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ライブを終えて

私には1年半ぐらい交流があるカメラ仲間がいる。最初はkissMでひっそりと撮っていたようだが、いつの間にか私たちの勧めで6Dllを購入し、ガチ勢に進化していらっしゃる。そんな彼女は今年度また新しい趣味を始めた。いや始めたと言うより自分からやるようになったと言った方が正しいが、エレキギターをやり始めた。元々音楽界には造詣が深く、歌も上手いのでまあ無事音楽にも沼り、洋の魅力に取り憑かれたなどと楽しそうであった。まあここまで読んでだいたい察している方も多いかと思うが、今回は彼女らのバンドからの撮影依頼の仕事の話だ。

音楽表現と写真表現という対極

実は私自身も中学2年生までは小学生時代から7年以上エレキギターを習っており、発表会という名目で他の楽器の人と1曲限りのバンドを結成し、ライブハウスの舞台に立ったり、小学生でギターを本気でやっている人は少ないために希少だったのか、アコースティックギターの入門書に手のモデルとして出て実質的に自分の本を1冊出版していることになっている。学校でも小学生時代はドラムをやっていたクラスメイトとことあるごとに音楽室を借りてプチライブ的なことをしていたり、某ウイルスで発表機会が無くなって辞めるまでは結構なギター少年であった。そうなってくるともちろん洋の魅力に取り憑かれてずっと昔のロックに触れるということも似たように経験していて、小学四年生以降の私の好みは完全に高校生からバンド活動を始めた彼ら、彼女らにも共通するようで、見事に私の昔よく聴いていた曲たちがインスタのノート欄に流れてきており、私はそれを見ていつも謎の親近感と優越感に浸るわけだ。
さて、私の自己紹介パートをしたところで本題に戻る、音楽表現は音の表現が主体であり、空気を震わせて伝える媒体な訳だが、私のやっているのは透明なものに波形を作ったところで表現を感じられない画像という媒体だ。音楽表現に見る被写体がだす魅力を私はどのような表現で見せれば良いのか、「見えないものを見せる」というのはとても難易度の高い作業である。しかし私の使命はそれを伝えること、現場に居ない人にも目の前にある感動を届けられる能力が試されている。

撮られる気持ちと撮る気持ち

先程話した通り私も元はステージに立つ側の人間だった。ライブハウスの完璧な演出下でライブをして撮影されたこともあるしなんなら家に飾ってある。ギターを引退した私はそれを見て色々思うことがある。つまりこういう写真は思い出の1ページに間違いなく刻まれるわけだ。無駄な言い訳など通用しない。ライブ撮影の機材選びはとても重要、撮影計画は綿密に、確実に。もちろんそんなの何の撮影にも言えるが、ライブは特に、というわけだ。

自分があと3人ぐらい欲しい

当たり前だ。今回6人で撮影クルーを組んだが、私のように無駄な雑念的思いを連れて撮ろうとする者など居るようには見えなかった。それも当たり前。今回の反省点はクルーに対するマネジメント能力不足を特筆して先ず挙げるべきだろう。

自由という制約

「なんでもあり」確かにライブをやる理由はそういう所にある。自由にやれるからこそ目の前で行われる必要があるし、だからこそその生の人間味を感動として知るのである。そしてそれを表現するのに携わるスタッフ、撮影、録音関係者も多少自由を表現する義務を負う。これは求められることの両義性であり、それ全体の意義である。自由という制約に飲まれてはいけないということを忘れてはいけない。

目前

さて、だいたいライブ前後に思ったことを話したところで、実際の動きを振り返っていこう。

機材はとりあえず我が家で信頼している機材たちで構成した。ボディは三機体制、アクセントは中華の8mm f/3.5とXR RIKENON50mm f/2、他はAFも光学も信頼出来るレンズ達を主に構成している。三脚は別のクルーが連れてくるビデオ用のミラーレス一眼たちに取り付ける用だ。

結論としてこの構成は大成功だった。使い勝手もカバー帯域も十分で、無駄な動きも最小限に留められる。個人的に自分の今の装備でできるものとしては不満のない構成だったと思う、撮れるのが1曲だけだと言われるまでは。開始直前、2曲の予定が1曲に減った、その場合の対応は全く考慮していなかったため、その時の初期取り付けレンズ(RIKENON50mm,8mm f/3.5,TAMRON70-210)で中盤までに取り急ぎのカットを撮り終え、200-500を召喚するという計画を私の低能な脳は思いついたようだった。まあ機材の配置上それしか思いつかなかったのだろう。そして準備時間に配置換えをすることも無く、2曲前提の撮影スケジュールを1曲で強行しようとした。これはあとから見れば失敗であった。8mmを使うことなど早々に諦めるなり、1番手の届きやすい位置に200-500を移すなりしておくべきだった。かくして予定カットのうち3割程度は被写体のライティングへの粘り足らずやその他様々な無理が祟って撮影出来なかった。特に舞台下手に行く余裕がなかったことによるボーカルの逆光シルエットカットの損失とベースの影によるキーボードのカット損失は短時間制限の無理が祟ったものと言わざるを得ないだろう。

目標

私も学生なのでいずれ忙しい時がやってくる。そう、受験だ。高二の夏には真面目にやりたいという願望のもと、正直真面目に写真の仕事を受けられるのはあとせいぜい2回程度だろう。来年の文化祭になるだろうか、撮影者にも、被写体にも思い出に残るものを残すため、今回の経験は今後の思考で扱っていきたい。とりあえずの目標はあと半年で自分の表現を確立させてそれにしっかり追従してくれる機材を揃えることだろう。

(実践追想02)

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