なぜ、過去を書くのか
はるか昔、人類がまだ言葉を持っていなかった頃、ヒトには嘘をつきたい感情が高まっていた。でも、言葉がないので嘘をつけない。臨界に達したとき、ひとりのヒトがとうとう嘘をついた。こうして言葉は生まれ、急速に広まった。
話すよりも書く方が嘘はつきやすい。例えば私が浮気をしていて、話せばぽろっとバレる嘘でも、LINEで伝えればバレない。こうして文字は生まれ、急速に広まった。
何万年もたった今、書くことには嘘が混じるものだと自覚してしかるべきだろう。でも、私がnoteに手記のようなものを書き始めたのは、これまでついてきた嘘の反動からだった。
幼少のみぎりより、私は感情を隠すようになり、境遇を隠すようになり、そのまま大人になり、隠しごとは積もり積もってスモーキーマウンテンのような燻ぶる過去となった。隠すことは偽ること、つまりは嘘をつくことである。
私は「王様の耳はロバの耳」と叫ぶための穴を必要としていて、1年半前、noteは穴として密林を渉猟中の私に発見された。足繁く通うカレー店の主人がnoteを始めたのである。
書くことで積み荷を降ろし、少し身軽になれるかもしれなかった。昏い虚空に落とされた言葉は誰かの目に触れ、木霊となってかすかに響くかもしれなかった。
ミケランジェロは、大理石の中に埋もれている像を彫り出していると言ったらしい。余計なものを削り落として本来の姿を現す。一方で骨組みに何かを貼り付けて像をつくる彫刻があり、私の姿は後者だろう。書くことで過去を肉片とした私をかたちづくる。ジャコメッティのようなか細いシルエットだけれど、ときに内臓を、ときに耳たぶを書く。
書けるようになったのは、若かりし頃よりも鈍くなっているからであり、長い年月をかけて自らを鈍らせる努力をつづけたからである。高感度センサーに汚泥を塗り、張り巡らされた神経細胞の精緻な網をところどころ切断した。訓練の反復によって、最近では話せるようにもなってきた。
自覚している自らの像と他者から見た私の像との間には大きな乖離があり、とても驚かれることがある。社交性や自己肯定感、怒りの感情などについて。どちらも本当の像なのかもしれないが、偽ってきたという忸怩たる思いがある。
これまで偽り欺いてきた大切な人に、これから出会う大切な人に、いつの日か正直に勇気をもって私の肉片を、原風景を見てもらおう。そんな淡い期待、恐れを伴う期待もnoteに書き溜める動機になっている。
過去にとらわれることは無意味である、といった言説に異論はない。その前の踊り場に私は立っているのだから、私は穴に向って過去を叫ぶ。いつか現在や未来を軽やかに綴るときが来ればいい。でもその頃には筆を置いているかもしれない。穴はもう必要ないのだから。
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