ボイス+パレルモ展(2021年10月12日(火)-2022年1月16日(日)国立国際美術館) の感想(2021.10.23)


1.全体の印象について

「雄弁なボイスにいささかのボリュームダウンを願いつつ、隣に”静かな”パレルモを並べてみる」。そうあるように、とても「静か」な展覧会だった印象。

パレルモは言わずもがな、ボイスも“かの偉大なるヨーゼフ・ボイスである事”を前面に出さずにその作品の造形だけをみると、随分と静謐、というか、“貧しく”すらある?同じようにミニマルな作品でも、例えばドナルド・ジャッド作品をみたとき、個人的には、あまり懐疑的に思わない。ジャッドは端的に均整が取れていて、美的だと思う。パレルモとボイスの作品からは、懐疑を挟まざるを得ない感じがした。頑張って神経を研ぎ澄ませて、微弱な電流を感じようとしないといけなかった。

「全ての人は芸術家である」という危うい言葉の通り、作品そのものよりむしろそれを取り巻く関係性の方へ、モダニズムからポストモダンへ。通常言われるように、そうなのだろうけど、それよりも、“これがアートと言えるのか?”なんて純朴な問いを久しぶりに味わった気がする。
 
政治状況も社会状況も、かつてのボイスを取り巻くドイツとは随分離れてしまった2021年の日本で、ボイス作品をこの生に関係づけて読むのはちょっとハードルが高く感じてしまう。文脈が離れすぎてしまった気がした。

むしろパレルモと並べる事で、あえてモダニズムの文脈で考える方が面白かった。
「これ本当にアートなの?」という問い、”アートがそうでないか”ギリギリのラインで、時間をかけて逡巡しているうちに、“それでもアートだ!”という必然性に回帰するような(註1)。懐疑のない信仰などたいした信仰ではないと言われるように、むしろ懐疑を経てモダニズムの圏域が強化されるように。

2.作品ごとの印象メモ

展示室1  ヨーゼフ・ボイス:拡張する彫刻

《ユーラシアの杖》。
“ヨーゼフ・ボイス作品だと言う先入観”無しに改めて作品そのものを見てみる。ミニマル・アートにしか見えない。
それが、ボイスその人のアクションに使われる事によって、違う磁力を帯びるのだと、隣の記録映像と比べ見ることで意識する。
(映像の中、ボイスは指輪をしたまま脂肪をいじっている。そんな細部が頭に残る。プンクトゥム?)。

《直感》。
説明を読んで初めて意味がわかる。平滑と条理。木箱の並べ方も、インスタレーション的な配置のセンスによって恰好良く思えるが、それはキュレーターの力量ではないか…箱そのもの造形的価値に、前述の懐疑を感じる。

《ジョッキー帽》。
豊田市美で何度か見たことがある。溶け出しそうな脂肪が帽子の中に詰まっている。船に見立てる解説も面白い。個人的には、以前見た時から、脂肪を脳に見立てていた。脳の可塑性。


展示室2 パレルモ: 絵画と物体のあわい
〜展示室3 フェルトと布

《男と女》。
ふたつの(三つの?)、どことなくバイオモルフィックな形象、どちらが男でどちらが女か。
ボイスと出会う前の作品らしい。この作品だけ展覧会において少し異質。ふつうにミロ風のシュルレアリスム作品として、受容できそう。

《無題》が複数続く。
1965年作のものが気に入っている、色合いが大好き。海とカーテンを思わせる。

1967年作《無題》の木枠のたわみが可愛いものや、1970年作《無題》のT字。枠が画布の中に入り込み、内と外が相互貫入する。グリーンバーグはバーネット・ニューマンのジップについて、ジップが枠の役割を果たすと書いていたことを思いだす(註2)。枠の内外の相互換入、殆どイーゼル画ではなくなり、しかし同一性は維持され、「場(フィールド)」へと至るのだと。

それから1970年「布絵画」。白にもいろんな白があって良い。

いずれも、絵画そのものの条件をギリギリで問うている感じはする。木枠にキャンバスが貼られたらその時点で絵画なら、枠をいじってみたらどうなるか。布を貼ってみたら物質と絵画の境目はどうなるか?
例えば桑山忠明作品(コレクション展の「1968年展」でも見られる)も、絵画と物質の境目を問う。だがパレルモの方が、それでもあくまで「絵画だ」と言えるラインを見極めている気はした。
桑山作品はもっと絵画か物体かの二極に分裂して双方を行き来する。
パレルモは懐疑を挟んだ上で、それでも絵画だ、と感じた。再帰的に/弁証法的に。


《フェルトスーツ》。
フェルト…熱を保ち外部を遮断する。一方で、浸透する。スーツ…資本の暴力から、身を守り対峙する。一方で、気づかないうちに染み込んでいる。

《プライトエレメント》
ドゥルーズ+ガタリのいう“合成創作平面”と、カオスから身を守る繭を想像する。「家」。そしてさらにそこから絶対的脱コード化へ。コスモスへ。「モノクローム」へ至るエレメント(註3)。そこで、隣の壁に目を移せばパレルモの布絵画のモノクロームが。こうやって概念で遊んでいたい。カントだってソースになっていたのだし、ぶっかけてナンボ(《私はウィークエンドなんて知らない》)。


展示室4 循環と再生

《小さな発電所》。
ここまで来てやっと、作品そのものも造形的に良いと思った。フェルト=絶縁体。そして作品内のどこにも回路が繋がっていない電線が一つあった。これは作品外と、交流しているのか?
この作品から得た電流のイメージが、第一室のボイス彫刻にも事後的に微弱な電気を流してくれたような気がする。「疑いましたけど多分あれはアートだったのだ。多分」と。


展示室5 霊媒的:ボイスのアクション

ボイスのアクションの部屋。
ここでは、ボイスはいかにも所謂ボイスのイメージらしく雄弁だった。《民主主義は愉快だ》の不敵な笑みが格好良い。いくつかのアクションの記録映像を見たが、ボイス=シャーマンだった。

《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》。
はじめて30数分の全編をきちんと見た。コヨーテをアメリカの先住民族に見立て、アメリカ滞在中コヨーテとしか接しないというもの。先住民族の侵略の上に成り立っている近代以降のアメリカ社会を皮肉っている作品。それは明らかだとして、二項対立が曖昧になるような、気になる細部を記述してみる。
・コヨーテの飼い犬感(かわいい)。コヨーテもまた、当の近代以降のアメリカ社会に飼い慣らされているのではないか?コヨーテ=先住民族=真のアメリカの姿、と単純化できない。
・フェルトにくるまったボイスと、それを剥がそうとするコヨーテ。引きこもったボイスを連れ出し助けようとしているのか、あるいは捕食しようとするのか。ボイスの体温を保ち生命を守ったのがフェルトなら、それを剥がすとどうなるか。戯れの中で意味が反転し続ける。


展示室6 再生するイメージ:ボイスのドローイング〜エピローグ:声と息

終盤は、カラフルな作品も増えてきて、答え合わせのように作品の強度が上がっていく感覚だった。

《ヨーゼフボイスのために(未完)》。
“未完”なのが良い。作品に反射して後ろの壁の《コニーアイランド》が写り込むのが良い。
《コヨーテⅢ》で使用された黒板の、発音記号=コヨーテの足跡。
《無題(セロニアスモンクに捧げる)》。
これも豊田市美で何度かみた。光の吸収/反射率が対象的なふたつの三角。

最後、《直接民主制のバラ》×《無題》、
《カプリバッテリー》×《無題》。
ボイス+パレルモの色彩の照応がとても綺麗で。視覚的な重なりだけでは安易だろうか。個々の作品の強度では強くないだろうか、インスタレーションとして外部を巻き込んだ時にこそ強いと言うことの証左だろうか。両者を並べたのはボイスでもパレルモでもなくキュレーターの力量か?たしかに懐疑はある。
それでも、この空間には何かしら必然性を感じ取った気がした。ここまでの逡巡を経て、この空間に至る道筋こそが、最初から必然だったような感覚を持った。
懐疑のない信仰なんて、たいした信仰ではないのかもしれない。


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【参考】
『ボイス+パレルモ』(展覧会カタログ)豊田市美術館/埼玉県立美術館/国立国際美術館、2021-2022年

【註】
註1
松浦寿夫、中林和雄、沢山遼、林道郎『絵画との契約 山田正亮再考』水声社、2016年、p.162、p.170

註2
C.グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年、pp.136-137

註3
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』財津理訳、河出書房新社、2012年、pp.302-305


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