風景と私(1)台所の曇りガラス
最後尾の車両に乗って過ぎ行く線路を見ると、たかぶる感情を抑えられなくなる。知人はそう言った。
私にとって、刺さる風景はあっただろうか。
夜、民家の台所の窓から光が漏れている。曇りガラスで、ぼんやりとした白い蛍光灯の弱い光。スチールの棚が2段ほどあり、鍋やボウル、ざるなどの炊事道具がシルエットとなって浮かび上がる。
切なさが胸を突き、私は目をそむけたくなる。
誰かに聞いたことはないけれど、家族の団らんや温かい夕餉を思い浮かべて安寧を感じる人の方が多いのではないだろうか。
春になると、菜の花が咲き乱れる。私は目をそむける。点描の黄色があまりにも暴力的だから。世間でそんな話は聞いたことがない。
私にプラスにはたらく風景を探してみよう。
かつて、サーファーが住む太平洋岸に暮らした時は、飽きずに海を見ていた。砂浜にははしゃぐ子供や、解き放たれた犬がいた。
極寒の青森駅のホームで、夜明け前に立ち食いそばを食べた。厨房から沸き立つ真っ白な湯気。皮膚を刺す冷気と内臓を満たす熱。
ヒマラヤを歩いていると、完全に無音のときが訪れた。山と空。はるか眼下には小さく人がうごめいていて、畑に藁を積んでいる。風も吹かず、鳥も鳴かず、まったく音がない広大な世界。
そうだ、国際空港だ。成田、シンガポール、ドバイ、バンコク、アジスアベバ。どこだって、幸せな気分になれる。
私は、風景によって大きく揺さぶられる。
他の誰かよりも? そう、他の誰かよりも。
そう感じる。
百の仕事があれば、百の仕事を選べる人がいる。彼らは家族など大切なものごとのために、仕事のやりがいや内容は二の次である。風景についてもそうだろう。
私は一も選べない。まさに、この違いではないだろうか。
風景の中の私、ではなく、風景と私。いつからか、私は風景と対峙してきたのだろうか。
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