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ふたば、ふたたびツアー(前編)

1 中間貯蔵施設

3月10日、環境省とLove For Nippon等が主催する「ふたば、ふたたびツアー」に参加してきました。ツアーの目玉は普通は中々入れない福島第一原発の周辺に広がる「中間貯蔵施設」=除染で出た土や焼却灰が溜めてある場所。その他にも、震災遺構の請戸小学校や双葉町の原子力災害伝承館などを巡るもの。気になるお値段は……なんと0円!(抽選制) ほんとにいいの? 当日になるまでちゃんと参加出来るのか若干疑っていた。

集合場所である「Jヴィレッジ」はサッカーのトレーニングセンター……なのだけれど、震災の後には一時的に除染や廃炉作業の前線基地として使われていた。トレーニング施設として再開したのは2019年と割と最近のこと。春休みの合宿だろうか、高校生たちが練習していて、先日までサッカーマンガ『ブルーロック』に夢中になっていた私は彼らの目に炎が宿っているように見えてしまったり。

バスに乗って中間貯蔵施設までは30分程度。海岸に建てられた福島第一原発を、半円形に取り囲むような形に広がっていて、東京ドーム340個分という広さ。北側が双葉町、南側は大熊町にまたがっている。原発関連の「施設」という字面から、何やらSF的な建物をイメージするかもしれませんが、実際の風景はほぼこんな感じで、見た目としてはまあ「空き地」ですね。

もちろん建物もあり、そこでは除染土・廃棄物の焼却や分別が行なわれていた。過去形。その理由が職員の方から説明される。

「現在のこの施設は、言ってみれば眠っている状態ですね。各地からの土や廃棄物の運び込みや、分別、貯蔵の作業はほぼ完了していて、いまは管理が主です」

見た目は空き地だけれど、その芝の下には覆土=放射線を防ぐための土の層があり、さらにその下には防水など複数枚のシート。それに包まれるようにして、放射性物質の含まれた土が盛ってある。ここでツアーの目玉その1。ガイガーカウンターで放射線を測ってみようのコーナー。

計測結果は:0.229μSv/h

結果は毎時おおよそ0.2~0.4μSv(マイクロシーベルト)。日本の平均が0.05くらいなので、5~10倍程度。年に直すと多くて3000μSvくらいで、これは胃のレントゲンを一回撮ったくらいの被曝量になる。

ところで私、ウクライナ戦争が始まる前、2018年にチェルノブイリ原発を訪れたりしている。こちらは一部地域以外除染してないので、周辺の森の中でガイガーカウンターをかざしてみると、おおよそ2-4μSvくらい。水が溜まってる場所なんかは130とかヤバい数字が出ている。この経験があったせいで、中間貯蔵施設での数値にはあまり驚かなかった。もちろん管理体制はジャパンクオリティでしっかりしてるという印象でした。

チェルノブイリの公園遊具。雨水が溜まるせいで放射線量が高く 137.2μSv/h

2 原発の見える丘

ツアーは「サンライトおおくま」という、丘の上にある元高齢者向けの施設へと向かう。福島第一原発までは約1キロ。6つの原子炉全部を広く見渡すことが出来る。

「写真の左下に、民家が映っていますよね。持ち主の方と最近お話したんですけれど、『辺りは工事が進んでいるし、周辺の風景もまるで変わってしまっていて、自分の家の前までたどり着くのが難しかった』とおっしゃっていました。その家も、ご覧の通り、もう解体されてしまってありません」

施設の職員さんによる説明が始まる。既にあちこち整備が行なわれて、空き地のように見えるから想像するのが難しいのだけれど、以前のこの場所には普通に畑や民家、それから工場などが広がっていた。

「持ち主のみなさんからしてみると、この場所は二百年来の土地で、最初はもちろん誰も手放そうとはしなかった。『先祖代々の土地を駄目にしてしまうのか』って。けれども震災後しばらくして、除染があちこちで進むにつれて、黒いフレコンバッグ(除染土などを入れる袋)が、各地の道路脇に積み上がるようになった。その風景を見ているうちに、『自分たちが福島の復興を止めているんじゃないか』と感じるようになって、みなさん次第に考えを変えられたんです。けれど、それは苦渋の決断でした」

福島の外にいて「原発」について考えるとき、当然ながら放射能の話が一番に来るだろう。根強い風評被害の問題があるし、去年から行われている処理水放出の話題もそうだ。私もそのイメージでここを訪れたのだけれど、福島の、特にこの地域の人からして見るとそれは「土地」の問題になる。うかつなことだけど、なぜこの場所が「中間」貯蔵施設と呼ばれているのか、この場所に来るまで考えていなかった。

「この土地は、売却された箇所もありますけれど、30年を期限として借款している区域もあります。計画としては、県外に作った最終処分場へ2045年を目途に除染土と廃棄物を移動して、この場所をお返しすることになっています。ただ、その誘致先は、候補地はいくつか出たものの、それぞれの自治体の反対にあって今も未定のままです」 →関連情報へのリンク

いわゆる「NIMBY問題」の構図だ。手続きや準備の期間を考えると、2045年という約束が守られるかはかなり怪しくなってきている。

現在、除染土を30年間保管して県外の最終処分場に持ち出すという話になっています。しかし本当にそうなるのは難しい、逆に中間貯蔵施設を遺構として残すという選択肢もあるのではと、最近考え始めています。

(木村紀夫/原子力災害考証館furusato)

この引用の木村さんも、中間貯蔵施設の土地内に住んでいて、売却要請を受けた一人。津波で家族と家を失い、さらに土地を失い、それを返すという約束も守られず、半永久的にそれを失おうとしている。その状況について、半ば諦めをもって書かれていたことがショッキングだった。

最終処分場は、辛いとか見たくないとか言っていられるものではない。結局、どこかには作らないといけないものだ。であるならば、その存在を逆に利用し、処理を社会から漂白するのではなく、むしろ厳然たる事実として突き付ける。それによって原発事故を語り続けるという方法があるのではないか。

(小松理虔『新復興論』)

この引用の言葉は当然、福島だけでなく、関東圏、さらに日本人全員に向けられたものかと思う。そんなわけで、今後「中間」貯蔵施設という言葉を聞くときには、放射能のことよりも先にその土地、そこに住んでいた人たちのことを思い出すだろう。

3 バスガイドさんと夜ノ森の桜

中間貯蔵施設の次には、スクリーニング施設を見学。大熊町や双葉町など原発周辺区域は、今も多くの帰宅困難区域=居住出来ず、手続きを踏まないと自宅にも入れないエリア。そのゲートの役割と、また放射線の計量を行なっているのがこの場所。とはいっても、実際はガソリンスタンドみたいな建物で、特別な印象は受けない。ここに関してはツアーのバスガイドさんがあれこれと説明してくれた。

「ここから中に入っても、午後は16時までに戻って来て、退出の手続きもしなくちゃいけなくて、だからゆっくりもしていられないんです。さっき、道のあちこちに、蛇腹上の鉄のゲートがあるのが見えましたよね? 家の玄関口にもそれが置かれていて、自宅だとしても自由に入れないし、道路もあちこち制限されています。この浪江町には大堀という窯元があって、相馬焼という焼き物が有名です。窯元の人は工房から自分の作品を持ち出したいんですけど、持ってきて、ここで放射線量を測って、規定値を越えていたらまた戻しに行かなくちゃいけない。それでとても辛い思いをしているんです」

帰宅困難区域に置かれた通行止めのゲート

少し後、大熊町の南隣である富岡町を通る際にはこんな話も聞いた。

「この辺りは『夜ノ森』という地域ですね。町中に桜が植えられていて、私たち福島の人にとっては、その桜のトンネルは有名で、誇りなんです。去年から桜祭りが復活しましたから、みなさんにもぜひ訪れて欲しい場所です。この地域の桜の歴史は、明治時代にまで遡ります。廃藩置県で武士が刀を捨てて、この土地で農業を始めることになったんですが、『これからは農民としてやっていくぞ』という心意気の証として、みんなで一本一本植えたということです」

このガイドさんの語りが本当に素晴らしくて、何度も感動させられた。今回の旅程は、スタディツアーの側面があるから、どうしても原発、除染、帰宅困難地域などシリアスな話題が多くなってしまう。けれど、そうした様々な出来事を、実際にそこで暮らしている人のエピソードと結び付け、またそれぞれの土地の誇りにしてるもの、歴史についても語ってくれて、その語りが、その場所と私たちの橋渡しをしてくれていたと思う。ガイドさんが福島に暮らして、地元の人たちと震災やその後の復興を共にしてきたからこそ、そうした語りが出来るのだと、言葉の端々にそのことが覗いていた。

ところで「夜ノ森」──特に意味もなくドイツ語にしてみると「ナハトヴァルト」ですが、この響きにファンタジー好きな私はもうたまらなくなって、ガイドさんに名前の由来を聞いてみる。すると面白いエピソードを聞かせてくれた。

「戦国時代にこの場所は、二つの藩、岩城と相馬の境目にあったせいで、そのどちらの藩主も『余の森だ』と主張したのが由来らしいんです。ファンタジックな答で無いのは残念ですけれど」

と、笑って答えてくれたのだけど、この話もまた、地名に歴史が封じ込められてるのを見つけたようで嬉しかった。

後編に続く

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