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勝手に東北びいき・前編

※おことわり
こちらの記事は以前筆者が Amazon Kindle にて出版した電子書籍『東北贔屓』を再編集し且つ、同電子書籍の別タイトル『東京人には「言うたら」「言うても」は似合わない』の中の東北関連の文章を組み込んだものであることをご了承頂きたい。


はじめに

皆さんは東北地方といえば、何を連想されるだろうか。

冷涼な気候、美味しい米や酒、魚介類や果物、朴訥な人々などが挙げられるだろう。

筆者は巻末のプロフィールにもある通り大阪府生まれであり、さらに両親はともに九州地方出身である。

したがって、20歳の時に上京するまでは東北はあまり馴染みのない地域だった。

東京には東北出身の人が多くいるので、上京後初めて筆者は東北の人たちに出会った。
 
そしていつの間にか筆者には、縁もゆかりもない東北地方に対して贔屓する気持ちが芽生えていたのである。

今回は、筆者がどうして東北好きになったのか、これから東北はどうあるべきかについて、大きなお世話かもしれないが、外野から意見を述べさせていただいた。

これを読んで、東北の方々には、

『こんな関西人もいるんだ!』

ということを知っていただけると思うし、まだ東北に行ったことのない人には、東北の魅力について少しでも感じていただければ幸いである。


飾らない素朴さが魅力・東北の人々

鉄道少年憧れの大動脈

俺は小学校低学年の時、電車好きな同級生の影響で鉄道ファンになった。

その頃(1970年代後半)は赤字体質と批判されながらも、まだまだ国鉄は全国各地に、

“L特急”
や、
“ブルートレイン(寝台特急)”
“ブルーエキスプレス(寝台急行)”
を走らせ、頑張っていた。

俺は年に1~2度、母親の実家がある九州に遊びに行く時に寝台特急の、
“なは・明星”
に乗るのが楽しみだった。

鉄道ファンというものは、たとえ子供であっても、まだ行ったことがない街に向かう列車に強い憧れを抱くものである。

俺は馴染みのある九州や北陸方面への列車よりも、上野駅から東北方面を目指す列車たちに興味津々だった。

昼行特急の、

“ひばり・やまばと・つばさ・やまびこ・はつかり・みちのく”

や寝台特急の、

“あけぼの・北星・はくつる・ゆうづる”

など、今名前を見るだけでもワクワクする。

俺がこれらの列車たちに夢中だった頃、まだ急行列車も健在だった。

ただ年齢がまだ8歳位だったので、どうしても華やかなL特急やブルートレインに目が行きがちだ。

当時もう少し大人だったら、ヘッドマーク等のない地味な急行列車にハマっていたかもしれない。

俺は子供心にも、東北鉄道が盛んな地域なんだということを認識していた。

もちろん、東京以西の列車よりも東京以北の列車のバリエーションが多いのは、当時東北新幹線がまだ開通していなかったからなのだが、それでも東北本線は、

“鉄道銀座”

に見えて、とても羨ましかった。

それが、俺にとっての東北地方に対する第一印象である。

栗原電鉄の人々

それから月日は流れた。

一年浪人したが再び受験に失敗した俺は、大学に行くことよりも東京に住むことを優先した。

初めてのアルバイトは新宿駅から少し離れた、魚料理がメインの定食屋(ホール係)だった。

店主の奥さんは東北・山形出身の人で、おしゃべり好きな明るい人だった。

俺は、東北の人は寡黙な人が多いと勝手に思っていたので、人それぞれだなぁと認識を新たにした。

接客が苦手で気が利かない所も多々あったこの俺に対して、皆さん優しく接してくれた。

東京での生活に少し慣れてきて、好きな人に告白してフラれたりもした。
憧れの東京だったが、思うようにいかない生活に嫌気が差して、

「どこか遠くに行きたい」

と思うようになった。

何故か俺は求人情報も出ていないのに、宮城県の栗原電鉄という鉄道会社に電話をかけた。

『うちは田舎の鉄道会社なので、あなたが思っている様な東京の鉄道会社とは違いますよ』

それでもどんな所なのか気になった俺は、

「お話だけでも…」

と言って、半ば強引に会社を訪問することになった。

平成2年(1990)の盆休み明けの快晴の日に、アルバイトを休んで生まれて初めて東北へ向かった。

当時東北新幹線はまだ東京駅まで開通しておらず(東京駅まで開通したのは翌平成3年6月のこと)、上野駅の地下深くに設けられた新幹線ホームが始発駅だった。

長い左カーブの地下トンネル区間を走り、日暮里駅付近で地上に顔を出すシチュエーションは東海道新幹線にはないもので、とても新鮮に感じた。

仙台駅で東北本線に乗り換えるのだが、東北をなめていた俺は徐々に現実を知ることになる。

石越駅まで1時間以上かかると聞いていたのだが、なぜか俺は仙台のベッドタウンくらいに思っていた。

着いてみると、想像以上に田舎だった。
栗原電鉄の駅舎はJRに隣接していて、

“乗って残そう栗鉄を!”

という看板が掲げられていた。

利用者が減少しているんだなぁとすぐに分かった。

本社は石越駅の二つ隣の若柳駅にあった。
勝手に電話して押しかけたのに面接もしてくれて、人事担当の方は、

『うちは小さな会社なので、月給12~3万円位しか出せない』

『他の社員は皆、実家の農家を手伝いながら生計を立てている』

など、ありのままに話してくれたが俺は、

「それでも構わないので、働かせてください!」

とまでは言えなかった。
 
面接が終わりちょうどお昼時だったので、

『出前とるから一緒に食べてかないかい?』

と言ってくれて、冷やし中華をご馳走になった。

テレビでは、NHKの朝の連続テレビ小説の再放送が、流れていた。

初めて訪れた東北で俺は、東北の人々の飾らない素朴な優しさに触れることができた。

これが、俺が東北贔屓になったきっかけかもしれない。

偉大なる古都・平泉 

俺が初めて平泉を訪れたのは、それから2年後の1992年(平成4年)夏のことだった。 
 
当時、会社を辞めて寮を追い出された俺は、共に大阪から上京していた高校時代の同級生のアパートに、一時期居候させてもらっていた。 
 
彼は夢の実現の為に、警備員のアルバイトをしていて、俺は仕事まで紹介してもらっていた。 
 
そんな彼と比べて色々と自信を失っていた俺は、仕事に対してもやる気がなかった。 
 
ある朝、同級生がちょうどいない時に、思い立って東北へ向かう電車に飛び乗った。  
 
上野駅の地上ホームをゆっくりと滑り出し、都会の喧騒から抜け出すように北を目指す鈍行列車はまるで、世の中の煩わしさから逃げ出す俺を慰めてくれるようだった。 
 
関東では緑とオレンジのツートンカラーの電車(115系)ばかりだったのに、東北に入ると、天井の高い〈食パン形電車〉715系の天下だった。 
 
これは、元寝台特急電車の583系を通勤型に改造したものだ。(子供の頃、九州に行く際に乗った) 
 
さらに、平泉が近づく頃には、冷房の無い”レッドトレイン”50系客車が走っていた。 
 
平泉駅で降りて、中尊寺の参道へ向かった。 
 
7月下旬のしかも昼間だというのに、参道両脇の鬱蒼と茂った木々から聞こえるセミの鳴き声は、西日本でよく見かけるけたたましいクマゼミでもなく、東京でお馴染みのミンミンゼミでもない、涼しげなヒグラシのものだった。 
 
そんな所にも、東北らしさを感じながら本堂そして、金色堂を目指した。
 
“夏草や兵どもが夢の跡” 
 
“五月雨の降のこしてや光堂” 

 この松尾芭蕉の二句を詠むと、平泉の栄枯盛衰が感じられて切ない気持ちになる。 
  
奥州のこの地に、きらりと輝く都を良くぞお造りになられたと、奥州藤原氏の栄光を称えたい。 
 
平泉はまさに〈東北の宝〉であり、別格の存在である。 
 
(その後平泉で驚いたこと、それは〈平泉ナンバー〉の誕生である(2014年)。世界遺産登録が後押しになったとは思うが、地域内における人口や経済の中心都市でない、一つの町の名前がナンバープレートに採用された例は平泉が唯一なのではないか。県都〈盛岡ナンバー〉も同時期だし、あの〈仙台ナンバー〉でさえ、ナンバープレートに採用されたのは2006年でそれほど古くはないのだ。それくらい平泉が地元の人々に愛されているという証拠で、奥州藤原氏のおかげである。ちなみに余談だが、昔俺は車好きの弟とよく『〇〇ナンバーってあったらカッコいいよな!』などと冗談を言っていて、「平泉ナンバーってあったら最強だよな」と俺は願望を込めてよく言っていたので、実現した時には他所の人間ながら、本当に嬉しかった。)

気仙沼の思い出

平泉を訪れたあと、俺は海を見に行きたくなって、一ノ関駅に戻りJR大船渡線で太平洋を目指した。 
 
7月下旬ともなれば、関東以西の太平洋側ではもう梅雨が明けてカンカン照りの夏なのだが、降り立った気仙沼のビーチは空がどんよりとして蒸し暑く、人は誰もいなかった。 
 
どうやら東北はまだ梅雨明けしていなかったようで、ひと泳ぎしようと思っていた俺は結局海を眺めるだけにして、その場を後にした。 
  
その夜泊まったのは、気仙沼の街中にある小さな旅館で、海水浴シーズン直前ということもあって、宿泊客は少なかった。 
 
その日は忘れもしない、仙台で史上初めてプロ野球オールスターゲームが開催された日であった。
(1992年7月21日・第3戦@宮城球場) 
 
当然のことながら、当時仙台にはプロ野球チームはなく、俺も仙台での開催を珍しいなと思いつつも、東北でもこういったスポーツのイベントをどんどん開催するべきだと思った。
(その後、ベガルタ仙台や楽天イーグルスができるなんて全く想像できなかった) 
 
俺は宿屋のご主人に、 
 
「今日仙台でオールスターやってますね」 
 
と言ったら、 
 
『只今やっております!』 
 
と嬉しそうに話しておられた。 
 
昭和の佇まいで、落ち着く旅館だった。 
  
東日本大震災では津波に襲われて甚大な被害があったと思われる。 
 
ご無事でいらっしゃるだろうか。 
 
気仙沼・大船渡・陸前高田・釜石・宮古・久慈といつかまた三陸の街を訪れたい。 

仕事をさぼって〈みちのくひとり旅〉をしたのだが、今となっては貴重な旅だったと思う。(同級生には心配させてしまったが)

東北出身者と二人暮らし

もともと人間関係において気疲れしやすかった俺は、その後も仕事を転々とする日々を送った。
 
弁当屋の店員、印刷屋、大手鉄道会社(昔は珍しかった中途採用で運よく採用されたが…)、先物取引会社、パン屋など様々だ。

俺の人生で最も輝きかけたのが鉄道会社だが、職場(世界一のターミナル駅と言えばお分かりだろう)や寮で(先輩社員と相部屋という昭和の風習が残っていた)、気が休まる時がなくて疲れ果てて4ヶ月で辞めてしまった。

その後一旦実家がある大阪に戻ったものの、まだ22歳で”東京ドリーム”を諦めきれず、一攫千金を狙って先物取引の営業にチャレンジした。

営業の仕事には、物怖じしない性格や体育会系のノリ、要領の良さなどが求められると思う。
(全てが必要ではないが)

その中のどれも持ち合わせていない俺は、やはり向いていなくて、片っ端から電話をかけていく営業や、いわゆる飛び込み営業などはきつかった。
結局その会社も半年足らずで辞めてしまった。

会社をやめた直後の東京の夏(1992年)はとても暑く、まるで現在の亜熱帯化した東京の序章の様だった。

快適なワンルームマンションの寮を追い出され、大した貯金もないので、アパート探しには苦労した。

ようやく見つけた部屋は、トイレ付・風呂無しの平屋建てで、流し台が石で出来ていた。

これはおそらく、昭和35から45年(1960〜1970年)頃に建てられたアパートだろう。

クーラーはもちろん扇風機もなかったので、暑がりな俺にとってまさに地獄で、夜は全く眠れなかった。

昼間は一駅区間の切符を買って、ぐるりと大回り乗車して時間をつぶした。
冷房の効いた車内は快適で、一番はじっこの席に座って爆睡していた。

もともと暑いのが苦手なのと、ストレスが原因で会社を辞めたこともあって、働く気力がなかった。

とはいえ稼がないといけないので、前述の同郷の友達の紹介で警備員のアルバイトをしていたが、あまりやる気がなくてなるべく日にちを空けて出勤していた。

そんな時、辞めた先物取引会社で一番仲が良かった同期の友人の寮(会社が借りているワンルームマンション)を訪ねた。

会って色々と愚痴を言いたかったのもあるが、実際は金を借りに行こうと思っていたのだ。

交通費をケチるために、炎天下の多摩川沿いを1時間以上かけて歩いた。
 
途中、新日本プロレスの道場や読売ジャイアンツの多摩川グラウンドを横目に、ようやく友人が住む寮にたどり着いたが、なんと留守だった。
(当時携帯電話なんて、まだ無かった)

いなくて残念だったが、その時友人に金を借りることができなくてむしろ良かったと思い、ホッとしていた。
(結局金はいとこに頭を下げて貸してもらった)

後日改めて友人の部屋を訪ねた。
今度は普通に、遊びに行くという形で。

そして俺はあの時、金を借りに行くつもりだったことを伝えると、彼から意外な話を切り出された。

『実は母親が病気で実家(青森県)に帰らなければ行けない』

『でも、今すぐというわけではないし、まだ東京を離れたくない』

『とりあえずアルバイトして食いつないで行こうと思うので、家賃の半分を払うから、アパートに居候させてもらえないか?』

というものだった。
 
俺はその頃話し相手がいなかったので嬉しかったが、アパートがすごく古いことを伝えて、それでも構わないかと彼に尋ねた。

全然構わないというので、俺も友人の居候を快諾した。
 
こうして関西人東北人、男二人の共同生活が始まった。

あんずます

俺はやっと就職先が決まり(パン屋の販売担当)、友人はパチンコ屋でアルバイトをしていた。

ともにサービス業だったので、休日が一緒になることはあまりなく、何処かに出かけることはそれほどなかった。

毎日だいたい、二人とも夜10時頃に帰宅するので、俺がパンの残りを持って帰って来たものを二人でバクバク食べてから(今はコンプライアンス的に無理?)、いつも近くの銭湯に行って疲れを癒した。

程よい温度のお湯につかると友人はいつも、

『あぁ、あんずます~』

と言っていた。

「それ、どういう意味?」

と俺が訊くと、

気持ちいいとか、心地いいという意味の津軽弁だよ』

無理矢理標準語にすると、あずましい(東しい・吾妻しいなど)かな』

と答えた。

俺はこの、“あんずます”という、標準語や関西弁に無い優しい響きを持つ言葉が好きだ。

皆さんも、お風呂につかってホッとする瞬間に、

『あぁ、あんずます~!』

と言ってみてはいかがだろうか。
より東北人・津軽人っぽくするには最後の所を、

“す~(su)”

とはっきりと言わないで、

“すぃ~(sui)”

と最後少しだけ、

“(小さい)ぃ”

を入れることを意識しながら言うと良いと思う。
特に寒い時期に大きなお風呂につかった時に言ったら、気分はもう津軽人かも!

東北人から見た関西人

当時友人とアパートで、テレビを見ていた時のこと。

青森・津軽出身の女性タレントが津軽弁丸出しで話していると、関西の吉本芸人が、

“こいつ、まだ訛り直ってないんですよ!”

関西訛り丸出しで言った。

俺は、

「自分のことを棚に上げてよく言うよ」

とまるで、自分が東北人になったかのように思わずカッとなった。

「こんな事言ってるけど、どう思う?」

と俺は、友人に率直な意見を求めた。

『ふーん、面白いこと言うね』

それはもちろん、最大の皮肉を込めた表現だ。

実は友人も上京して間もない頃、東北訛りをバカにされたことがあり、

『〇してやりたい』

と思ったそうだ。(もちろん思うだけね)

方や方言をバカにされまいと必死で直したり、方や何処に行ってもお構いなしの神経の図太さ。

この違いは何だろうかと、俺は当時から今もずっと思っている。

”関西の方が、長い歴史や文化があるから?”
”昔日本の中心だったから?”
 
 
では何をもって、歴史が古いというのか?

古い方が偉いのなら、京都よりも奈良の方が偉いし、三内丸山遺跡の方が偉いということになるのに、そうなってはいないではないか。

結局のところ、他者に訛りを揶揄されても、

“屁の河童”

くらいの図太さがあった方が勝ちなのか。

いや、俺は決してそうは思わない。

関西人とは対照的な奥ゆかしさが、東北人の魅力の一つなのだから!

とはいえ、これからは東北も臆することなく、自分らしさをもっと外へアピールしていくべきではないだろうか。
 
逆に関西人は何処に行っても我を通す姿勢を少し抑えた方が、他所の地域の人に受け入れられると思うのだが。

(後編に続く…)


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