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名古屋市政資料館、あと江戸末期の将棋指し

 名古屋の丸善さんに「桎梏の雪」のサイン本が入ったそう。あいかわらず売れてる感じのしない拙作、ご迷惑になっていないだろうか。
 ところで、名古屋といえば、名古屋市政資料館だ。知る人ぞ知るこの名建築を訪れた際に見てもらいたいのは、ガラスである。正面ホールのステンドグラスではない。フツーの通路とかに使われている窓ガラスだ。一見なんの変哲もないそれは、よく見ればなかに微妙なムラがあって、何色かに光を分散させている。これは、この板ガラスがむかしの製法でつくられたもの、つまり、吹きガラスであるからだ。当時のガラスが残っているのか、あるいは再現したものだろうか。どっちにしろ、保存という観点であれはいいものだ。
(緊急事態宣言下でなかったらここで「はい、名古屋に行きたくなりましたね! ついでに書店へ」ってなるところ)

 マニアックなことを知っているな、と見直してくださった人もいるかもしれないけれど、このウンチクはむかしどっかで読んだ記事のウケウリである。教わらなかったら、僕だって通路の窓ガラスなんて凝視しない。
 ひけらかすなら、しっかり学んだそれよりも断然ウケウリのニワカ知識である。バカやってる感が楽しいし、なにより間違いを指摘されたときには「合コンさしすせそ」がそのまま使えるのがいい。
 というわけで、もうひとつ。拙作に登場する将棋指しに関する、ウケウリをば。

大橋柳雪

 涼やかな名前だが、これを名乗るのは後年になってからで、若いころは英俊という名だった。むかしの人は現代人が脳ドックに行くくらいの頻度で名前が変わる。
 柳雪は江戸時代末期のアイドル棋士だった。その人気はときの名人を凌いでいたとさえ言われる。実力に関しては諸説あって、せいぜい八段という声もあれば、名人より強かったという意見もある。低く見積もっても八段なのだから、強かったのは間違いない。個人的には八段半、名人よりはちょっと下と考えている。キン肉マンでいうところのバッファローマン、バキだったら烈海王。実力次点で人気トップな柳雪のポジションはそんなところか。
 拙作「桎梏の雪」では、お弦という柳雪の妹を出している。彼女は実在の男性棋士をモデルとしていて、いわゆる性別改変ってやつ。もはや茶葉より急須のシミからお茶の成分が出てるのじゃないかってくらい出涸らしのアイデアで、僕も好きじゃないのだが、あえて採用したのはひとつの作品にひとつは苦手に挑むようにしているからだ。
 元ネタ棋士には、女性の弟子が四人もいた。こんな棋士は他にいない。女性が弟子入りしやすかった、ということはもしや……。パーセントにして銀行の金利くらいはありえるな、と思って彼を女性に変えてみた。
 お弦は選考や書評でもなかなか評価がいただけたようで、彼女のおかげで賞をもらえたといっても過言ではない。苦手に挑んだ甲斐があったというもの。

天野宗歩

 将棋に詳しくない人でも「なんか聞いたことある」であろう、実力十三段の棋聖。
 「栗(九里)より(四里)あまい十三里」という焼き芋の看板があって、十三段というのはそれをもじったシャレであろうか。名人(九段)より強い、と。これは大げさではなく、江戸時代の最強棋士議論で天野はまっさきに名前があがる。
 どうも民間の棋士だと思われてるフシがある天野だが、将棋家の弟子である。将棋家とは絶妙な距離をとって小ずるく立ち回っていた、というのが実際ではないか。将棋家ではご法度だった賭け将棋を公然と行っており、それでも破門どころか晩年には別家を認められている(宗歩の名はそのときに与えられたもの)あたり、将棋家にとって彼がいかに特別な存在であったかがわかる。
 大橋宗英―大橋柳雪―天野宗歩のラインで、将棋の近代化は完成された。「駒がぶつかるまではどう指しても一局」という、よく言えばおおらか、悪く言えば雑なそれまでの序盤感覚は通用しなくなったのである。
 時代の最強棋士と言えば羽生善治九段が思い浮かぶが、序盤戦術の常識を変えたという意味で天野は竜王三連覇の藤井猛九段(≠藤井聡太二冠)に近いかもしれない。

十一代大橋宗桂(宗金)

 天野宗歩の師で、名人に推されるくらい強かった。それは本人が固辞したというから、真面目な人だったのだろう。
 登場人物が宗桂だらけになるのを避けるため、作中では名を宗金としている。彼の先々代宗桂が家督をついでからも幼名の印寿を使い続けたというエピソードを流用したものだ。
 天野とは不仲であったとされている。宗桂の日記には天野への愚痴が書かれているそうだ。たとえば、ある日天野は旅先で賭け将棋に敗れ、為替の無心をしてきたという。
 不仲だろうか、これ。
 どうも宗桂が甘やかしすぎたせいで天野がどうしようもないゴンタクレに育ったんじゃないかって気がするのだが。
 作中では別の人物がその功を横取りしているが、宗英を雪、天野を炎に喩えたのは彼である。

六代伊藤宗看(鬼宗)

 江戸時代最後の名人となった強豪棋士。実力的には世襲制名人の中でも上位、人によって三指に入れるほど強かったが、格下相手にはあからさまなナメプをするなど、けっこうアクの強い人だった。
 作中では名を鬼宗としているけど、彼がそのように呼ばれていたという史実はない。鬼宗看とは呼ばれていた。これは単純に強さに対してつけられたあだ名で、なんなら彼の前の名人である宗英も鬼宗英と呼ばれていた。類語に超ベジータ。あっちは自称だが。
 宣伝用の短編「ろくだいめ」にも若いころの彼が登場する。僕が伊藤家びいきなせい。

七代大橋宗与

 将棋家は二世名人の代に本家から分家、伊藤家にのれん分けされている。本家が格、伊藤家が実力を誇るのに対し、分家はどうもぱっとしない。名人の輩出は本家、伊藤家がともに四名(伊藤家は倒幕後にもうひとり輩出している)であるのに対し、分家はわずか二名。うちひとりは、知る人みんなが歴代最弱と声をそろえるくらい、評判の悪い人物だ。世襲制名人の強さ番付はなかなか意見の分かれるところだが、一位と最下位に関しては分家の二名が不動。オセロであったなら……。
 そんな分家の七代目当主である宗与もまた、棋士としては冴えない人であった。父親は歴代最強の名人である宗英。棋才を受け継ぐことができなかったのである。※作中では彼を宗英の長男としていますが、次男だったようです。調べが足りませんでした。(9/21追記)
 とはいえ、非力ながら将棋家を支えた、決して軽んじることのできない棋士だと思う。
 一見しても、ためつすがめつ見ても地味な宗与を主人公にしたのは、上記の棋士たちのアクが強すぎて誰を主役にしてもまとまらないというのもあるが、それ以上に僕の純文学志向が大きい。
 作中の彼は、なんというか、ガンダムに乗ってないときのハサウェイって感じの男である。高潔とクソの間を行ったり来たりする彼の内面をどう書くかは非常に難しく、ついには執筆を中断した時期もあった。
 最終的に、心情描写は最低限まで削り、そのかわり「そういう心理状態で彼はどういう行動をとるか」をとことん考えることにした。これはルナールの「にんじん」からヒントを得たもので、僕が読んだ訳本では、にんじん少年の複雑な、あまりにも複雑な内面を、あえて淡々とした筆致で書き表していた(原作はけっこう戯曲的であるらしい)。

蛇足

 名古屋市政資料館では、ステンドグラスよりも窓ガラス、というふうなことを上で書いた。とはいえ、ステンドグラスはスルーしてよし、なんて意図はなく、これもじっくり眺めていってほしい。黄色いステンドグラスは中立・公正を示しているそうだ。
 文明開化以前の日本の司法といえば、大岡越前よろしく公正さよりもエモさ重視ってイメージを持っている人が多いかもしれない。かくいう僕はそうだった。
 実際には、発令したら発令したっきりでごちゃごちゃになってる法律や、過去の判例に鑑みて厳密に対処していたという。一方で「十両盗んだら死罪だから、盗んだのは九両三分二朱ってことにしとくか」みたいなユルいこともしていたそうだ(最後を二朱にして語呂を良くしてるのがおおらかである)。宇江佐真理先生の小説に書いてあった。宣伝用の短編を書く際に、宇江佐先生の作品を読み込んで、文章のバランスなどを参考にさせてもらった。
 スムースクリミナルのMVで、マイケル・ジャクソンの真似をして少年が踊り出すシーンがある。けっこうキレた動きをしているものの、本物に比べるとまだまだ「しぐさ」の域を出ないあの少年が、いまの僕である。MJは宇江佐先生や、朝井まかて先生、あるいは福永武彦先生だったり。いずれ、僕も誰かが目標に掲げるような作品を書いてみたいものである。ちょうど朝井先生の「白光」を読み始めたところなので、せいぜい勉強させてもらうつもり。
 なんの話をしていたのだったか。そう、MJだ。なにせスリラーの発売が僕の生まれた年であるので、彼のことはそこまで熱狂的に好きなわけでもないのだが、スムースクリミナルはめちゃくちゃカッコいい。あのMVでダンスを踊っていた少年は、ひょっとしたらプロのダンサーになっていたりするのだろうか。そういうのをちゃんと調べないから、選評で時代考証が甘いと叱られてしまうのである。

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