ウィットに富み過ぎた男

彼を語るには多くの時間を要する。逸話が多過ぎる。しかし、その全てに共通するのは、彼がウィットに富み過ぎていたということだ。だから、逸話の一つを知ることは、彼の人となりを知るに等しい。彼のウィットを知れば、あなたも彼のウィットに絡め取られることになる。

まずは取るに足らない出来事を紹介しよう。出来事と言うのも大袈裟だが、彼を知るには十分だ。

とある日の夕方、仕事を終えた彼は料理をするのを億劫に感じ、その日の晩御飯をコンビニで済ませることにした。彼はカゴを手にすると迷うことなく必要十分な商品を手に取り、レジに向かった。店員は50代くらいの男性だった。いらっしゃいませ。店員が彼の置いたカゴの中から缶ビールを取り出し、バーコードを読み取ろうとした瞬間だった。

ちょっと待ってください。今読み取ろうとしましたね。違いますか?

店員は呆気に取られながらもやる気なく、はいと返事をする。

ほーらそうでしょう。私の思ったとおりだ。そうです。あなたはたった今、私の心を読もうとした。そのバーコードリーダーで読み取るんだ。そして私のバーコードは頭頂部にある。私のバーコードを読み取りになるおつもりですか?

なんちゃってー

出た。間髪入れずのなんちゃってである。両の膝を前方へ開き、右足を上げ、肘を曲げ肩をすくめ両手も前方へ向ける。オーソドックスな戯けのポーズであった。彼の頭は見事なバーコード頭であった。

店員はあからさまに舌打ちをし、黙って商品のバーコードを読み取り始めていた。

彼は仕切り直すように言葉を続けた。

舌打ちの 先にあるのは舌鼓 これも一重に皆様の おかげと申すはこれ簡単 なれど私は修行の身 艱難辛苦を乗り越えて やって参った三千里 月の綺麗なこの夜に 私が望むは チンだけよ ああそれ ああそれ ああそれそれ

弁当温めますか?

彼ははいと答えた。

お箸は

ええそうですね、割り箸を一本と、それを袋に入れていただきまして、その袋の中の一本と、それから入れていただいた一本の、計一本でお願いいたします。

彼は目の前の事象や会話にウィットという名のスパイスを加えることで何気ない物事や瞬間を薔薇色に、虹色に変えてしまう魔術師だった。

電子マネーで支払いを済ませると、彼は足早に店を出る。その日の晩御飯はツナサラダ、幕の内弁当、それからビール350mlひと缶だった。いまいち寝付けぬ夜だった。


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