自分とのコミュニケーションと、オナニーという選択肢
こんにちはなのだ。
得たイさんはようやく12ステップの第5段階に移行したのだ。
詳しくは前回の記事を見ていただきたいのだけど、ステップ1~3で得たイさんは見えないものを信じることを身につけたのだ。そしてようやく、自分の感情に向き合う段階に入って、その作業を終えたのだ。
ステップ4の概要
ステップ4の内容は
恐れずに、徹底して、自分自身の棚卸しを行い、それを表に作った。
なのだ。
自分自身の棚卸しとは、要するに過去の感情を再度感じて分類し、手放す作業なのだ。相手をリストアップし、その相手にされた行為と抱いた感情を細かく分類するのだ。そうすることによって、自分のことがわかってくるのだ。
得たイさんは、このステップ4が自分とのコミュニケーションだと思ってるのだ。
自分とのコミュニケーションの位置づけ
自分とのコミュニケーションとは、自分自身の感情に向き合うことなのだ。過去の感情を感じ切ることなのだ。これは一人ではできないのだ。どこかしらで否認が起こるし、フラッシュバックが起きたらそれを受け止められる他人がいない状態でやるのは危険なのだ。自分とのコミュニケーションはかなり高度な段階なのだ。
12ステッププログラムでは、自分とのコミュニケーションは第4段階にあたるのだ。自分に対して正直でなければならないので、その前に3ステップを踏まなければならないのだ。
1. 私たちは【あらゆる物事(自助グループでは主に依存症のこと)】に対して無力であり、思い通りに生きていけなくなったことを認めた。
2. 自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。
3. 私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。
これが難しいのだ。人は一人では生きていけないことを理解し、文明や科学、ひいてはスピリチュアルが自分を生かしてくれることを信じ、そして全てを神に委ねるのだ。
これがスポンサー(依存から回復している先ゆく仲間)と一緒にできて初めて自分とのコミュニケーションが取れるのだ。そしてそこから見えてきた自分の問題を解決するために神とのコミュニケーションを取り、そして相手とのコミュニケーションに至るのだ。
自分とのコミュニケーションに必要なのは、神を信じて委ねることなのだ。依存症をはじめとする精神疾患は文字通りスピリチュアルの病気なのだ。スピリチュアルを捨ててしまっていることがすべての精神疾患に共通しているのだ。だから、依存症や精神疾患の根本療法はスピリチュアルを身につける以外にはないのだ。
オナニーと向き合う選択肢
自分とのコミュニケーションがある程度のステップを踏まないとできないのは、感情の先に他人がいるからに他ならないのだ。そこで、エタイさんのメインの性の自助グループでは、オナニーの棚卸しが提案されているのだ。
なぜオナニーなのか、それは「性」が「生」だからなのだ。性は生きるために大切にされなければならないものなのだ。
オナニーは、自分を愛することも傷つけることもできる手軽な方法のひとつなのだ。それは物理的にだけでなく、情緒的・スピリチュアル的にもそうなのだ。だから、自分のオナニーがどういう傾向(時間帯・その前後最中の気分・する時の動機・何か道具を使うか・オカズは何か・etc)にあるかを振り返って書き出すことにより、自分の傾向が見えてくるのだ。ただ、一人でやることはできても、それをスポンサーやメンター等、他人に見てもらうことは必要なのだ。
ただし、自分とのコミュニケーションでオナニーを選択する場合でも、自分の無力さを認めて神の存在を信じ、自分を捧げる決意が必要な点は変わらないのだ。
自分に興味を持つことの大事
コミュニケーションには、自分と他人が必ずいるのだ。だからまず自分に興味を持てずして他人に興味は持てないのだ。
描き子さんの記事にはこうあるのだ。
これは一つの仮説で、ちょっとした物事の見方なのですが、
「自分に興味を持ってもらいたい」「自分の話を聞いてもらいたい」と感じる人(tsunaさんもそうですし、多数の人がそうだと思いますが)というのは、自分自身に対して十分な興味を持てていない人です。
そして酒イさんもこう書かれているのだ。
「他人に興味が持てない」言い換えると、
「他人にも興味が持てない」ということなのだ。
根本的な原因は自分自身の深い感情への認知にあるのだ。
自分自身の深い感情から目を背けて、感情を抑え続けてきた結果なのだ。
感情が抑圧されているのだ。
酒イさんはこのことについて、自分の感情に興味を持てないからだと指摘されていて、エモーショナルという表現を用いているのだ。
情緒(エモーション)もまたスピリチュアルのひとつなのだ。感情に向き合う前段階としてスピリチュアルの存在を認識すること、尚且つ信じることが必要なのだ。
ただし情緒は、自分の中にあるものに過ぎないのだ。信じなければならないのは、自分を超えた大きな力(ハイヤーパワー)なのだ。その存在を認め(=自分の力では何も出来ないという敗北宣言をする)て、はじめて自分に存在する情緒がわかるのだ。これが自分に興味を持つことの始まりなのだ。
話をオナニーに戻すのだが、大人なら誰しもが一次性徴・二次性徴ともに自分の身体に関心を向けたはずなのだ。そこには(特に二次性徴には)、自分の意志を完全に離れた身体の変化を感じたはずなのだ。オナニーの棚卸しは、この「自分の意志を完全に離れた」ところを意識してオナニーを分析していくのだ。そうすることで自分のことがわかるようになるのだ。
自分のスピリチュアルを持つこと
自分と相手への興味を持つことの始まりは、自分のスピリチュアルを持つことにあるのだ。自助グループではこれを「自分なりに理解した神」と呼んでいるのだが、要するに何でもいいのだ。信仰のある人ならその対象たる神や仏になるだろうし、そうでない人なら自分が信じられるものなら(人間以外で)何でもいいのだ。責任を外にブン投げれば自分で抱え込まずに済むから楽になるのだ。
「セックス依存症になりました。」38話にはこうあるのだ。
「神」は自分の感情を手放して溜め込まないようにするための道具とも言えるのだ。他人(人間)と違って負担を感じないから、本来感情をぶつける他人の身代わりとして利用しない手はないのだ。それを意識的に徹底的にやって見える化するのが、自分に興味を持ってコミュニケーションするということになるのだ。
コミュニケーションの前の注意点
自己肯定感の低い人にとって、神を信じることは難しいことなのだ。だから無意識に人を崇めてしまうことがよくあるのだ。ネットでよくあるのが、コミュニケーション講座やオンラインサロン、エセスピなどに傾斜してしまうことなのだ。
婚活や恋活、あるいはビジネスの場ではよくコミュニケーション能力に特化した講座が行われているのだが、あれは自己肯定感の低い人にとってはほぼ効果がないのだ。理由は単純で、コミュニケーションという方法論に全振りすること自体が100%自分の力に頼りきって神を信じることを捨てる行為だからなのだ。講師が神を信じていない、そして神を信じられない現実主義の人は他人を崇めることが生存戦略になるから、話し手も聞き手も相手どころか自分とのコミュニケーションを取る段階ですらないというバグが、そんじょそこらの講座やネット上で普通に起きているのだ。
コミュニケーションなどの話で人が寄ってくる場合、あれは自分が崇められていると思っていいのだ。得たイさんも、人を崇めてしまって失敗したことがあるのだ。それを手放せたのは自助グループでの12ステッププログラムのおかげなのだが、これは何らかの福祉に繋がれないと自分に興味を持つのは難しいということになるのだ。これはまた別の問題なのでここでは省くのだ。
他人を崇めてしまう人が求めているのは、大抵「ママ(概念)」なのだ。子供が母親を信じるのは、子供にとっての世界観では母親が自分の力を超えた絶対的な存在だからなのだ。自己肯定感の低い人はその母親を信じられなかったから、他人にママ(概念)を求めてしまうのだ。
最後にするのだが、自分とのコミュニケーションを取るために必要なことはとにかく自分は無力だと認める敗北宣言なのだ。自分の力で生きてると思うことが思い通りに生きていけなくなる(生きづらさ)の根本的な原因なのだ。それを徹底的に自分に刷り込んでいくところから、自分とのコミュニケーションが始まるのだ。
自助グループでしらふを願うニーバーの祈りを引用して、今回は終わりにするのだ。
神様、私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして、二つのものを見分ける賢さを
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