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アーヘンバッハ《満月の波止場》1896年


アンドレアス・アーヘンバッハ《満月の波止場》1896年

背景
夏虫の溶けるような高い声と、柔らかに舟をこぐ音が聞こえてきそうなこの風景画は、アーヘンバッハ(1815-1910)の「満月の波止場」である。アーヘンバッハは海洋風景画を数多く描いており、「19世紀のドイツの風景画の父」と呼ばれた。実業家の父のもと、1815年にドイツのカッセルで生まれた彼は、12歳のときにデュッセルドルフ美術アカデミーでシャドーから絵画を学び、17歳になるとオランダへ旅行へ行ったきり、海岸の風景画を数多く描いた。その末、95年の長寿を全うし、ドイツのデュッセルドルフにて亡くなった。(ちなみにアーヘンバッハが生まれた1815年のドイツは「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議でウィーン体制を成立させました。)

鑑賞
雲の間をくぐり、ぽっかりと浮かんだ満月にまず目を引かれる。その光を辿って目線を下へ流すと、月をそのまま映しとったような水月が海を光らせている。その上で、舟を漕ぐひとの姿がある。彼/彼女はこんな夜更けになにをしているのだろうか…?

ここまでの風景で、万葉集に次のような歌があったことを思い出す。

天の海に 月の舟浮け 桂楫(かつらかぢ) 懸けて漕ぐ見ゆ 月人壮人(つきひとおとこ)
「天の海に月の舟を浮かべて、桂の木の櫓(ろ)をかけて、月の男が漕いで行くのが見える」

ビギナーズクラシックス 日本の古典『万葉集』角川書店(pp.167-168)

「月人壮人」は訳通り月の男を指すが、一説では織姫との逢瀬のために天の川を渡る牽牛(彦星)とも考えられているらしい。そう思うと、彼が舟を出したのは、用事があったというより、水月の上で「月人壮人」となって幻想的な時間を一人静かに楽しみたかったからであろうか。

そして舟を漕ぐひとのほかに、波止場に3人のひとが見える。手前にいて無心に海を眺める者、戸口の横に座り込む者、そして小屋の中で灯りを点けながら机で作業か何かをしている者。みなそれぞれに自分の内面と向き合っているような、暇を潰しているような、そんな気がしてくる。

感想
この「満月の波止場」は、満月が作り出す幻想的で静かな風景に同調した鑑賞者たちが、この作品の中に描かれたそれぞれの人に自分自身の思いを投影し、作品と鑑賞者との境目を溶かしてゆける神秘的な作品だと感じた。

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