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二、今

  泡もなく、水の中を落ちて行く。
 沈もうという意思も、実の樹に辿り着こうと藻掻きもせず、静かに真っ直ぐと。エレベーターみたいだと、入水前に、なじ、が言った。うまい例えのはずなのに、一方は実の樹のことばかり、一方は付き添っている教師みゅーに、の腕を固く掴んで余裕もない。近くを魚群が通っても、見送るのはなじだけだった。
 眼下湖の底、サンゴのように実の樹があちこち植わっている。
 あちらこちらに目移りして、踊り出しそうなほどそわそわしている、ゆるの、も、背負ったボックスにコントロールされているので、くるくると回転するばかり。付き添いの、むさうし、がそっとボックスに手を当て、ゆるのに落ち着くよう諭す。
 歯の根が鳴りそうな、あじゅ、は、ゆるのだけは見えていた。回ろうとして回れるものではない。体幹にブレもなく、そうやってプログラムされたボックスのように回る。ああ、旅園の子。入水することを説明されてから後悔が上回っていたけれど、何としてでも来てよかったと喜びが勝った。
歓喜の震えは指先から、教師みゅーにに伝わった。
 
「いつものスーツよりも重く、体に貼りつくような違和感があるでしょうけれど、システムはほとんど変わりません。あじゅさん、個別に回線を繋いでみてください。はい、大丈夫です。いつもと同じでしょう。なじさん、ゆるのさんも、いつもどおり慎重に行動してください」
 名前を呼ばれた生徒たちは、素早く視線を交わす。今メットの中で柔らかく響いた声は、本当に教師みゅーにの口から出たものだろうか。若さに比例した素早い目配せは、ベテラン教師によってあっけなく見透かされながら、そっとしておかれた。
 かつて生徒だった者たちも、かつて同じ体験をした。
 今、ここにいる多くがメットの中に延々と垂れ流される教師みゅーにの抑揚のない呪文を聞いてきた。その環境下でピペットを操ればマイクロチップを取り違え、シャーレを前に試薬の滴下する順番を誤り、顕微鏡を覗けばスライドガラスが無残な音を微かに立てる。
教師が授業の妨害をしていいのかとうねりが生じては、いつの間にか霧散していた。
 その理由のひとかけらを今、生徒の幾人かはわかったかもしれない。
 教師みゅーにの呪文に、近年稀に見るほど影響を受けるのが、なじ、だった。「先生、何かがおかしいです」深刻ななじの声が呪文を遮り、思いも寄らぬ結果を引き起こす。それがまた教師みゅーにの呪文を強固にして、なじの失敗に繋がる。もっとも、想像だにしていなかった失敗を新たな発見に繋げるなじは、研究施設から既にオファーが数件来ている。
「特になじさん、と言うところですが、今日はあなたの優れた能力が見られることを楽しみにしています」
 なじは今のところ、イエの園、浮世園にそのまま居るつもりだった。実の樹の植生が水の中の浮世園は、なじの効力と相性がいい。水は怖くない。
 そしてここは水実[みずみ]研究所。浮世園と同じ植生の実の樹を主に扱っている。今日の案内役を買って出た研究員の一人がなじのいとこにあたり、いとこを頼ってよく来ている。
 照れくさそうに、喜色を隠せない顔をするなじを、面白くないとあじゅは一瞥する。
 成績だって実習を除けば自分の方がよっぽど優秀で、最新の情報をキャッチアップするための社交性も高い。それなのに、いまだ園はおろか関連施設からも、声が掛かったことは一度もない。
 だから今日は数少ないチャンス。
 学園の廊下の話から、頭の中はそのことでいっぱいだった。
「あじゅさんは決して無理をしないように。学園での避難訓練ではなく、今日は水中作業です。不安があればすぐに通信してください」
 教師みゅーにが朝からずっと浮足立っているあじゅを真っ直ぐ見つめて言った。
 ゆるのとは違い、あじゅは運動能力で人より劣っている自覚がある。教師みゅーにに声を掛けられたことで、自分にとっては目的外であった水中に、不安がじわじわとせり上がってきた。研究所に来たのは、課外学習が目的ではない。ゆるのとその同伴者にコンタクトを取る方法、自分の何を餌にするのが最も有効か、その提示の仕方。場合によってはゆるの抜きに同伴者へのアプローチを優先する。そんなことばかりをシミュレーションしてきたものだから、課外学習に伴い水の中に沈むことなど計算に入っていなかった。静謐な水面に足が竦む。
「大丈夫、大丈夫。背中のボックスが全部コントロールしてくれるから、君たちはただ水の中に入ればいいだけ。特別なスーツだから、メットの中でいつも通り呼吸もできる。もちろん、サメなんか出たりしない」
 たいして面白くもなかったけれど、あじゅは義理で中途半端に笑った。
 教師みゅーにはすべてを見ている。説明の途中から、実の樹のことばかりで上の空になっていくゆるのの姿も。
「ゆるのさんは、指示に従ってくださいね」
 大人しく、淡々と作業を進める優等生ゆるのは、実の樹がそこにあればつい我を忘れる。
 特に今日は、ゆるのが初めてよその実の樹を見学できる日だから、興奮の度合いは計り知れない。兄、のぎし、が「水中なら問題ないよ。楽しんでおいで」とむさうしのコーディネートを快諾して、来れたのだ。飛び跳ねたい衝動をなんとかぐっと堪えている。
 やっぱり、むさうしへ直接行った方が今日は良さそうだ。あじゅは浮足立っているゆるのを見て、今日の方針を決定する。実の樹を堪能して、余韻に浸るゆるのから目が離せる状態になったときが、自分の出番だ。
 だから、今はとにかく水に入って出てくることに集中しよう。
 
「旅園は本当に、世界を旅する効力に秀でているんですね。水中に特化した浮世園の効力にも劣らないゆるのさんの姿そのものが、正に旅園。学園でも、ゆるのさんはとても優秀で、実の実技では誰よりも情熱的な姿が、多くの信奉者を生み出しているんです」
 地上に這い出た。動力をボックスに頼っていても、強い緊張が続きあじゅはその場に座り込む。今、しかない。ダイブスーツから通常のスーツに着替えてしまえば、おそらく今日はもうメットを外したままになる。個別通信ができるのは、もう今だけだと思え。
 メットに反射する光で、あじゅにはむさうしの表情がわからなかった。交渉には不利な状態だ。でも大丈夫、多少リップサービスが伝わっていても、嫌味と捉えられる部分はない、はず。
「ゆるのさんは、学園でも、ああなんですね」
 むさうしのメットの先には、研究員の腕を掴み、質問を続けるゆるのの姿。
 何を思っているのかわからない声音に、あじゅはさらに慎重に言葉を選ぶ。
「本人の自覚がないところが少し困っていて。地味で目立たない、学園の成績がいい方なだけと認識しているのですが、そもそも旅園ですから。格好の餌食、にならないよう勝手ながら傍にいるようにしているんです」
 だから今日の課外学習のことを知った。
 学園の廊下、なじがゆるのに話し掛けた。問題児なじが優秀者ゆるのに声を掛けるなどそれまでなく、しかも内容が休日に、課外学習先で一緒だと言う。あじゅはすぐに伝手から、水実研究所と教師みゅーにの繋がりを知り、とにかく自分も行きたいのだと懇願した。
 教師みゅーにには、最初からあじゅの目的が見透かされていた。だから条件に、予習レポートの提出と、それを踏まえて課外学習後のレポート提出を約束させられた。
 あじゅにとって、レポートの提出など何の障害にもならない。
「旅園は、実の園の中でも閉鎖的だから。のぎしさんも学園にいる間は大変でしたよ。まあ、本人は何も気にしていなかったようですが」
 のぎし。
 旅園の次期園主と言われる、実産業界きっての実狂い。のぎしの口からは実に纏わること以外、出ることはない。
 実産業界五指に入る旅園の、子供。
「のぎしさんは、そろそろご自分の実験をされたいのじゃありませんか?」
 最大のチャンスだった。
 むさうしの方からのぎしの話を出されるなど、願ったり叶ったり。
「……さあ、のぎしさんはよくわからない人なので」「私は」
 会話を立ち消えさせないよう、息つく間もなくむさうしの言葉尻に咬みつく。
「ご覧になっておわかりでしょうが私は本当に運動能力に乏しいです。今だって先生の介助がなければ最後まで水中にいることさえ適わなかったでしょう。でもだからこそ旅園の実を試す価値があるとは考えられませんか。旅園の実がどれほどの効力であるか宣伝にも繋がることでしょう。それに私体力はあるんです。今はまだ少し水中の戸惑いから回復していないのでこんな情けない姿ですがそもそも体はしっかりしています。一般学校へ通っている時でさえ運動能力は劣っていましたが健康では勝っています。より多くの実験に適しているとは思いませんか」
 実産業への門戸は狭い。実の園の子供として生まれるか、幼少期より優秀な成績を修め学園への入学を推薦されるか、実産業従事者の子供として生まれるか。
 二番目のあじゅは、三番目よりも遥かに厳しい立ち位置だと知っている。
学園に入るまでは一番目に敵わなくとも三番目にはと思っていた。九歳から入園して、一年、二年と、一番目にさえ匹敵していた。段々と実の栽培や実験実技割合が増えるに連れ、二番目は三番目にさえ敵わなくなっていった。だから二番目は、ニッチな技術、研究を進めるより他ない。自分の武器を見誤ってはいけない。
 あじゅは、情報に通じていると自負している。人間相関図だけではない。そこから生じる新たな実の可能性、技術刷新、制度改正の兆し、微かな匂いを嗅ぎ分けられる。いち早く、次の波に乗れる。いやきっと、自ら波をうねり出すことだってできる。
 でもそれは、旅園に向けてはあまりに弱い。
 携わるもの以外すべて排除する旅園に、売り込める武器ではない。
 だから、産むからだを提示しようと決めていた。
 
 教師みゅーには、ついさっきまで思い切り腕を掴んでいたあじゅの口が、メットの中で動き続けているのを見ている。じんじんと腕に血が巡る。
 外からでは誰と誰が通信しているかはわからない。わからないけれど、わかっている。あじゅが今日ここに来た理由は、旅園なのだから。
 メットの中の通信にはマナーがある。勝手に通信を転送してはいけない。
 マナー違反の転送が開始される。小さくからだを揺らしたゆるのにも。
「のさんみたいに実そのものに興味はないんです。学園の勉強もその後の実産業入りを目指してのことです。のぎしさんのいくつかのエピソードは知っています。実をだしに交友を持とうとしたら不勉強だと罵倒されただとか。のぎしさんがのぎしさんゆるのさんくらい実に耽溺できるひとを迎え入れることも。あなたもその一人なんですよね。ところでこう思うんです。のぎしさんはそのような人が一時的であれ妊娠という状態で実に関われない時期が発生することを歓迎するだろうか。悲劇的なできごとだと感じないだろうか。だからのぎしさんの実の効用の実験に相応しいのは体の頑丈なもっぱらそればかりを引き受けられるひとではないだろうかと」
 教師みゅーにの呪文を聞いてきたゆるのは、あじゅの搦めとる抑揚に捕らわれもせず質問を続ける。
「それに私なら実の交渉も苦も無くできます。調達もそのための煩雑な事務作業ものぎしさんが好まない実に直接関係ないことすべて私なら調整できます」
 教師みゅーにの元に生徒だったものたちの訃報が届き出したのは、十四年前のことだった。
 それまで教師みゅーには、実産業に入ろうとする生徒たちを熱心に応援していた。年を重ねるごとに情熱を失っていく教師たちから見放された二番目の生徒たちを、実産業に繋げるべく、卒園した生徒たちに連絡を取り続けていた。
 一番目の生徒も三番目の生徒も、実の園の秘匿性からほとんど連絡は絶えてしまっていたけれど、二番目の生徒だけは頻繁に連絡が返って来た。二番目は、どこに行っても寄る辺のなさがあるのだろう。ますます教師みゅーには支援に力を入れた。
 中には、教師みゅーにを嘲笑し、落胆の表情を向け、まるで道理のわからない幼い子供を見るような目で見つめ返す生徒がいた。
 二番目の生徒たちは優秀だったから。実産業に従事することがどういう未来なのか、先にわかっていた。
 同じ二番目だった教師みゅーには、学園と教育者指導施設しか知らなかった。それ以外の選択肢を考えたこともなかった。自分がそうであったように、実への従事を無邪気な残酷さを纏って導いてきた。
 自分より十も若い生徒たちだったものが、実産業に身を食わせていく。
 教師みゅーには呪文を唱える。
「水中の実が浮くことを観察しましたが、錘と浮でさらに負荷の加減を実験する区画では実の形状に特徴が現れていました。しかしながら依然として外観から実の効力を測定する技術は確立しておりません。実の効力は人体摂取にて作用を測るのみです。実の園は不特定多数へ実を販売することが目的ですので、摂取人体の無作為選出を用いることが多く見られます。しかしながら研究機関においては同じ条件下でそれぞれの実の効力の違いを測定する必要があります。多胎児の出生率を上げる研究に注目が集まったのはそういう過程を経ています。ご存知のようにあじゅさんも多胎児で、多胎児からは多胎児が比較的産まれ」
 抑揚のない教師みゅーにの声が、全員のメットの内側に流れる。
 唐突に始まった淡々とした呪文に、ゆるのも、あじゅも、口を半開きのまま言葉を紡げなくなる。
 実の園では、いえ、私は知らないおそらく社会の多くの事柄で、最適な環境下で居続けられることなどまず起こらないから。必ず何かを調整しないとうまくいかないことばかりだから。どんなことがあっても生きていけるように、せめて生徒でいる間、障害となり続けよう。

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