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鷹野隆大/毎日写真1999-2021(国立国際美術館2021.6.29-2021.9.23)感想(2021.8.1)

会場に入ってすぐ、東京タワーと周囲の街並みを写した写真がある。日付が目に入る。
「'11.3.11」とある。

「毎日撮るから毎日写真、それ以外に特段のテーマはない。むしろテーマやコンセプトといったものから離れて、無目的に撮ってみたいと思った。そしてそれが集まったとき何が見えてくるのか、それを知りたいと思った」

ステートメントにはそうある。
すごく日常的な風景が写し出されている。この日は会場まで自転車で来たのだが、ちょうど今見てきた風景と相違ないような、日常的な風景たち。それが、冒頭に置かれた震災の日の写真によって、「決して当たり前で無いこと」の意味合いを含み持つようになる。ただごとでは見られなくなってしまう。
ある出来事が、以前と以後を別のものにしてしまうこと。
別の展示室でも、展示会場中央部に数十本ある柱の中を掻い潜りながら、作者の日常の集積に入り込んでいく。そして、時折映り込んでいる「不気味なもの」に驚く。(ソファの下から生えているような手…実際には手の写真、それから…日本人形?)

「指先をわずかに動かすだけで一瞬にして像を得られるこの奇妙な装置が、撮影者の無意識を映し出す鏡のように作用することは意外と知られていない。」(ステートメントより)。

スマホを待った私達も、日常的に写真を撮る。それは確かに主体を廃し、データベース的になるのかもしれない。けれどそこにはやはり、シャッターを切った主体の無意識が、避けがたく写り込んでいるのだろうか。鷹野さんの作品はすごく、撮影主体の在処を問うている感じがした。


《東京タワー》シリーズは、毎日同じビルの屋上から撮ったと思しき街並みの風景。
河原温の日付絵画なども連想されるが、河原温の方が抽象的で普遍的、《東京タワー》の方がもう少し個人的な風景というか、私的な感じがする。
展示場には直近2021.02.24〜2021.5.18期間分もスライドで流れていた。
晴れたり雨だったりする。当たり前であることの愛おしさ、毎日続くことの気だるさ、かなしさ。そして日常と言われるモノが至極不安定に釣り合っている事を再認識する。

何年間も毎日同じ場所から撮ると、建物が増えたり劣化したりする様子が分かる。この時カメラの視点は、超時間的・特権的な1点、遠近法の出発点(ないし超越論的主観の位置?)に結びつくと思う。
面白かったのは、隣の別の作品では同じ影からなる風景を二つの角度から撮影し、それを横に並べて展示していたこと。ここでは逆に、カメラの視点はあくまで世界内に特権的な位置を持たないことが暴露されている。そんな当たり前のこと。当たり前で大切なこと。


影といえばそれに関する作品も多かった。影の写真を撮ること。二次元を二次元にすること。ジャスパー・ジョーンズ?写真の2次元性についての言及とも取れるだろうか。あるいは高松次郎か。
《red room project》などで、幽霊のようになった影も、高松次郎作品を連想した。面白いのは、この影の主となる実体が立っていたであろう場所。足跡だけあるが、当の実体はそこには無い。そこに立ってみたくなる誘惑に駆られる。他人の影を所有するのはどんな気分だろうか。

はからずも、参加型作品《欲望の部屋》でそれを体験することができた。参加者の影を暗室の壁に一定時間焼き付けるといったもの。自分から自分の影が切り離される。他の参加者が退出したあとこっそり他人の影の前に立ってみたら、この影の主に主体の位置を奪われつつあるようで、薄気味悪くて楽しかった。

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