表現者としての責任

2018年に同人活動を初めて、気がつけば6年目。
同人小学校卒業間際のえせるです。

今回は「表現活動と人間関係」について。
少し思うところがあるので、久々にお気持ちを表明しようというわけです。
この記事をお読みの方の中には、僕がこの記事を書こうと思い立ったキッカケに当たる出来事をご存じの方もおられるかなーと思いますし、知らなくても大丈夫なようには書いてるつもりです。
あと、個人や他者を標的としたことも書いていないハズです。
あくまで僕の持論、あるいはスタンスの表明に帰結するよう、注意して言葉は選んでいるつもりです。

「ネットの顔」と「人間性」

さて、みなさんがどう感じていらっしゃるかはわかりませんが、僕は同人活動における人間関係について、かなり疎に保っているつもりです。
加えて、Twitter(もとい、X)における「えせる」という人物像についても、多少の欺瞞が含まれていると思っています。ここ数年、ネットで本音や踏み入った話をできるだけ避けるようになりました。
それが結果的に、リスクヘッジとして機能しているものと、自身では解釈をしています。

表現と人間性の相互作用

そもそも僕のスタンスとして、結局 表現活動と人間性は切り離すことができない、というのが根底にあります。表現活動と人間性、この二者のもつれは、良い方向に働く時は本当に素晴らしく効きます。しかしながら周知の通り、得てして人間性は作品に対するノイズとして働くことのほうが大半です。「作者の顔を知ってしまうと、その人のエロで抜けなくなる」という事象は、一見ネタっぽいですが、実際そういうことです。人間性は必ず、表現物の見え方に多かれ少なかれ影響を与えます。

一方で、表現物に対して透過的に向き合いたい、そういった願望も強くあるわけです。それは享受する側としても、提供する側としてもです。ですが、享受する側としてこの姿勢を貫徹することは、それなりの気力を要します。あるいは作品に対し、人間性を飲み下せるほどの圧倒的な価値を求めてしまいます。それが享受する側の自身の姿勢としてわかり切っている手前、提供する側として自分は人間性の公開領域をマネージする努力をするようになった、というのが冒頭申し上げたリスクヘッジの動機になるようです。

「あとから知る ひととなり」というリスク

冷たい言い方にはなってしまいますが、同人活動における人間関係は、「同じコンテンツに触れている」というたった一点の共通項のみで成立します。人間関係の基盤が間接的な動機に依る、ということです。
つまり、「ひととなりを知る」ことは必須条件ではないし、縁が切れるその時まで知っていなくてもモーマンタイなわけです。

ですが、ひとたびただの同人つながりを超えた人間関係を持ってしまうと、否が応でもひととなりが見えてしまう。そして非常に厄介なのが、そのタイミングがあとからやってくる。すでに「知人」としての関係が成立したあとになって、です。この逆転が、同人活動における人間関係のトラブルの大半の主因だろうと思っています。

また、ひととなりが受け入れられない、だが知人になってしまった以上、次のどちらかを選ばなくてはいけません。
我慢して付き合う か、縁を切る かです。
この二択は、尋常じゃないほどコストです。そして、このコストによるオーバーハングは、必然的に表現活動を侵食します。このコストを、僕は飲めなかったというわけです。

直接的なコミュニケーション

自分がまだ同人駆け出しだった頃、本当にいろんな方と接点を持たせて頂きました。イベント後の打ち上げ、合同誌、作業通話やDiscordのサーバー、などなど。どれも「多くの人間関係が一挙に交錯する機会」でした。この文脈だと、今挙げたものをすべてを後悔しているように聞こえそうですが、そうではないです。むしろ、僕の6年間の同人活動は、この駆け出しの頃に生まれた繋がりなしには成立していなかったと思います。それだけ多くの知人、友人、ないし同士との出会いがありました。それでも距離を取るようになった、ということになります。

なぜなら、上に挙げたような環境は人間性がダイレクトに伝わりすぎるからです。特に口頭によるコミュニケーションが伴うものが顕著です。
作品上、あるいは文面上で人間性を隠蔽することは、多少の配慮があれば可能でしょう。しかしながら、発話というのは絶対的にリアルタイムで、かつあとから取り返しが効きません。そうした環境で露見するボロは、認めたくなくとも偽りなき自分自身です。そして、そのボロは常に、自分の作品に対してクリティカルな影響を与える可能性を孕んでいます。

もう一点。同人活動を始めとした、一般の人間関係と異なる関係で起こる難点があります。
それは誰も親切にそれを指摘してくれることなどない、ということです。というか、一般の人間関係ですら、大人になってしまうと普通ないわけです。同人といった、いつでも切り捨てられる薄い関係だと尚更です。
前節で挙げた選択肢は「我慢」と「拒絶」の二択でした。それしかないわけです。

表現者としての責任

以上を踏まえて、自分のスタンスの再確認に入ります。
自分で言うのもなんですが、僕の作風はちょっとした外因で見え方が大きく変化してしまいます。
冒頭申し上げた通り、自分も同人活動を続けてもう6年です。そろそろ、表現者の端くれとして、自分の表現行為に責任感をもってもよい時期だと思っていました。
その表現行為には、同人誌などの具体的な作品はもちろんですが、やはりえせるという人間の一挙手一投足も含まれるもの、というのがここまでに表明してきた解釈なわけです。

非常に残念で、寂しく、当然の帰結だと思います。
元来の僕の性格をご存知の方はおわかりだと思いますが、僕という人間はおしゃべり大好き関西人です。実際に顔を合わせて、くだらない話や作品への熱意で盛り上がりたい。それが本来の願いです。

しかしそれでも、僕にはリスクのほうが大きく見える様になってしまった。
自分自身の体験としてもありましたし、今回のような事案を見ると、この思いは補強されていく一方です。

本当に、寂しい状況になってしまったなあ、と思います。
自分が背を向けたそれは、毒もあれども、紛れもなく活力でした。
きっとこれからも、葛藤を抱えながら過ごしていくことでしょう。
表現者としての責任と、一個人の願望の狭間で、もう少しあがいてみることにします。


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