2022/12/04の配信から

文体の舵を取れ

 去年、2021年の7月に発売された本。
 読書ノートを作るとき、最初にすることは、ネットから目次を拾ってくること。書名を入れて検索して、Amazonでも出ることがあるけど、そっちではなく出版社の本のページにいくと目次があることが多い。これをコピペすればすぐ出来ます。この目次に内容やちょっとした感想を書き足していけば楽に出来ます。
 ただこの本、『文体の舵を取れ』はちょっと特別で、概要よりもここに出ている問題集の方が、内容を思い出したいときに大切なので、そっちを優先してメモしておきたい。そういう風に、本によってメモの形式はある程度変えます。全部を取る必要はなくて、自分が大事で思い返したい、というところにフォーカスする。

 『文体の舵を取れ』は、タイトル通り小説の文体の練習本。こういう本って、抽象的な小説の執筆法みたいなのが多いんですが、この本は海外のだからか、非常に具体的な練習問題が多い。例えばこの二章のものは「句読点を使わないで書く」というので、ただ英語のコンマやピリオドと、日本語の句読点だとちょっと意味合いは違うんで、ちょっとアレンジして、「なるべく」使わないくらいにして。
 他には、「15文字程度の一文を並べて執筆する」つまり、すごく短い文だけで書くとか、逆に一文を1ページくらいにしようとか。別のものは「反復」で、名詞・形容詞・副詞のどれかを短いパートで3回繰り返すとか、厳密で具体的なルールが出ています。もちろん元は英語なので、そのまま日本語に適用出来ないものもあるんですが、翻訳家の方が日本語向けにちょっとアレンジしてくれてます。

(中略)

 多分この練習問題さえメモしておけば内容は分かる。全体がまとまっていなくても、ちらっと見てある程度内容が思い出せれば良い、というのがこの読書メモの目的なんですね。1年くらいして内容を忘れたときに、パラパラっと見て、こういう本を読んで、こういう考えがあったな、ってきっかけになれば、それがいま自分が読んでる本と響き合って、別のアイディアが生まれてくるかな、くらいの気持ちなんで、細かくなくて、各章一行くらいで良い。
 文体の話を始めるとき、普通の本だと有名な文学とかから始めるのに、ルグウィンの場合第一章からオノマトペを使った児童文学から初めるんです。絵本を読むときのような、声に出すときの響きから。
 アメリカの、朗読がメジャーな文化ということもあるかもしれません。アメリカは声でお話を聞く文化が強いんですね。ポッドキャストや、オーディオブックが流行するというのも分かる気がして。僕がアメリカに居た時も、カフェでしょっちゅうポエトリーリーディングの会があって、高校の授業でも発表している人がいました。元を辿れば教会で聖書を読む、とかから来てるのかも、とは思います。日本だと、そうしてみんなで何かを読み合う、って体験があまりないですよね。学校の授業と違って、楽しみのためにやるみたいな。ただ、最近だとこうした配信によって、そういう声の文化が戻ってきてるという説が言えるかもしれません。

(中略)

 日本語と英語の違い、という話はしましたが、過去形と現在系のズレは大きいですね。英語では基本はどちらかに固定されるけど、日本語は過去の話でも一時的に語尾が現在系になることは普通にある。英語は絶対時間だけど、日本語は相対時間の語りだそうです。完了形で過去を表現したりとか。

(中略)

 たぶんこの9章の、「情報の出し方」を考えるというのが、物書きの人には大事な話だと思います。ファンタジーやSFでの舞台設定をどのように出していくか。最初に「こういう世界です」と語るんじゃなくて、話を初めてから、ゴブリンが出てきて魔法を使ったりして、「この世界にはモンスターがいて魔法があるんだな」って分かる、というような情報の出し方。この密度やタイミングをどうすればいいのか、ということ。ここだと、基本ラインは「ダマにするな」「細かく砕いてあちこちに入れろ」というアドバイスです。ただ逆に、あるSF作家の方が、設定はどこかにぎゅっと集中させて、挿絵みたいにすれば、「ここは難しいからある程度飛ばして読んでも良い」ってメッセージになる、という話をしてて、なるほどな、と思ったこともあります。

ヴォイス

 次もまたル=グウィンの、これはファンタジー小説です。出版は2006年9月。既に読んでいるときにあらすじをメモしてあるので、これを軽く直せばすぐ完了します。ファンタジーの三部作の二冊目ですが、各エピソードが独立してるので、これだけでも読める。でも三部作で一冊だけ読むとしたら、この本が良いかもしれません。有名な『ゲド戦記』もそうなんですが、この世界には魔法はあるけど、他のファンタジー作品と違って、滅多に使われない。特別な時にだけ使われるっていうタイプの魔法ですね。使うと相当大変なことが起きる。
 この三作目のタイトルが『パワー』何ですが、そのパワー、力には「権力」の意味も含まれてて、魔法を使うことで力が示せると権力も得られるので、そんなにバンバン使う必要がない、というような話が出てくる。

 こうやって、読んでいるときにすぐパッとメモを取ると一番楽なんですが、でもそれが難しいですよね。一冊の本のクライマックスと、それからまた新しい本を読み始める、旅を始めるときの幸福感って読書の最高の悦びじゃないですか。その高揚してるところに、メモ取りをさしはさむのはちょっと出来ない。やっておくと反芻できていいんですけど。だからこういう風に、配信をモチベーションにしてやってるという話で…

 ゲド戦記の四巻以降もそうなんですが、主人公達が力が無くて弱い存在。このヴォイスや次巻のパワーの主人公は本当に弱い。他民族に支配されてほぼ奴隷、という女の子が主人公で、その支配してる民族は、本を全部焼いちゃう。話し言葉と軍事的な力を重んじる人たちで、書物には呪いが宿っているから、といって燃やしてしまう。その街は元は大きな図書館を持っていて、主人公の女の子は、お屋敷の隠し部屋にある本を守っている一家の末の娘、という設定。
 この三部作の主人公は、全員、「あいだ」にいる存在です。ハーフ、というのとちょっと違うんですが、能力者と非能力者とか、支配者と被支配者のあいだに生まれたとか。この三部作は、ゲド戦記ほどは知られてませんが、大傑作だと思います。ただちょっと政治的、時代を反映していることはあるかもしれません。また、ゲド戦記という作品との対比の意識も感じる、いまファンタジーを書くならどうするか、という作者の意識も見えるので、両方読むといい気はします。
 『ヴォイス』にはサブ主人公として語り部が出てきて、この語り部は一作目の主人公なんですが、本当は強い魔法の使える家系に生まれたんだけど、力が引き継げなくて語り部になるんです。それで語り部になって成功して、他の人から、「あなたはとんでもない魔法の才能を持っている」と、その語りについて言われるようになって、それは感動的なんですが、その物語を語るということは、当然ながら小説家とか文章を書く人を示しているんですね。だから、何かを書く人、物語を作ろうとしている人は勇気がもらえるというそういう作品です。
 一作目は結構、深夜アニメみたいなノリではじまるんですよ。邪眼を持った一家がいて、目で見ることで全てを「ほどく」力がある、みたいな。主人公の男の子はその家に生まれるんだけど、その力を暴走させてしまうので、ずっと目隠しをして暮らしている、という。ただその力を回復するんじゃなくて、どんどん失っていくという方向に進む。そして失ったことで、語りの力を得る、という話。だから、一般的なファンタジー、成長して力を得ていく、という話に対して、反対を描こうという、アンチ・ファンタジーという側面があるんですね。ハリー・ポッターは「選ばれた」子の話だけど、ルグウィンの三部作は全部「選ばれなかった」というか、みんな端っこにいる人たちと言うか。
(※ハリー・ポッターも後半まで読んでいくと、その辺りを複雑に描いている気はします)

 政治性が強いと思った理由は、この本は2006年発行なので、911のテロを受けて、支配者側と被支配者の人々に、イスラムとかキリスト教の要素が──ただし、両方にそれぞれどちらの要素も入ってる、気がします。
 他のファンタジーと書き方が違うというのは、この本は前半は戦前、つまり町が解放される前の話で、後半は戦後の話。戦いの場面は本当に6ページくらいで終わってしまって、主人公の見てない別の所ではじまって終わる。それでその後は政治の話になる。支配者を全部追い出すことは出来なくて、本国から攻め込まれる可能性があるから、それでこれまで敵だった人たちとどう一緒にやっていくかという。交渉して、どう妥協していくのか、という──政治の本質は妥協点を見つけること、という話がありますが、そうした政治の話を、ファンタジーの中で描く。

[FF14の蒼天や紅蓮の戦後の話に近い? とコメント]

 そうですね。蒼天が終わった後、ドラゴンたちとどういう風に一緒にやっていくかという感じと結構近いかもしれませんね。FF14などMMORPGが強いのはそこだと思うんですよね。普通のゲームだと、ラスボスがいて、クライマックスが来て、そうした戦後の話はエピローグで語られると思います。FF14だとそこが、パッチとかで個々の人々を取り上げて、細かく、リアリティある形で多面的に語られる。それで世界に肉付けされていく。それは普通の、単線的な物語だとあまり出来ない。大きな続き=次回パッチが来るまでの「あいだ」の物語、というMMORPGの構造だからこそそういう風になるっていう話かもしれません。
 FF10-2が初めてそういうことやったんじゃないかな、とも思います。10で大団円になって、10-2はどこかポストモダンというか、価値が崩れて、そこでどうやって生きていけばいいか、とみんな悩んでいる話を延々とやりますよね。ラストでそれを「愛」でどうにかする、みたいな所にいくのはどうかと思いますが……結局、戦いの終わった世界はもう、「力」ではどうにもならなくて、政治、権力の話になるんですよね。このル=グウィンの小説だと、そこで「語り部」が出てくる。
 ル=グウィンはどこかのインタビューで、SFでもファンタジーでも政治や社会、この世界ではそうなっていないけど「いまとは違うけど、別のありえる社会」をどう描くか考えているんだ、という話をしてます。
 ル=グウィンはとても珍しい作家なんですよね。SFでもファンタジーでも、両方で第一級の作家と言われている。どちらかが一級でもう片方も書く人、というのはそこそこいるんですが、両方で有名と言う人は特殊。

千のプラトー

 ちょっとテストで、すごく難しい哲学書を配信しながら読む、というのをやってみたいと思います。一人でやってると、段々嫌になってくるので、こうして配信しながらやった方がいけるんじゃないか、という思い付きで。ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』という本です。
 これは自炊したやつをPDFで画面に表示してます。こうやって、常にノート取りながらじゃないと進まないんです。暗号みたいな内容ですね。本当に一歩ずつ踏み固めていかないと進めません。とりあえず頭に浮かんだことをどんどん話ながらやっていきます。
 難しい哲学書には多分二通りあって、ハイデガーなんかは、「俺の考えていることを、一度全部伝える。その思考をトレースできるよう、全部説明する」タイプで、ただその思考っていうのが複雑なので難しい。で、もう一つは、フランス現代思想でよくあるタイプで、「内容を理解する必要は無いけど、この素材、概念(コンセプト)を使って、お前が色々考えてくれ」という、アイディアの触発の元として語るタイプ。著者がいたら、たぶん、分かることよりも「何を考えたかの方が大事」と言うと思います。本の中で、これは道具、ツールとして使ってくれ、という話が出てきます。ハイデガーはそうでなくて、自分の考えを完全に理解した上で、討論しよう、意見を打ち返してくれ、というタイプですね。これは人によって、どちらが良いか、得意か、というのは違っていると思います。

 形態とか度合とかの単語が出てますが、これはおおよそ、遺伝や進化論の話をしてます。さっき旅とかノマドの話をしてたのに、いきなりDNAの話に飛んでる。というか、どちらにも取れるように同時に話をしてるんですね。文章自体が、常にダブルミーニングになるような形で進んでる。怖いですよね。

(これは話していて気付いたんですが、そもそも『千のプラトー』という本は「多様体」という原理、つまり一つのモノが同時に様々な意味を持つことについて繰り返し話していて、まさにこの、「ある文がAの文脈(生物学)にも、Bの文脈(社会)にも、どっちからでも読める」という、常にダブルミーニングが発生するような形で書かれているんじゃないか、という気がしました)

 この章は「地層」についての話なんですが、その地層の構造っていうのが生物学に似てるよね、同時に地層っていう表現は、人間の文化や社会、ノマドや定住民の構造に似てるところがあるよね、というのを、組み替えながら同時に話をしてるんです。怖くないですか? 今まで読んだものの中でトップクラスに難しいですね。
 これやっぱり、しゃべりながら読み進めるの不可能かな……しゃべらなくても大概不可能なんですが……もうちょっと簡単なやつなら行けるのかな。ちゃんと読もうとすると、多分ところどころ黙ってしまう気がします。
 「確立された形態と規定された度合」……
 これ、生物学の種や属とかの話なんですよ。20匹のハツカネズミがいるとして、ただこの20匹全部が、明確にハツカネズミというカテゴリに入るのかという、その端っこにいる同士の距離は、別の種の距離よりも遠いんじゃないか、みたいな。カテゴライズの問題について語ってるんですね。そもそも種は「生殖」で大きく区切ってるけど、その区切り目は本当に正しいのか、とか。
 もっと大きな話として、男と女の区切り方の問題も出てくる。男と女の二極があって、その間にクイアとかLGBTQIAとか色々話があると思いますが、ドゥルーズ&ガタリはその「区切り」そのものを疑っていて、それで全部は「強度」つまりグラデーションでしかないのでは、という方に進みます。

 どうしてドゥルーズ&ガタリを読んでいるかというと、千葉雅也さんの『動きすぎてはいけない』というドゥルーズ&ガタリについての本を読もうとして挫折したので、他の入門書なんかを経由して、実際に読んでみようと、なって進みました。千葉さんもちょっと呟いてましたが、実際にかみ砕いて理解出来てるひとはそんなにいない、読んでいる人でも分かってない部分がある、という話があって安心しました。

 本の一番冒頭を読んでみましょうか。いきなり「狼男」って説明なしに出てきますが、これはフロイトの有名な患者の話ですね。その背景を読者は知ってるという前提で進んでいくんです。いきなり固有名詞がバンバン出てきて。フロイトならまだ良いですけど、フランスでは有名だけど日本では全然、という研究者とか作品の名前もどんどん出てきて、だからこれはもうググる方が良いです。知らない名前が出てきたら、ググって、ざっくりでも良いのでどういう人でどういうことを言ったか、というのを把握していった方がいい。注釈も見てそれをやる。そうしないと分からない。ただそういう「解読」をしすぎると自分で考えることから遠ざかってしまうので難しい。「道具」として使う、自分で考える材料にする、というところに戻ることが必要です。触発されて、自分で「哲学する」モードになる。
 さっきの話だったら例えば、ジェンダーの語りやその分類方法を再考するとか、自分を取り巻く社会・出来事につなげていくとか。そこで新しい視点を得られる、みたいな方へ持っていく。

 やっぱりこうやって、しゃべりながらやるのは無理だな……難しすぎる。

コメントから

[キーボードについて]
 これはHHKBではなく東プレのリアルフォースというキーボードです。もう6年くらい使ってるんですが、全く故障やチャタリング(一回押すと二度押される故障)なんかがないのでお勧めです。一生使える……といいな。

[画面にテキストを表示すること:読書会について]
 こうやって、実際にテキストとかプリントを表示しながら、読書会するのは結構良いのでは? オンラインでやれると良さそうですね。この間『老人と海』の感想を書くのが合ったじゃないですか。あれはまあ書くのが目的だったのでそれは別として、ただこうして、目の前に実際の文章があって話すと話しやすいんじゃないかな、って気はします。これ、でもYouTubeでキンドルの画面配信したらそれは怒られるな……というか著作権違反ですね。
 映画やアニメをみんなで見てるとき、オタク的な話ですが、ちょっと一時停止して「ちょっと巻き戻して良い? ここ、ここが良いんだよ!」みたいなことがあると思いますが、小説もそういうディティールの良さみたいなことがあると思います。
 批評や感想を書こうとすると、一度外観して、メタの視点から書いちゃうんだけど、小説の楽しみはディティールに合ったりして……例えばAの人がすごくグッときた一文を、Bの人は読み飛ばしてたりして、Aさんがそこを熱をこめて語ると、「言われてみればすごくかっこいいな」みたいに発見があって、楽しいかと。昔そういう、読書会という程ではなかったんですが、話をしたことがあって楽しかったです。

[自炊について]
 カール事務機の裁断機で裁断して、スキャンスナップで読み込んでいます。時間はそこそこかかりますが、それこそゲームしながら出来るので。以前やったときはFFのクラフターのレベリングをしながら読み込んでました。外部サービスでの自炊は、著作権的にどうなのか分かりません……僕は自分で全部やっています。
 本だけでなく、プリントを普段使う人はスキャナーは便利ですよ。人はプリントを無くす生き物なのです……プリントがどこにあるか分からなくて浪費する時間を考えれば、すぐに元は取れます。

[バックボーンについて]
 本を読むことが仕事になる──全部じゃないんですが、本を読むこと、調べることが仕事の一部になる、っていうそういう仕事は、実はあちこちに結構ある気がするんです。企画とかの関連ですね。もちろんその内容が直接仕事に繋がるかといえばそうでないし、自分の読みたい本を読めるわけでも無いんですが、何かしらのネタとかアイディアの繋がりにはなるので良いのではないでしょうか。

[運動の話]
 最近はスロージョギングから一歩進めて、速度を上げ始めているんですが、速度上げると辛いんですね。だから辛く感じないギリギリのラインを見極めようと、ストップウォッチを使ったりして走っている。自分で「走ってる自分は偉いな」と思っているうちはまだ弱くて、「歯磨くか」くらいの感じでジョギングにいけるようになる。椅子から腰が上がるのを軽くすることが大事だなと思います。「きつい」とい思うと体が拒否しちゃうので。「高いモチベーションを保つ」のではなくて、「モチベーションが低くなっても続けられる程度の運動」にするのが必要だと思います。「運動したらご褒美が貰える」タイプも実は良くなくて、最初は良いんですが、何か月かするうちに「ご褒美だけ貰う」ようにずるしてしまう──人間は工夫して楽をしようとするのが得意なのでそうしてしまう。だから、運動それ自体にご褒美の要素が入るようにしないといけない。
 楽しい運動はいいですよね。ただ、たぶんですが、ランニングやジョギングに比べると、他の楽しい運動というのは負荷の波が大きい。走ること、エアロバイクもそうですが、ずっと同じくらいの負荷がかかるのが、ミトコンドリアの酸素摂取量とかの話なんですが、つまりスタミナの向上には大事らしいです。詳しくはnoteでお勧めした本を読んでいただけると。
 筋トレやジョギングは全てを解決……するところまでは行きませんが、難しい本読んでて、30分しか集中できなかったのが35分になった、みたいなのは確実にありますね。あと朝強くなる。ジョギングに使ってる時間くらいは回収してますね。生活の質は確実に上がってます。あと、ちょっと落ち込んだときとかに、運動に逃げられるのも良い。運動の時間とか負荷を増やしてあげれば、あまり考えなくて済むし、達成感も得られるから。ただ普段は、なんか続いちゃう、くらいの緩い強度が良いと思います。
 今まで僕も何度も何度も失敗しましたが、今年はどうにか続いてますね。良い本に出会えたのが大きいです。自己啓発の本とかビジネス書とか、筋トレの本とか、月に一冊なるべく読むようにしていて、読みすぎてるから、もう大体知ってることしか載ってないんですが、モチベーションを上げるために、パラパラとでも読むようにしてます。

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