モテという概念を捨てようなのだ

得たイさんが常々思っていることなのだ。

得たイさんは、5年前に婚活がうまくいかなくなったので何かがおかしいと思って婚活をやめたのだけど、そこから自分と向き合っていく中で「モテる」ということは意識しても何の役にも立たないことに気がついたのだ。

端的に言えば、モテようとして生きる人生なんてクソつまらんということなのだ。なんとなく気づいてたのはだいぶ前なのだけど、言語化できたのは最近なのだ。

今回は、モテとか非モテとか意識しないほうが人生ラクだということを言いたいのだ。

モテとはいったい何か

幻冬舎 電子書籍のアカウントのこの記事の記者は、モテとマッチングをしっかり立て分けているのだ。

私もかつては「女子アナみたいなキャラになるべきか?」と血迷った時期がありました。が、そんなの8回ぐらい転生しないと無理だと悟った。人は自分以外の人間にはなれないし、自分以外の人間になろうとするとメンタルがやばくなる。

 当時の私も合コンさしすせそ的なものを実践しながら(さすがですね! 知らなかった! すごーい! センスいい! そうなんだ~!)「こんなことしなきゃモテないなら、死んだ方がマシだ」と思っていました。それに死ぬ思いでモテテクを使ったところで、そんな安い技に釣られるのは所詮ザコ。どうでもいい男を釣っては「私がほしいのはザコとは違うのだよザコとは、うわーん!!」と慟哭(どうこく)していた二十代。

 そんな拾う骨も燃え尽きるような時代を経て伴侶に巡りあった私は、真実に気づきました。

 「恋愛は選挙じゃない、モテとマッチングは別物なのだ」と。

要するにモテようとすることは「自分以外の人間になろうとする」ことなのだ。だから技術が必要で、モテテクがネットの海に溢れているのだ。

得たイさんは95kgの典型的なデブで、よく「痩せればモテる」と言われるのだけどダイエットなんかまっぴら御免なのだ。得たイさんにとって、痩せることは「自分以外の人間になる」ことなのだ。痩せなきゃモテないなら死んだほうがマシなのだ。

しかし実際のところモテる人はいるのだ。彼らがモテない人と何が違うのかというと、モテる人は自分が自分自身という人間であるということなのだ。ありのままの自分を受け入れている彼らにはモテという概念は不要なのだ。

つまり「モテ」という概念は「自分という人間になれない人々」が「自分自身という人間である人」を僻んでラベリングしているに過ぎないのだ。

モテテク(それをモテテクと認めない人が語っている、モテるための「技術」)を身につけた人がモテているのは、メッキを貼っただけに過ぎないのだ。自分という人間から目を背けてメッキを貼って、その実本当の意味でモテる人を「モテ」という概念を使って僻んでいるのだ。自分という人間とマッチングしてないのだ。

津島さんの経験則なのだ。彼はセックス依存症を診断される前からモテていたのだけど、「モテ」は技術によるメッキだったことを本人が証明しているのだ。

マッチングアプリでモテるための「技術」のひとつを説明しているのが下の画像なのだ。津島さんはこれを実践した結果、セックス依存症の「底つき体験」をするに至ったのだ。

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モテテクはこのように、幸せになれないことを示しているのだ。

毒親育ちで非モテと呼ばれる人が相手に恵まれない理由はひとつしかないのだ。毒親の機嫌を取るために自分を偽ることが、大人になった現在に至るまでの唯一の生存戦略だったからなのだ。

非モテは生まれでは決まらないのだ。生まれで非モテというレッテルを自分に貼って決めつけているだけなのだ。そもそもモテという概念そのものが自分がモテないというレッテルであって、そうやって自分がこういう人間だと決めつける(=モテテクを身につける)ことによって自分が「自分」という人間から離れていくのだ。

諦めるというのは、自分を好きになることを他人任せにする(=非モテを(能動的に)克服する)ことをやめるということなのだ。「モテ」という概念を持つこと自体、セックスに能動的に近づこうとする点で恋愛工学と根っこが同じなのだ。

自分のことは自分で好きにならなければいけないのだ。自分とマッチングすることへの第一歩は、まずモテようとすることをやめることなのだ。

自分自身という人間になるには

これが難しいのだ。まず言葉として理解が難しいのがひとつと、自分自身である人はそれを理屈ではなく感覚で理解しているのがひとつの理由なのだ。

理屈で理解することは現実主義で、感覚で理解することはスピリチュアルなのだ。理屈で理解する人は目の前の現実でしか判断と行動ができない一方、自分自身である人はそれぞれが独自のスピリチュアルを持っているのだ。現実主義とスピリチュアルは相容れない関係で、前者はそれ故にあらゆる人間関係のストライクゾーンが狭まってしまうのだ。

スピリチュアルといっても難しいものじゃないのだ。例えば「引き寄せの法則」とかも一種のスピリチュアルなのだ。まあそういうのも信用できない現実主義の人はいるのだが、要は何かこう、希望的観測を信じてみようと思う力なのだ。

自分自身という人間になるには、現実主義とスピリチュアルを繋ぐ必要があるのだ。両者を繋げられるものは「理論」なのだ。

例えば、服装を見直す参考書として「服を着るならこんなふうに」が有名なのだ。オタクファッションが重視する「機能美」(現実主義)と一般的なオシャレと身だしなみに求められる「センス」(スピリチュアル)を「MB理論」で繋いでいるのだ。MB理論は「センス」の正体を的確に現し、場面に応じた「機能美」を提案しているのだ。

「服を着るならこんなふうに」は、MB理論をわかりやすくマンガにしたものなのだ。元のMB理論は下のリンクの本が詳しいのだ。

「服を着るならこんなふうに」は、現実主義の人がセンスというスピリチュアルを獲得する初級編なのだ。

スピリチュアル上級編は、自助グループの「12ステップ」なのだ。これはAA(アルコホーリクス・アノニマス)の本に示されているのだ。

この本は12ステップの教科書で、自助グループで使用されるものなので一人で実践するのはとても難しいのだ。依存症が思い当たらないなら、思い切ってACA(アダルト・チルドレン・アノニマス)に通ってみるのもひとつの手かもしれないのだ。

自助グループの12ステッププログラムとそこに繋がるメンクリでの依存症の治療は、ただひたすら理論なのだ。深刻な依存をするほど歪んだ認知(現実主義)をスピリチュアルに導いていくための理論なのだ。自らの体験に基づいて共有して共感し、理論に基づいて回復に繋げていくために自助グループが必要なのだ。

自助グループに通い自己回復していく体験を「霊的体験」と言ったりするのだ。こう書くと一気に胡散臭くなってしまうのだが、それはもう仕方のないことなのだ。

日本人は宗教アレルギーが根深いゆえに自助グループのような正統派スピリチュアルが容認できず、スピリチュアル要素を排除したカウンセリングやプログラムを開発しては失敗に終わる繰り返しをしているのだ。そのくせ似非スピリチュアルには簡単に引っかかるのだ。日本人の自己肯定感がいかに低く現実主義的か、ということなのだ。

現実主義がスピリチュアルに繋がる理論を探すのはとても難しいのだ。先述のように日本人は宗教アレルギーが深刻なので、見えない力に委ねるという方法論は殆ど開発されてないのだ。何かスピリチュアル(似非ではない)に出会う機会があったら、それはもう運だと思って飛び込んでみるしかないと思うのだ。

スピリチュアルを自分で生み出す

こうなると、もうスピリチュアルを自分で生み出すしかないのだ。「セックス依存症になりました」には、スピリチュアルを受け入れることについてこう描かれているのだ。

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自助グループではこれを「自分なりに理解した神」と呼んでいるのだ。つまり、人を超えた大きな見えない力が存在することを信じて、目の前で起きたことを「何か他の(人間以外の)もののおかげ」だと認識することで、精神的な安寧を得る方法なのだ。「引き寄せの法則」や「都市伝説」もその方法のひとつなのだ。人間を超えた力を信じるということは、人類が生み出した叡智なのだ。

毒親の色に染まって歪んだ自分や、イジメによって自己を封印させられてきた自分を解放するには、人間を超えた力を信じることを理論によって実践する途方もない作業が必要なのだ。何かのきっかけで「自分なりのスピリチュアル」を見つけるのが良いと思うのだ。自分なりのスピリチュアルは他人に押しつけられたりするものじゃないし、無理やり信じるものでもないのだ。それを見つけられるかどうかが、人生を楽に生きられるかどうかの鍵なのだ。

モテることはモテと関係ない

以上、モテとはまったく関係ない話をしたのだ。得たイさんは「モテという概念は人生において邪魔」という趣旨のことを言っただけで、モテの方法論は一切話をしてないのだ。だけどそれを実践してきた得たイさんは結果として「モテ」ていることに気がついたのだ。

得たイさんはいろんな人に囲まれているのだ。他人には優しいとよく言われるし、現に過去には4人同時の片想いだってできたのだ。これは人間を超えた何か絶大な力が、得たイさんにメッセージを残してくれたと理解しているのだ。そのために4人の女の子が集まってきた、これこそ「モテ」の一種の姿なのだ。

「モテ」は良い方向ばかりとは限らないのだ。得たイさんは今まで3人の双極性障害者に騙されてネットでトラブルに巻き込まれたのだが、最近リアルで知り合った人がまた双極性障害を持っている人だったのだ。得たイさんには、双極性障害を引き寄せてトラブルに巻き込まれてしまう「何か」がきっとあるのだ。

良きにつけ悪しきにつけ、得たイさんは人を引き寄せる「何か」を信じた結果としてこういうことが起きているのだ。それは「何か」からの励ましのメッセージかもしれないし、警告かもしれないのだ。いずれにしても、スピリチュアルを信じることによって人が集まってくるのは間違いないのだ。それをたまたま自己肯定感の高い人が「引き寄せの法則」と表現しているだけの話なのだ。

語弊があるのだが「モテる」ことは「モテ」とはまったく関係ないのだ。タイトルの「モテという概念を捨てよう」の意味はここにあるのだ。

津島さんが言ったように、モテは自分を好きになることを外に求める概念なのだ。モテを意識している限り、自分を好きになることはできないのだ。自分を好きになるには、自分という内にそれを求めなければならないのだ。それは辛く苦しいことだし、モテを意識すればそこから逃れられるし楽なのだ。言ってしまえば「モテ」とは逃げの概念なのだ。それが理解できた時、モテは意識しなくても簡単に捨てられるのだ。

「モテ」という概念は自分の成長を止める、悪い意味で人間を超えた絶大な力なのだ。そのことに気づかせてくれたネットの海、そして反面教師になってくれた人に感謝するのだ。本当に本当にありがとうなのだ。

そういう人が現れて得たイさんの一挙手一投足を動かしこの記事を書かせ、新しい気づきを与えてくれたのも人間を超えた絶大な力にだということに感謝して、今回は終わりにするのだ。

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