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笑い話のストック

子供の頃、いつも、笑い話を頭の中にストックしていた。ひとつひとつは身近で起きたたわいもないちょっとしたエピソード。3つか4つ位をストックして、家族や学校の友達、おじいちゃんおばあちゃんにお話しした。目の前の人が笑顔になる。大勢いたらどっと笑い声がおこる。

誰に何の話をしたかを覚えていて、同じ話はしないようにしていた。みんなを笑わせたかった。喜ばせたかった。何か面白いことないかな?といつもネタ探しをしていた。

公園でカラスにお弁当を取られて追いかけるおじさん、おしゃべりに夢中でスプーンが口に届かずスープが減らないお姉さん、バレンタインの手作りクッキーが石のように硬くなってしまったこと。

教室が、笑い声で沸く。先生も笑っている。話している私も笑ってしまって続きが言えない。

みんなの反響をみて、面白くアレンジを加えたりもした。笑い話を物語ることが、創作の原点かもしれない。

先日、新卒で入社したころの先輩と会う機会があった。3歳年上だけど、二十年近く付き合っているので友人のような存在だ。

30になるころ、先輩は転職し、私は体調を崩して退職し、回復しない日々が続いた。先輩は努力を続けて今もバリバリ働いている。立場の違うふたりが、なぜ付き合ってきたかといえば、「人間」として通じ合う話ができたから。

でも、その日は噛み合うことがなく、終わった。友人は、勝ち続けなければ意味がない、勝負の舞台から降りた人は見えなくなると言い、私は、半年先まで予定びっちりで1日の中にボーッとする時間が数分もないというのが、充実なのか異常なのかよくわからないと思っていた。彼女は私の幸せはズレていると言い、私も彼女に対して同じ気持ちを持っていた。

何を言っても通じず、コテンパンに言われて、帰り道で彼女に対して腹が立っていた。自分より下だと思う人は、もう見えなくなってしまったんだなと思った。これが断絶というものなのだろうかとも思った。

私のコンディションも悪かったが彼女も余裕がなさすぎたのだろう。彼女が私を理解しなかったように私も彼女を理解できなかったのかもしれない。

そして、正直に言えば、私は、お酒を飲んでパチンコに通っている人や、ハロウィンでお祭り騒ぎをしている若者を理解しているか、できるかといえば、厳しいものがある。心のなかで、「ばかだな」と思っているだろう?と自分に問いかけた。

相手を理解することは、できないかもしれなかった。でも、「置いておく」ことはできるのかもしれない。そうか。この人はこういうことを思っているんだ、感じているんだ、と受け止めるだけ。それを馬鹿だとも不幸せだとも断じない。

本質的には、人は変わらない。全員が苦しい産道を通って産声をあげ、最後はひとり孤独の中で死んでいく。不条理なことは、差別なく誰にでも襲い掛かる。そんな世界で、できるだけ幸せになりたいと願い、時に幸せを感じて、生きている。

いろんな人を理解することは少なくても私には無理だ。でも、否定をせずに「そうか」と受け止めることは少しはできるかもしれない。

彼女に会って、数日間、心の動揺が続いたが、だんだん冷静になって気がついた。

ふたりとも笑顔がなかったな。

彼女とはまた会う約束がある。今回会う前から決まっていた約束で、もう会わないほうがお互いにいいのかなとも思った。怒っていたときは、何て言い返そうかと考えたこともあった。

なんでそんなふうに思うようになってしまったのかな。

当日は、たわいもない、なんていうこともない話をして、楽しく遊ぼう。

彼女の笑顔が見たい。

今から、くだらない笑い話を、たくさんストックしている。


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