A級順位戦4回戦、マスク未着用問題についての愚痴

 A級順位戦の4回戦、永瀬王座対佐藤天彦九段の対局で「マスク未着用」による反則負けという珍事が発生した。本件に関して、僕は何か意見を発せられる立場にいるわけではない。が、いち将棋ファンとして思うところ多々あり、僭越ながら筆を取ることにした。まあ、ようするに愚痴を吐きたくなったのである。めんどくさいオッサンのたわごとにつき合っていただけるとありがたい。

 まず個人的なスタンスを示しておくと、僕は本件において一番の非はルールを守らなかった佐藤天彦九段にあると考えている。どこかのプロフィールに「推し棋士は稲葉陽八段と佐藤天彦九段」と書いた記憶があるのだが、それはそれとして今回は彼を擁護しない(言うまでもないが本件を経て佐藤九段を応援する姿勢を変えるつもりもない)。
 二番目にまずかったんじゃないかと感じるのは、ルールの運用だ。今回の事件は決してイキナリ起こったものではなく、ルールが出来てから事件発生に至るまでの間に水面下で問題が進行していたと考えるのが自然だと思う。「ルール違反をしても咎められない」という空気が蔓延していただろうことは、佐藤九段の「以前は注意で済んだ」という発言からして想像に難くない。このようにルールの形骸化してしまうのは、その運用に問題があったからである。
 最後にルールそのものの是非。これは非常に難しいところで、僕には判断つかないというのが本音だ。いや、マスク未着用で反則負けって、どう考えてもおかしいのだが、部分的に納得できる箇所がなくもない。というわけで、これについてから詳述していこう。

1.ルールそのものの是非


 このルールには不自然な点がふたつある。ひとつは「反則負け」という厳しすぎる罰則だ。二歩や時間切れが盤上の反則であるのに比べて、マスク未着用はマナーの違反。言ってみりゃ、将棋の技術にまったく関係ないのだ。これに反則負けを与えるのは明らかに異質である。
 もうひとつは反則負けの判定は立会人が行うという点。一見これは問題なさそうなのだが、本件では裁定人である立会人が対局場にいなかった。連盟からそこにリアクションがなかったことから、珍しいことではないのだろう。仮に立会人の不在が常態化しているのなら、このルールは破綻している。
 上記の疑問を繋ぐと、ひとつの仮説が浮かび上がってくる。すなわち、このルールは「罰則の発行を前提としていない」ということだ。反則負けという罰則は厳にルールを守らせるための見せ札であり、基本的に切るつもりはなかったのではないか。反則負けのリスクを冒してまでマスクを外さないでしょう、と。
 将棋連盟がなぜそこまで厳しくマスク着用を義務化し、棋士に守らせたかったのか。これも想像になるのだが一番はクレーム対策であろう。いまや将棋は動画中継で見る時代だ。視聴者の中にはコロナ対策に鷹揚な人もいれば、そうでない人もいる。また、仮に将棋連盟がクレームを問題視していなかったとしても、棋戦のスポンサーがすべてそうであるとは限らない。窮屈さに辟易させられるが、クレーム対策は今日のあらゆる産業において命題である。
 棋士が個人事業主だということもあるかもしれない。重症化リスク、後遺症、どちらもサラリーマンとおなじ感覚で語ることは不可能であるし、なにより棋士は盤の前から逃げられない。向かいの対局者がノーマスクでゲホゲホ咳をしていても、自衛手段がないのだ。
 以上のことから、マスク着用の義務化と反則負けという罰則は「違和感こそあるが理解不能ではない」というのが私の見解である。

2.ルールの運用について


 先に書いた通り、これについてはハッキリ失敗していると思う。少なくとも、佐藤天彦九段は反則負けの裁定を受けるそのときまで「反則負けになることはない」と認識していた。ルールが抑止力として機能していなかったのだ。
 佐藤九段は少なくとも過去に一度はマスク未着用を指摘されている。将棋界の顔とも言うべき一流棋士がルールを守っていないという事態を注意だけで放置すべきではなかった。棋士のなかでも屈指の人気と実力を持つ佐藤九段の影響力を考慮し、その時点でルールの運用方法を見直すところだったのではないか。
 考慮の結果が、今回の見せしめ的な「反則負け」発行だとしたら、反則を指摘した永瀬王座に対する心無い誹謗中傷(≠批判)が寄せられている時点で、それは悪手だったと断ずるほかない。反則負けが見せ札だったというのは僕の妄想に過ぎないが、願望でもある。僕はあの将棋を最後まで見たかった。反則負けというカードを切らずにすむ方法はなかったのか、と考えてしまうのだ。これに関しては、ひどく個人的な我儘を言っている自覚はあるのだが……。
 逆に、将棋連盟が今回「反則負け」を発行せざるを得なかった背景を想像すると、それはそれで気が滅入る。見せしめという手段は集団のモラルが低下傾向にある初期に起こる過度な自浄作用だ。たとえば、マスク着用ルールを守らない棋士が相当数いて、それ以外の棋士の不満が積もり積もっていた、という状況などが考えられる。実際の状況がどうだったかはわからないが、見せしめが必要な状況に陥ったというのはやはり運用が適切でなかった、あるいは根本的にルールの内容が悪かったということ。将棋連盟は過去にも同じように「過剰な自浄反応」を示している。それが教訓となっていないのは残念なことである。

3.個人の非とモラルについて


 明治のはじめごろ、将棋指しは素行の悪さが目立ったという。公儀に認められた技芸からごろつきの博打へと落ちぶれかけていた将棋を、文化として再興させたのは十三世名人関根金次郎だ(個人的には小野五平十二世名人の政治力による功績も大きいと思うが)。氏の対局姿勢の美しさは、その時代の将棋指しや愛棋家に強い感銘と影響を与えたという。関根金次郎は棋士として時代の最強者ではなかった(技では小菅剣之助や坂田三吉が勝っただろう)が、この時代の名人というのは強さだけではなく功績や人間力が求められた。
 名人が実力制へと移行した十四世名人木村義雄の時代に、名人が将棋の強さだけで決まることを嘆くコラムが書かれている。今日においてそのような意見が出ないのは、いまの棋士がタイトルホルダーから新四段に至るまで将棋文化に大きな貢献を持ち、人として十分な倫理観を標準的に備えているからだ。棋士が人間的に尊敬できる存在であるという前提で、盤上の強さのみを純粋に競い合ういまの将棋文化は成り立っているのだと思う。棋士が尊敬を失えば時代の針は巻き戻り、文化は後退を余儀なくされる。
 先にも書いたが、佐藤九段は人気、実力ともに超一流のトップ棋士だ。ほとんどの棋戦で上位に勝ち進むため、必然的に動画中継などでファンの目に触れることも多い。
 佐藤天彦の将棋だから中継を見るというファンも、佐藤天彦に憧れて将棋を指している子供もたくさんいると思う。ノブレス・オブリージュなんていうとちょっとキザだが、心がけてほしいというのがいちファンとしての願いだ。

4.おわりに


 ファンもまた、将棋文化の一部である。永瀬王座の対応を疑問視する意見も理屈は通っているだろうし、多少感情的になって言葉が悪くなるのも仕方ない。が、クソだのカスだの誹謗中傷以外になりえない言葉は飲み込んでいただきたいものだ。ごく一部というには、あまりに目立ちすぎている。僕が黙っていられなくなった一番の理由がこれだ。正義とは主張ではなく手段に宿るもの、この場合だと言葉使いがそれにあたる。
 なんだか説教くさくなってしまった。まあ、小人の愚痴なんてのは、最後は説教か下ネタで終わるものだ。下ネタにならなかっただけマシ、ということで大目にみてくれたら幸いに存じます。
追記)記事を公開してから、佐藤九段が連盟に提出した文書を読みました。僕の考えは将棋ファンとしてすこし横柄なようですね。自戒をこめ、記事は修正せずに残します。
追記2)連盟側の文書も読みました。やはり立会人は常駐ではなかったようで、いよいよルールが破綻しています。佐藤九段を擁護できない(反則負けを受け入れるべきという意味で)と書いたが、そうも言い切れないか。

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