さよならヒューマニティ
ある日、飲み屋でのこと。
友人ではないけれど知人呼ぶほど距離が遠いわけでもない存在のIが、冷やしトマトを食べながら私の顔をまじまじと見て、こう言った。
「君ってなんか、ヒューマニティに欠けるよね」
なかなか聞き馴染みのないフレーズだったので、それが礼讃なのか侮辱なのかすぐには分からなかった。
しかしそう言ったIの表情はどこか非難めいていて、これは侮辱の類の意味合いが込められているのかもしれないな、と思った。
どういう意味、とか、どこらへんが、とか、聞けばよかったのだが言葉が出なかった。怖かったのだ。
私は知った風な顔をして、垂れたサイドの髪を耳にかけ「そうかな」と呟いた。Iは依然として、文句を言いたげな顔をしていた。
聞いてやるもんか。だって不用意に傷つくの、嫌だもんね。
「そういうとこだよ」
Iの言葉があまりにもひんやりとしていたので、妙なタイミングではあるが夏が来たことを実感した。ちりん。ちょうど時同じくして、店先の風鈴が揺れたとか揺れないとか。いや、これは私の心の奥がちりっと痛んだ音だったか。記憶は定かではない。そのくらい酔っていたのだ。
Iと解散してから家に帰るまでの電車内で、濁った星空を見ながらヒューマニティという言葉について考えてみた。
そもそもの話、「ヒューマニティ」とは何か。手元に辞書がないので、誰よりもヒューマニティという言葉を理解していそうなグーグルさんに聞いてみることにする。
人間らしいこと。人倫の道をわきまえていること。人間としての情味に富んでいること。人道。ー精選版 日本国語大辞典より
ああ、なるほど。人間らしさに欠けるということか。理解。それならそう言ってくれればよかったのに。Iの奴、ずいぶん周りくどい物言いをするじゃないか。ははは。
・・・。
その夜は、どうにも眠れなかった。解散後、Iからの連絡はなかった。私はまたしても、一緒にしっぽりと飲んでくれる貴重な人間を失ったのかもしれない。
私は友達が少ない。というより、ほとんどいない。
思い返せば「ヒュ欠(ヒューマニティの欠如)」と似たような意味合いの言葉を、人生の節目節目で友人や恋人に言われたような気がする。そしてそのどれもが、非難と軽蔑を含んだ口調だったように思う。そんな言葉を放った人間は、皆私のもとから離れていった。
酔いの覚めた頭で、今日の出来事を反芻する。Iとどんな話をしたか。私のどんな言動でIは私をヒュ欠と判断したのか。
思い当たる節は、なんとあった。
「たとえば恋人ができたとするでしょ。そうしたら、自分の生活にその人が割り入ってくることになる。完璧な私の生活に、だよ。自分だけの時間に没頭していても、どうしても恋人の存在がちらつくでしょう。私はね、私の時間に介入してきた恋人の存在が、次第に憎くなる。憎くて憎くて仕方なくて、いなくなっちゃえば良いと思うようになる。そんなのってお互い不幸なだけじゃない。だから私は、恋人が欲しいとは思わないんだ」
Iに「誰かを好きになったことはある?」と聞かれて、こう答えたのだ。
もちろん、このセリフは私の本心だ。本心だが、思い返すと鼻につく。「恋人が欲しいと思わない」という言い方がなんとも不快だ。「こんな性格だから恋人ができないんだよね」くらいにしておけば良かった。これではまるで、「恋人なんて作ろうと思えばいつでも作れる」と見栄を張っているようなものだ。無意識の自尊心が恥ずかしい。しかしきっと、このセリフにおける本当の問題点はそこじゃない。
ではどこか。ずばり、ヒューマニティに欠けているということだ。
「他人が自分の生活に介入することが煩わしいから親密な関係を築きたくない」なんて、あまりにも自己中心的な考え方である。温かみに欠けまくっている。
Iは私のそのような言葉を聞き、呆れ返ったのだろう。「こいつやる気あるのか」と。「生存する気はあるのか」と。
Iは「人が生存するうえで、他者との関わりは必要不可欠だ」と考えるタイプだった。つまり、他者との関係性で生まれる温かみが人を癒し、生きるモチベーションになる、と。
私は、Iの言っていることの意味が分からないわけではなかった。むしろ痛いほど分かった。
なぜなら私こそ、誰よりも人間の温かみを求めている生き物だったから。
そして人間の温かみを追い求めた結果訪れる、あの怪物の存在をどうしようもなく怖がってもいた。
かつて、本当に大切な人ができたことがある。「この人は私だ」と思うくらいに好きだった。しかしあまりにも失いたくないという思いが強すぎて、己の心に化け物を産んでしまった。その化け物は私の心を食い尽くし、やがて彼の心すらも食い尽くした。
そう。「執着」のせいで、私は一番大切な人を失ってしまったのだ。
その日から、親しい人間を作らないように心がけていた。飲みにいく人はいても、必要以上に深入りしないように気をつけた。しかし、気をつけていてもぽろっと親しい人間ができてしまうことがある。そうなると、今度はあの化け物の再来に怯えるようになった。どうか私の生活に介入しないで。親しい人に対し、そんな思いを抱き、しまいには憎むようになった。
そんな可哀想な私の人工的な冷たさを、多くの人間は軽蔑した。
しかし、あの化け物に侵食される恐怖に比べたら、ひとりでいることは何も怖くなかった。むしろ慣れてくると快適だった。
私は執着からの自由と引き換えに、ヒューマニティを失ったのだ。
しかし、ヒューマニティに欠ける、というような意味合いの言葉は、どこか一線を引かれているようで悲しい。「君と僕とは違う人間だ」。そう言われているように感じる。
そこではっとする。浮かび上がってきた一つの明確な事実に、私はひどく落胆した。枕にうつ伏せになり、低いうめき声をあげてしまうほど。
これまでも、知人にヒュ欠を揶揄されたことは山ほどあったはずだ。その時はなんとも思わなかった。むしろ重たい人間だと思われなくてほっとしたくらいだ。しかし、今はちりっと傷ついている。それはきっと、Iに言われたからなのだ。どうやら私は、Iを特別な存在として認識したがっているようだった。Iに本当の自分を知ってもらいたいだなんて、馬鹿げたことを思っているようだった。
「気持ちわりいな、ちくしょう!!」
私は、未だ心の奥底にふてぶてしく居座っている己のヒューマニティを呪った。反射的にスマートフォンを取り出し、Iの連絡先をブロックした。
そうしてようやく、少し落ち着いてきた。
私の頬から垂れているその液体は、ひりっとするほど熱かった。私の体内から放出された液体は、こんなにも熱を帯びている。そのことって、君は知ってるのかな。
明日の私は、すっかりIのことなど忘れ、またいつもと同じ日々を淡々と過ごすのだろう。これまでもそうしてきた。これからもそうするだけだ。何も難しいことはない。だから
さよならヒューマニティ。
さよなら、ヒューマニティ。
本エッセイは、こちらの記事企画で書かれたものです。