傍観者が一番の危険要素だと気付き始めた

特殊詐欺の被害に遭いそうになっていたところを救ったというニュースが、たまにテレビでもネットでも流れることがある。

他人事ではないと恐怖を感じる一方で、きちんと助け合うことが出来るこの世の中に安堵も感じた。

端末の使い方がわからない、
指定されたものがどのようなものなのかがわからない、
そういったちょっとしたことが原因で周りが異変に気付く。
これは、ご高齢の方が詐欺の被害にあうケースでよくあることだ。
具体的にいえば、ATMの使い方がわからない、プリペイドカードの買い方が分からないなどなど。

いろいろなことが分からない状態のご本人にとっては辛いことかもしれないが、その分からない状態は助け出すためのきっかけを作る絶好のチャンスになる。

ただ問題なのは、周りに無関心がちになっている世の中の空気感だ。

確かに、自分から声をかけるのはなかなか勇気がいることかもしれない。
ただ、その一瞬の自分の迷いが、人一人を救うことが出来るかどうかの分岐点になりうるのである。

自分で声をかけるのが難しい場合は、そのお店の店員さんや銀行の職員の方などに間接的に伝えるだけでもいい。
とにかく、まずは気にかけて動いてあげることが大切だ。

自分が見て見ぬ振りをした人は、もしかしたらまさに詐欺にあいそうになっている人かもしれない。
そう思うと、とても物騒な世の中だと思えてもくるが、それが現実であって皆が意識するべきことなのだろう。

同じ土俵で考えていいものかはわからないが、いじめと類似する部分もある。
昔、いじめが社会問題になるほどにエスカレートしていた時代、傍観者もいじめているのと同じという理論が展開されることも多かった。
今でもいじめはなくなっていないだろう。
そんな今のいじめの現場でも、そのような理論は繰り返し展開されつづけているのかもしれない。
私はいじめられる側を経験したことがある。
同時に、傍観者になった経験もある。
だからこそ、賛同することにはなかなか勇気が必要だったが、確かにそれは事実なのである。

いじめとは性質は違う。
だけど、困っている人や不安そうな人を見たときに見て見ぬ振りをしてしまうことも、ある意味ではいじめの現場での傍観者に似ているように感じてならない。

誰もが気付き、支えあえる世の中が当たり前になるように、私自身も改めて自分のことを律していかなければならないと感じている。

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