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スワームロボティクスで将来決定を操れる振りをするAI•運用者は、「神はサイコロを振らない」でも「人生サイコロ」でもない僭称者となっている。

「神はサイコロを振らない」いや「人生ガチャ」そんな論考も意味が無くなる、AIに決定権を奪われ、将来の選択も決定された、そんな制御社会に私達はいつの間にか住んでいますね。

この管理社会を遥かに超えた制御社会は、このまま続いて行くのでしょうか?それとも?
以下引用。

『映画「ロード•オブ•ザ•リング」は、2001年公開の作品でしたが、作品中の会戦シーンの撮影は、実物の俳優ではなくスワームロボティクス技術によってCG撮影した事が知られています。全体のCG画面の中で、CGによる人物一人一人がスワームロボティクスで動いているのです。

日本の制御社会も、インフラや各種端末は勿論の事、人間までをスワームロボティクスにて遠隔から同時制御していますね。

AIがこれから起こる事を決定する事が出来、その為、運用者はあたかもこの先起こる事の決定を操っているかの様に振る舞う事が出来ます。

この状態はもう、「神はサイコロを振らない」とか「人生ガチャ」とか言う状態とは別に、AIが神を僭称するが如く、人間の先手を打って全てを操作出来る状態です。

元々日本人は、サイコロを振る神様の方が好きな人々の方が圧倒的に多く、また、その神様にゾロ目を出して貰える様に、取引き目的•御利益目的の行為を行う…と言う世界観の方が好きですよね?

現在も、地球温暖化?の中で、環境保護の為に?人口を大削減する事で、リセット後の支配層に仲間に取り立てて貰うなんて言ってる人々がいるのも、取引の為の御利益行為と言う習慣から来ているのかも知れませんね。

これは、目的を叶えて貰いたくて呪術的殺人を行っている状態とも言えますね。

そんな日本の人々にはアブラハムの宗教は合わないのでしょう。伝える時間はたっぷり有り、また伝わってもいたのに、その上で全く受け容れなかった訳ですしね。それよりも私は個人的に、日本人は共産主義を数百年程こなしてはどうか?と思います。

そうしたら、呪術的目的で人間が殺されたり、子供が教育を取り上げられたりと言う事が無くなるかも?と言う思いがあるからです。

人生はガチャなのか?

神はサイコロを振らないのか?

神様がサイコロを振らないのは、伝統的には当たり前過ぎる事なのでしょうね。

サイコロで物事を決める神様だったら、サイコロだけあれば良いワケで、神様がいらっしゃる意味が無いですし、そんな状態を礼拝の対象になんか出来ませんからね。

人間の計画は不完全なので、日々是改善しなければ意味が有りませんが、逆に、神様の聖なるマスタープランは、気紛れに変わってしまったらもう神様では有り得ませんからね。

私は、神様の聖なる御計画は、永遠に不変であり、人間ごときの都合で便宜的に変更などされないと言う世界の方が、倫理基準も安定して好ましいと思いますし、そうであると信じています。』

アインシュタインは「シュレーディンガーの猫」に対する問題提起として、箱の中を確認するのが、ネズミでも同じ事か?それでも良いのか?と問うたそうな。

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