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僕が野球を好きになったきっかけ

人は皆、物事にのめり込むにはきっかけがある。

プライベートでもビジネスでも、「あの時出会った人が」「あの時読んだ本で」「あそこで見た光景に」といった形で心が動かされる瞬間があり、のめり込む。

自分がプロ野球を好きになったのは22年前。

そのきっかけとなったのが千葉ロッテマリーンズの大エース、ジョニーこと黒木知宏さんの影響である。

当時のマリーンズはお世辞にも強いとは言えないチームだった。1998年のマリーンズ観客動員数は946,000人。同じパリーグでも、九州の人気球団ダイエーホークスは2,163,000人、ジャイアンツは圧巻の350万人超え、セリーグ各球団も200万人前後の観客動員が当たり前の時代。12球団で唯一100万人に届かない、そんな球団だった。

そんな中で唯一の希望がジョニーだった。1997年の成績を見てみると、31試合に先発し、12勝15敗 240,2回 13完投 防御率2.99。防御率が2点代にも関わらず、15敗を喫している。完投数は勝数よりも1多い13、まさに暗黒チームのエースの鑑のような成績である。

何が良かったかと言われると、なんだろうか。
やはり何といっても圧倒的なエースとしての貫禄と責任感。

抑えることの出来る投手が他にいないなら、自分が投げられるだけ投げればいい。そんなエース論を持っていた様に感じる。

FireShot Capture 333 - 日本ハムファイターズ1軍投手コーチ - かもめ見聞録 - blog.goo.ne.jp

全ての登板試合で本気で相手にぶつかっていく。
バックネット裏で見ていると1球1球「うおりゃあぁぁぁ」と雄叫びが観客席まで聞こえてくる。近年だと斉藤和巳やダルビッシュ有、田中将大に近いタイプだろうか。

生涯成績だけで見たら、もっとすごい選手はたくさんいる。ただあそこまでチームやファンの期待を一身に背負った投手は中々いない。

純粋にかっこよかった。男前だったし、気迫で投げてるって姿に何より惚れた。

また当時のパリーグにはジョニーの同世代のライバルがたくさんいた。ダイエー松中、日本ハム小笠原、近鉄中村紀洋、西武髙木大成、そしてオリックスイチロー。

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パリーグを代表する昭和48年生まれのスラッガーたちの雰囲気が明らかに他の投手と対戦する時のソレとは違う。完全にジョニーを意識しているなと感じた。そのことが本当に嬉しく誇らしかった。

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ルーキー時代から対戦してきた松坂大輔はこの著書でこう述べている。
黒木さんほど、ボールに魂を込める投手はいないですね。気持ちでバットを押し込むことができる。それは、ベンチから見ていてもよくわかりました。僕はああいうボールを投げたいなと思っていました。その分、投げあっていてもとてもキツいピッチャーでした。でも、とても楽しいんです。

そしてこの様に続けた。

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チームは弱くても、イチローや松坂のライバルは俺たちのチームのエースなんだという誇りがあった。

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1997年から5年連続2桁勝利。99年からは3年連続開幕投手。1998年日本ワーストの18連敗、その17連敗目を喫した七夕の悲劇を乗り越え、パリーグを代表するエースとなり、そしてシドニー五輪では日本代表のエースにまでなった。

2001年は特に雰囲気が違っていた。低迷するチームのため、負け続けるチームを『俺たちの誇り』と唄うファンのため、そして七夕の悲劇を払拭するため、優勝がしたい。そう強く思いジョニーは投げ続けた。

開幕戦で松坂大輔を倒し、21世紀初の勝利投手となったのを皮切りに、前半戦だけで11勝、オールスターのファン投票でも見事両リーグの先発投手最多得票で選出。この頃にはジョニーの右肩は既に怪我に侵されていたが、選んでもらったファンのためにとオールスターに強行出場。3イニングを1失点に抑え、見事勝利投手となった。しかし、そこから1試合だけ投げ、ジョニーは一軍から姿を消した。

診断は“右腱板部分断裂” とてもじゃないがピッチングなんてできない大怪我だった。

ジョニーが再び一軍のマウンドに立ったのは3年後の2004年。怪我をしてる間もジョニーが戻ってくると信じていたファンは2004年6月に復帰後初勝利をあげた時に涙を流して喜んだ。しかしジョニーは涙を堪えて、あえてこう言った。

『ここからが始まりですから、涙はもっといい時に良い涙を流したいと思います』

しかしその後今度は右肘痛を発症、再度戦線を離脱した。

そして忘れもしない2005年8月28日。再びジョニーはマリンのマウンドに帰ってきた。この試合はマリーンズにとって大事な試合だった。この試合に勝つとジョニーが入団して依頼10年ぶりのAクラスが確定する。

ジョニーはそんな試合に先発した。シーズン最多2万8918人の大観衆。ジョニーはこの試合で7回途中まで7安打を喫するも無失点で踏ん張り勝利。実に聖地千葉マリンスタジアムでは1545日ぶりの勝利だった。そんな形でマリーンズの10年ぶりのAクラスはエースの熱投により確定した。

そしてその後、マリーンズの快進撃は止まらず
31年ぶりのリーグ優勝、日本一、そして初代アジアチャンピオンにまで登りつめた。

ジョニーは優勝した時に嬉し涙を流した。

優勝を決めた日、福岡のレフトスタンドに向かって大はしゃぎする歓喜の輪の少し後ろで、ジョニーと初芝が座ってその輪を見つめていた姿が今も脳裏に焼き付いている。あの時彼は何を思っていたのだろうか。2005年は3試合に登板して2勝1敗。夢にまで見た優勝を手に入れたが、果たして自分は貢献出来たのだろうか、そんなことを思っていたかもしれない。

ただこれだけは言いたい。まだ弱かったマリーンズを支えたのは間違いなくジョニーだった。2005年の快進撃を後押ししたマリンやビジターでのファンの大声援、その声援を出しているファンの何割かはきっとジョニーがきっかけでマリーンズのファンとなったはずだ。そして当時のジョニーの背中を見てきた投手たちが成長して優勝したのだ。つまりジョニーが果たした役割は確かにあった。その意味で、ジョニーがチームにいる間に優勝が出来て本当に良かった。

ジョニーは自分の夢だった。確かに弱いチームだったが、ジョニーの輝きだけは違っていた。雨の日も風の日もマリンやビジターに集まったロッテファンのかけがえの無い希望だった。俺たちのチームにはジョニーがいる。このマリーンズを優勝させるのはジョニーしかいないと信じていた。

自分の中ではマリーンズのエースはジョニーであり、エースナンバーは54番である。

こんなに自分の心が揺さぶられる野球選手はもう出ないであろう。

#プロ野球  #千葉ロッテマリーンズ #憧れ

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