく寄っていく。近付くほど画面構成が難しくなる。いかにこれまであなたが見ていなかったか気付くだろう。

ズーム禁止、標準レンズで最短撮影距離固定。覗いて見たとき何が見えるか。この体験が撮影基礎技術の最初の一歩になる。たとえるなら筆使いを知らぬまま、いきなり崩し字を書く人が写真の世界には死ぬほど多い。標準レンズで撮る訓練は、毛筆で言うと、とめ・はらいを学んで楷書から始めることに過ぎない。この差は後に大きな差になる。


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