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自己肯定感を回復するためのアタオカのすすめ

依存症からの回復を目指す得たイさんなのだ。こんにちはなのだ。

自助グループで依存症の治療をしていて、仲間によく言われることがあるのだ。それは「いかに自分が狂っていることを認められるか」が大事だということなのだ。

12ステッププログラムのステップ1では、

私たちは【依存症】(得たイさんの場合は「性的渇望」あるいは「性的強迫症」)に対して無力であり、思い通りに生きていけなくなったことを認めた。

とあるのだ。

依存症に対して無力を認めるとは、自分があまりにも強固な意思を以て依存に走ってしまう、その狂気を認識するということなのだ。そして、その狂気を思うがままに話す場が自助グループであり、ミーティングなのだ。

つまり、狂っている依存症者が回復するには、狂っていることに正直でなければならないのだ。狂っていることに正直ということは、回復行動をするためにも狂っていることが必要ということなのだ。

ただこれは依存症者に向けた話ではあるのだが、依存症は低い自己肯定感の病気のひとつであることから、この話は愛着障害や精神疾患全般に当てはまることのように思うのだ。

そこで今回は、狂った状態で回復するための心構えについての話をするのだ。


狂気の回復行動① 自分はアタオカだと開き直り他人への加害を示唆する

12ステッププログラムはスピリチュアルプログラムである故に、我の強さやプライド、そういったものを捨てなければならないのだ。そのための第一歩は先述のように自分が狂っていることを認めることなのだが、悲しいことに依存症は否認の病だから一人ではそれを認めることは難しいのだ。

だから自分が過去に他人から言われたことや受けた傷、そういったものを思い出したり書き出してみることが有効なのだ。そうすると、自分がどうして「思い通りに生きていけなくなった」かが見えてくるのだ。

繰り返すのだが依存症は否認の病なのだ。狂っていることを認められないのだ。ならばそれを逆手に取り、「自分が狂っている訳ないだろ、自分の言動の何が悪い?」というアタオカ発言で開き直るのだ。狂っているから他人への加害を示唆することもあるだろうし(無理にする必要はない)、その発言を躊躇する理由は最早ないのだ。それは自分に対して正直であるという回復に絶対必要な要素に他ならないし、相手が怖がってもそれは相手の問題でしかないのだ。

ただこれには配慮が必要なのだ。正直ではなければならないのだが、正直すぎるのも問題だし相手を名指しするのはダメだと思うのだ。あとこれは当たり前なのだが相手への加害予告をしてはいけないのだ。それは自分の正直な心を打ち明けることとは全く違うから注意しなければならないのだ。

但し相手が勝手に「○害予告だ!」などと被害妄想した場合は知るかタコっていう話なのだ。それをどう取るかは、繰り返しになるのだが相手の問題なのだ。

そう、これがまさに狂っていることを認めた状態なのだ。

狂気の回復行動② 不満や他人への加害は全部神に押しつけて自分を正当化する

「セックス依存症になりました。」にはこう描かれているのだ。

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自己肯定感の低い人は権威に弱く、そのくせ神仏や「正しさ」というものに対しては理想論を押しつける一方、スピリチュアルは信じないという非常に自分勝手な特徴があるのだ。そういった身勝手が回復を阻むのだが、自助グループで行われる12ステッププログラムではここに描かれているように、自己肯定感の低い人の身勝手な考え方をブチ破るためにどんな考え方をしてでも神を信じる必要があり、そのための訓練としてスポンサー(回復を直に手伝ってくれる自助グループの先輩)と一緒にステップワークをやって回復を続けることを推奨されるのだ。

自助グループは宗教ではないから「ハイヤーパワー」(自分を超えた偉大なる力=神)を信じられるなら対象は何だっていいし、その対象に対して理想論を持つ必要もなければ、神の理想はこうだと勝手に決めつけて強迫的に行動する必要もないのだ。

神は信じて祈れば答えを与えて下さるのだ。例えば「あの野郎ブッ○してやる!」という祈りを神にぶつけたとしても、神が与えて下さるのはその祈りの通りのことではなく、自分の幸せに繋がる何かしらの「意味(メッセージ)」なのだ。祈りが「相手を○してやる!」なら、与えられるのは「○したら自分が不幸になるからやめなさい」という意味で、何かしらの事象が自分に起こるのだ。自分の激しい感情や誰かしらの言動などコントロールの難しいものに対しては無力でありどうしようもない、だから(この例では)「○してやる!」という祈りを以て神に全てを丸投げして委ねるのだ。

得たイさんの信仰ではこれを「常に此処に住して法を説く」と言うのだが、神を信じる限り常に自分の傍にいて下さり、常に何かしらの「意味」を以て自分を幸せに向かわしめて下さるのだ。だから安心して正直な祈りを神にぶつけ、負担を押しつけ、ぜんぶ神に丸投げすればいいのだ。信じるとはそういうことなのだ。

逆に言えば自我が強すぎて神よりも自分の意思を優先するとその「意味」に気づくことができない、そして人生を詰んでしまうのだ。自己の意思を行使しすぎると神に背くことになるのだ。因果応報とはこういうことなのだな。

とにかく、いいことも悪いことも神に丸投げして自分を正当化するのだ。神からのアウトプットは祈ったことに対しての「意味」なのだ。その「意味」を読み取って動くところに救いがあるのだ。

狂気の回復行動③ 自分に起きた悪いことも神からのメッセージだとこじつける

神の所業には全て意味があることは先述の通りなのだ。となれば、自分の所業は神の導きであり、一挙手一投足を神に動かされた結果であると言えるのだが、自分のした悪いことも神のせいにできてしまうし、それによって(よらなくても)起きた悪いことも神に責任を押しつけることができてしまうのだ。

しかし神はそれを許さないのだ。自助グループでは、自分の不幸を(神が与えた)境遇のせいにすること(自己憐憫)は回復から遠ざかり、スリップ(依存の再発)に向かわしめるとされているのだ。ただ自己憐憫じたいに善し悪しがあり、後ろ向きの自己憐憫による行動化が回復から遠ざかるのだ。

JOE McQ(ジョー・マキュー)著「回復のステップ」にはこうあるのだ。

 自己中心的な人は、他人から傷つけられると、自分が置かれた立場だとか境遇に恨みを持ってしまう。これが自己嫌悪あるいは自己れんびんという感情である。自分自身を恨むことは(他人を恨むことと同じように)、大へん深刻な感情問題であり、人間にとってもっとも破壊的で悪い習慣の一つである。
自己れんびんの建設的な用い方
 私たちは、自己れんびんを神が与えてくれた方法で建設的に用いることができる。ある反応(reaction)が行動(action)を生み出すとき、そこには成功のメカニズムが働く。一人がほかの人を出し抜いて何かの仕事や偉業を成し遂げたとする。このとき、出し抜かれた人は自分の立場に恨みを持つ。けれども、もしこの恨みを、その人が新しい目標を達成するための行動の原動力にすることができれば、自己嫌悪や自己れんびんが建設的に用いられたことになる。
自己れんびんの破滅的な用い方
 自己れんびんの破滅的な用い方とは、神が与えてくれた本能を生かして建設的な行動を起こすことができず、怠惰という行き詰まりへ向かうときに見られるものである。

重要なのは、自分に起きた悪いことや境遇を何かの「せい」にすると何も行動できなくなり(あるいは破壊的に行動し)、恨みだけが生じるということなのだ。自分の境遇を神が自分の「ため」に与えてくれたとこじつけることができるのなら、それは建設的な行動に繋がるのだ。

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御庭番衆の部下4人がガトリングガンにより惨殺されてしまった四乃森蒼紫は、その境遇を部下の「せい」にして自己憐憫を破壊的に用い、剣心を倒して最強の華を手にしようとする自己満足で動いていたのだが、剣心に諭されて自己憐憫を建設的に用い、部下の「ため」志々雄を打倒すべく剣心に力を貸したのだ。自己憐憫を建設的に使うか破壊的に使うかは、前向きに行動するかしないかなのだ。

よく「信じる者は(足元を)掬われる」と言う人がいるのだが、自己肯定感が低くスピリチュアルを信じない人は自分の境遇を恨み、その自己憐憫を破壊的に用いてスピリチュアルを信じず(行動化しない)、宗教を嘲笑して誹謗(破壊的な行動化)をするのだ。自分を超えた力を受け入れないので過去を恨んで未来を恐れる生き方だから、そんな地に足のついていない生き方を選択していたら自分が足元を掬われるのだ。

前向きに行動するためには、神をツールとして自分の都合良く使ってこじつけるしかないのだ。自分が神を信じるならその神は完全無欠であるはずだから変な配慮や気遣いは無用だし、神にブーたれたり愚痴をこぼしたとしても神はそれに対してキレたりせず、時に優しく時に厳しく「意味」を与えて下さるのだ。だからぜんぶ神に丸投げして自分に都合のいいこじつけをすることにはメリットしかないのだ。

アタオカ回復行動の基礎はスピリチュアル

これらの回復行動は、得たイさんが自助グループに繋がってスポンサーと12ステップを始めてから日常的にやっていることなのだが、悪いアタオカ化が常識を無視して囚われることである一方、良いアタオカ化は常識を疑って囚われから解放されることなのだ。自助グループに繋がる前の前者のアタオカ得たイさんは、回復に繋がって後者のアタオカになったのだ。

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つま先まで使うだけの、しかし画期的なこの気づきに「つま先ススム君」という名前をつけた鳴子くん、いい意味でアタオカなのだ(笑)

その基礎にあるのが12ステップであり、得たイさんの信仰であり、即ちスピリチュアルなのだ。スピリチュアルな生き方を訓練することで自己肯定感は回復できるのだ。訓練するには高度な知識が必要であり、その知識が詰まった専門的な回復方法のひとつが自助グループの12ステッププログラムなのだ。

このプログラムの凄いところは、専門家を介さずに素人だけで回復できるところにあるのだ。というよりもスピリチュアルがそうさせているのだ。専門家がいらないから権威に傾斜する必要もないし、必要以上に他人に従う必要もないのだ。全てスピリチュアルが導いてくれるのだ。

自己肯定感の低い人が自己肯定感の高い人を恐れるのは、後者がスピリチュアルでアタオカな生き方をしているからなのだ。いま得たイさんも、アライさん界隈でなぜか怖がられていたりするのだが、それはアタオカ回復行動が確実に効果があるという証左なのだ。

アタオカを制する者は人生を制す

何を言ってるのかわからねーと思うが、これは言葉通りの意味なのだ。アタオカの自分を飼い慣らす、即ち自分と向き合うことが自己肯定感の回復に繋がり、人生を勝ち取ることができるのだ。

このことはreiさんの著者の内容によく現れているのだ。

reiさんはその非常に重苦しい人生経験を淡々と本に語っていて、その壮絶さを面白おかしく書いているのだ。得たイさんはこれを楽しく読むことができたのだが、小山さんはこの文章を「異常性」と表現したのだ。

狂人・小山晃弘をして異常だと言わしめるこの文章には、何かしらのオーラが宿ってるのだ。早い話が、reiさんはいい意味でアタオカであるが故にマシュマロでめっちゃモテて、ネットで見てるだけなのに自己肯定感が伸びたのを感じるのだ。あの本の中にはきっと、reiさん本人にしか理解できないスピリチュアルが存在しているのだ。その正体不明のオリジナルスピリチュアルに、小山さんは畏怖したのではないかと思うのだ。自己肯定感の高い人の持つスピリチュアル(アタオカ要素)は、自己肯定感の低い人が恐れを為すのだ。

このアタオカ要素を自覚した得たイさんは、何かこう一部から恐れを抱かれていることに気がついたのだ。それを何としても飼い慣らしたいと思う所存なのだ。

次なる得たイさんの課題は、このアタオカな生き方を当たり前にしていくことなのだ。回復を続けてスピリチュアルな生き方を選択するのみなのだ。

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