一、未来の未来
ベッドの上で腹這いになって、D[デニール]はあじゅの日記を眺める。
もうほとんど覚えてしまったできごとの、微かなペン溜まりに指を重ねる。
あじゅの日記は読みにくい。不必要な手書きの文字を追うのは、妙に疲れる。文字を書く行為、力の入り具合、ためらい。日記にはあじゅの時間が取り残されていて、その生々しさに取り込まれてしまいそうになる。きっちりとした性格が滲み出た、やや角張った文字そのものは読みやすいのが救いだ。
手書きの性質か、あじゅの性質か、気づけばDは日記に感情を重ねてしまい、「論文は創作ではありません」と同じ指導をされ続けている。「いい加減、エントリーし直しちゃえば?」ROL7[ローロー]に何度か言われても、貴重な一次文献だから、と固執している。
会ったことのない、直接知っている人からさえ語られることのない、祖母あじゅ。
ほとんど誰に注目されることもなく、歴史の中に埋もれたあじゅの日記が、その死後、おそらく研究員の手によって、Dの母親、そしてDへと受け継がれた。
あじゅの日記は、物語のようだ。
情報通を自称する祖母の、明確なできごとを記した日記は、破天荒な人物ばかりが登場する。憧れと、時折妬み、そういう中に居られる幸福について。繰り返し書かれている。
そうでない人は、語られないあじゅと同じように、書かれていない。
客観性があるようで、あじゅによる明確な線引きがされている日記を読むことは、日増し難しくなっていく。何が書かれて、何が書かれていないのか。その整理をしなければ論文まで曖昧になってしまう。それでいて書かれていない部分を補おうとするたび、書かれていないことを読まないように、と指導される。おまけにあじゅの死が近づくにつれて、乱雑に、書かれた文字が所々搔き消され、思い出と感情で埋め尽くされている。
実[み]産業の崩壊と共に形骸化した異国の、古い言葉を習得して、ひっそりと日記を解読してきたD。ついに論文を書くため自分だけが持っている貴重な資料の開示と引き換えに、あじゅが祖母にあたることも数人に明かした。
すべての過去と別れるために。
成績を修め、スチューデントを卒業するために。
止まっていた手を、再び動かし始める。
ベッドが沈む。
ダイブしてきたROL7の指が重なる。
「見ていい?」
ウォーターベッドにしてみよう、とROL7が言うから、設定を変えてみたものの、揺れ方まで忠実に再現されているようで、二人目の加重がDを揺らす。揺れにちっとも慣れることはなくて、マットレスに戻すタイミングを計っている。
「ダイブするときはノック」
RLO7の手を、軽く叩いた。
スチューデント、の中から永久ダイブ移行実験対象者を選定する。
数年前から噂は流れていた。
もっとも今や人類の八割がスチューデントのまま人生を終えているのだから、その選定は厳しいものだろうと、予想もされていた。ヴァーチャル空間に存在するスクールに通うスチューデントの大半は、いち早く動向を掴むためドクターやクリエーターに手土産を持参し、ご機嫌伺いを欠かさなかった。
Dの切り札は、あじゅの日記だった。
出自を捨てて、この国に逃げてきた母親も、もう亡くなった。
Dには、もうためらう理由がなかった。永久にヴァーチャル空間へダイブすることを。
唐突に正式募集が始まって二日で、Dはエントリーを済ませた。ダメ押しに、ダイブ中の追加実験項目にチェックをした。
実験のスケジュールは何も知らされていなかった。締め切りの三日後には、選考を通過したと通知が届いた。実験の性質上、自分が対象者であることをスチューデントに漏らさないことと、誰が他の対象者かを探らないことを誓約させられた。
それから四か月。
変わらずスチューデントの生活を続けている。
学業が終わればダイブから浮上していたけれど、そのままダイブを続ける時間を、少しずつ伸ばして影響を測っている。毎日リポートやアンケートを提出して、浮上するたびに大げさな検査をいくつも受けて。煩わしいことは増えた。けれどほとんどが、実験前と変わりがなかった。
まあ、こんなものか。
Dの四か月の感想は、総じてそんなものだった。
追加実験については、もうしばらくダイブに馴染んでから、とだけ言われていた。
目下、スチューデントを卒業するべく、論文を書き上げるだけだった。
あじゅの日記は、あじゅの子でDの母親が逃げ出したとき持たされた、くまのぬいぐるみの右目に仕込まれていた。
Dが五歳のとき、それはDの母親が知らず日記を受取ったのと同じ年で、ボロボロに毛羽立ったくまのぬいぐるみを、探検していたクローゼットの奥で見つけた。弾みで、右目に保存されていた日記のデータが薄暗い壁に照射された。見たことのない文字で書かれた日記は気味が悪く、Dは元の、クローゼット奥深くに戻した。
そんなことはすぐに忘れて、Dは八歳になった。
クラスメイトにフルーツを貰った。親戚が旅先で買ってきたからお裾分けです、とかしこまった台詞と渡された。ご丁寧にありがとうございます、といつかの母親の真似をして、Dは両手で受け取った。
家に帰って台所を漁り、ピーラーで皮を剥いた。一口二口齧ったところで、母親が帰宅した。
Dの母親は自分のことをほとんど喋らなかった。一年に一、二度、泊りがけでどこかへ行くことがあったが、ちょっと遠くなんだ、だからお泊まりなんだよ、とだけ父が説明をした。だからと言って、取り立てて変わった人ということもなかった。コーディネーターという仕事で優秀と言われているらしく、Dの同級生の親たちの中にも馴染んでいた。
その母親が憎々しい顔をして、食べかけのフルーツを払いのけ、Dの口に指を突っ込み、食べたものを吐き出させた。吐しゃ物と唾液と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったDをバスルームに連れていき、服を脱いでシャワーを浴びるように告げた。
汚れ物を洗面台で洗っているから、Dの浴びるシャワーはいつもより水流が弱かった。
ふわふわのバスタオルと、着替えが用意されていた。
何が何だかわからないままダイニングに戻ると、何事もなかったかのように片付けられていた。フルーツも、見当たらなかった。
茫然と立ち尽くすDに気付き、ごめんなさい、とDの前に跪くDの母親。Dの薄い体にしがみつき、ごめんなさいと繰り返す。「ごめんなさい。いいの。もう食べたって、いい。ごめんなさい。でも私の前で、あなたが実を食べないで」
そのできごとを父親に報告することもできず、ただこっそりクラスメイトに「あれ、何て言うフルーツ?」と聞いた。「ぎじみー」と言われた。
普通の母親だった。
世界中を移動している家族、ヴァーチャル空間開発に携わる親がいる子供、動植物の保護に勤めている一族。Dは、クラスメイトに説明することのない、平凡な家庭の子供だった。
知りたい気持ちと知りたくない気持ちが揺れ動いた。まだ八歳のDに、大人の手を借りずそれを調べることも難しかった。
そして二年が経った。「み」は、あっけなく授業で習った。特別な実を栽培していた唯一の国が、Dの母親の母国だと、何とはなしに得意気な教師から聞かされた。
その日からDは、あじゅの日記が読めるまで、もう公式に使われなくなって半世紀以上も経つその国の言葉を、学んだ。
だからROL7が日記を除いたところで、文字一つ読めはしない。
エントリーをするためにはもう一つ、翻訳が必要だった。あじゅの国の言葉を入力できるシステムなど、存在していない。日記というより報告文書、いや手紙に近しい書きぶりを、わりと綺麗に翻訳することはできる。アプローチの一つとして、比較的しやすそうな日を翻訳したこともあった。書かれていることを、自分の言語に時折迂回しながらきちんと置き換えられたと思った。翻訳を読んだドクターはコーヒーを片手に、Dの論文よりよほど論文らしい、と評した。
あじゅの息遣いがわからない。
もう二十年以上、Dはあじゅの日記をなぞっている。あじゅの言語が対応さえしていれば、自動翻訳で大まかな筋が通るほど、日記らしさは少ない。
それなのにどうしても、あじゅは何か重大な秘密を隠したままなんじゃないかという疑念が拭えない。秘密があることさえ秘された、秘密の消滅がここにある。
タイマーが鳴る。丸二日のダイブの終了だ。
ぼんやりと覚醒する。
カプセルから、のそのそと這い出る。
真っ白いダイブスーツを脱ぐため、背中に回す肩がめりめりと軋みながら、可動域を回復していく。
ダイブの感覚は、ダイブスーツが発する信号で引き起こされる。
重量感のあるカプセルだけが置かれた部屋のセキュリティは強固。おそらくそれはカプセルのためであって、カプセルを使用している無防備な自分のためではない。
布越しに掴むチャックは現実感がなく、ろーろー、の指の方がよっぽどリアルだった。でもそれも、そういう信号がスーツから送られてきていただけ。
上半身だけ脱いで半裸のまま、シャワールームへ向かう。
ランドリーシュートに脱ぎ終わったダイブスーツを投げる。
脱いだスーツも分析される。皮膚から出た成分を調べ、Dをわかったようになるために。
「バーチャル空間をお洗濯」
Dは笑う。体に貼りつくスーツの中だけが、無限と言われるバーチャル空間なのだと。
シャワーの刺激が、生身の肌に刺さる。
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