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日々は続く

2023年8月25日
この日は確かにライブがあって、自分はそれを楽しみにしていて、無事にその日を迎えることができて、幸せな時間を過ごして、多分感激していたんだろうなと思うような感情や感覚の手触りはさすがにもうその日の帰り道よりも鮮明さを失っていて、日々の移動時間や休憩時間にライブの音源を聴く中で「現実だったんだ!・・・現実なんだなあ・・・」の「・・・」の部分を味わうなどして、意識の外では日を追うごとに何かが少しずつ確実にぷしゅーっと抜けていって、とはいえまだ言葉を言い淀めるということはあの日確かに何かを受け取っていてそれが残っている証なのだろうと思うなどして、そしてまた新しい週が始まろうとする今、尾を引いている心地よさを妙な冷静さで見つめながら、何かを書こうとしている。
(P.S. などと書き始めていたら、結局書き終わらずにまた一日が始まっていて、そしてまた一日が始まっていて、日常って無慈悲でシュールだなと思った。)


先日、「日常の些細な一瞬は細やかにまばゆい」とのキャッチコピーに惹かれて(ポスターのデザインや作品のタイトルにも惹かれて)、ふらっと(珍しく)演劇を観に行った。河川敷とそれが見える位置にある病室とを舞台にし、終盤では特に交わらなさそうな4人の登場人物の生活が交差する。それが作品の中でも劇的な瞬間の一つだと思うが、そこに至るまでの空気感を観客と丁寧に共有しようとしているように感じられて、印象的だった。観客とは言うものの、数歩前に出て手を伸ばせば届く距離に居る俳優と静寂を共にするのだから、同じ光景を眺める作中の一人のような気分だった。
序盤や中盤にて、登場人物が自身の視界に映る人々の日常の表情をモノローグで描写しそれを観客と共有した段階で、「この人にも生活がある」や「もしかしたら、人生って豊かなのではないだろうか」とのセリフを場に放つことで一気に観客の視野を広げる瞬間があり、これも印象的だった。おそらくすごかったのは、適切なタイミングで琴線に触れるセリフを挿入した脚本だけではなく、俳優の声の調子や間の取り方、セリフを場に投げかけたときにそれが届く距離感のようなもの、身体、そして場に充ちた何かだと思った。言葉に伴ったり言葉を包み込んだりする言葉ではない何かが、言葉以上に情報を持っている。とはいえ、具体的に何が起きているのかはよくわかっていない。
帰り道で空いた電車に揺られて乗客を眺めながら、人の生活が合流する場所ってたとえばどこだろうかと思い最初によぎったのは、ライブハウスだった。


先の作品を観劇したのは、「Form II」が配信され「プラネタリネア」がリリースされた直後だったので、これはいい偶然だと思った。作品に触れた後に思い浮かべる情景は先の演劇とこの音楽(やライブ)とでやや異なると思うが、作品の構えは通ずるものがあると思ったから。
あと、8月のライブ「Eureka」に至るまでに長瀬有花が(毎月!)ライブを行なった場所(美容室、ライブカフェ、スーパーマーケット、銭湯(漂流次元空間は一旦除く))は、今改めて振り返ると人の生活が合流する場所でもあり(というよりそこでライブをしていること自体が面白い場所なのだけれど)、なんかそういうのいいよねって感じだった。そして、それぞれの場所でライブをする前の開場時間が長瀬有花の日常の一コマみたいになっていて、なんかそういうのいいよねって感じだった。

↑ 長瀬有花 - コンセプトライブ「Form II」@ mona records 下北沢
MCでの「本日は、ペペッターズさんとともに、ここ下北沢 mona records さんにて、音楽的生活を営んでおります」の「営んで」の一語はあの空間に対するイメージを広げる言葉遣いだったなと思い、よかった。
「Form II」のときの「プラネタリネア」は、音源のときよりも素朴さ由来の安心感というか気楽さに包まれている感じがあって(このライブの全編に渡ってそうだったかもしれないが)、これも好きだなあと思った。後奏もかっこいい。かっこいいといえば、「今日とまだバイバイしたくないの」の後奏もかっこいい、特にギター。それと、照明もやわらかくて好き。


2023年8月25日
ライブ当日。
この日は長瀬有花のことを考えたり考えなかったりしてライブに向かおう!と思って一日空けていたら、コラボカフェの情報が公開されたので、お出かけの日にするか!となった。ライブを起点にして思い起こされる時間が増えるのは素敵なことだと思ったのもある。
長瀬有花っぽいことをしたりしなかったりして今日という日を彩ろうと思えば、普段は視界に一旦入るけれどスルーしてしまうことにも足を止めたり手を伸ばせたりする気がして、それはすごく貴いことだと思った。

まずはタワーレコード渋谷店に向かった。店頭に「a look front」が並べられていることにグッときた。「Launchvox」もいずれ並べられて、試聴機で初めて長瀬有花に出会う人も現れるのだろうか、と思いを馳せた。
適当に棚の前をぶらぶらしていると「聴いた方がいいと思います」(P.S. 「聞いた方がいいです」だった)と自薦のメッセージが書かれていて、「聴いてください」じゃないのいいなと思ったので試聴機で聴いてみた。内省的な歌詞をゆったりした音で浮かべてていい感じだ~・・・!?!?これはいいかもしれん!!となったので、買った。

次は歩いて、コラボカフェを開催していたULTRA SHIBUYAに向かった。近くに「SEEK」のライブ会場があったので外からちらっと見た。歩きながら、街の雰囲気が結構変わるんだなと思うなどした。
店に着く前から喉が渇いていたので、ドリンクを頼むには絶好のコンディションだった。これは砂漠の水を頼むしかない!と思ったけれど、クリームでちょっとした贅沢を味わいたかったのと、二層に分かれているところに童心をくすぐられ、結局オレンジクリームソーダを頼んだ。オレンジなのか実は桃なのか味の違いがわからなかったが、おいしいのは間違いないしまあいっか~となった。
展示を見たときは、「本物だ! というか、こんなに本物に近づいていいのか?(とは?)」となりつつ、「これもある、それもある!」となってた。撮った写真を見返してみてアナログテレビの画面に反射している自分に気付き、それはそれでいいけど透明になってもう一度写真を撮りたいと思った。
ドリンクを待っている間にレコードなどを見ながら、「知らないのばっかりだ・・・!」になり、いつかまた余裕があるときに出会うこともあるだろうと思ってフライヤーを持って帰った。

次は改良湯に向かった。ちょうどいいなんてもんじゃない、まじでちょうどいい温度の湯に浸かることができ、ここで「OACL」のライブをしたのはさすがに正解では?と思った。なかなか空いているタイミングで、心地よくてあまり上がる気にならなかったので、割と長めに浸かった。
上がると、受付横のグッズコーナーが目に留まり、見るとどうやら地球外の生命体にも開かれた銭湯らしかった。友好的な銭湯だと思った。コーヒー牛乳の気分だったので自販機で買い、剥がして蓋を開けるの懐かしいなと思いつつ、合間にため息を吐きながら飲んだ。そしてユートピアを後にした。

次はフレッシュネスバーガーに向かった。一つでは足りないので、クラシックバーガーとテリヤキバーガーをそれぞれ単品で注文した。クラシックバーガーに齧りつくと、パティからは肉汁が溢れ出していて、ちょっと贅沢した気分になった。ハンバーガーをいつでも食えるくらいになりたいと思った。

次は物販に向かった。長瀬有花の曲が流れていて、高まってきた。行列ができていて、それはそうだよなと思い、この後これ以上の人数が集まるんだろうなと思った。ながせもちを買った。見返すたびにだつりょくできそうなので。今思えば、この後のライブで思い出を付与されることになるとはつゆ知らず、のんきなものだと思った。

次は近くでやっていた展覧会に向かった。知らないことばかりなので、なるほど~とか、これは・・・?とか、それは!!とかなってた。「りんごを貫く30口径の弾丸」と題されたそれは目に飛び込んできたときのインパクトが強くて、写真というよりもはや一枚の映像だと思った。目の前のそれは今にも動き出しそうだが動かれても困るし、妙な緊張感を感じた。撮影者はストロボスコープを「発明」した人らしく、よくこれを撮ろうと思ったなというか、写してしまったなというか、写ってしまったなと思った。

そしてリキッドルームに向かった。


フロアに入ると「OACL」の曲が流れていて、前のライブの続きだ~とか、さっき入った湯よかったな~とか思った。ステージの上のオブジェクトを見てくすっとしつつ、セトリの予想をして待った。16曲くらいだろうと思っていたので、歌って欲しい曲(全ての曲を指す)が予想セトリから思っている以上に外れていき、勝手に苦しんでいた。後ろを振り返り人で埋まっているのを見ると、楽しみにしていた時間がもうすぐ始まるんだなと実感が湧いてきた。もうここまで来ると、この空間を信じて、目の前の光景と自分とに応じるだけだと思った。

照明が落ちる。
拍手が鳴る。
幕が開く。
焦らされる。
空間が何かを待っている。
あの瞬間がやってくる。

長瀬有花が顕現することはライブが始まる前から知ってたはずで、「駆ける、止まる」でノイズが走り始めたときには「これは、もしや・・・!」と思ったはずで、タイトルコールを聞いたときには次の瞬間に何が起こるのかはわかっていたはずだった。だからこそ、あの瞬間に自分の身に何が起きていたのか、何もわからない。「は?」と漏れる一歩手前くらいの呼吸の止まり方をしていた。感極まったときにも時間は止まるのでその説もあるが、そうでない気もする。ライブがあった日に残したのだろうメモには「長瀬有花が顕現したときの感情、多分もう思い出せないな」と書かれていたが、あれが感情だったのかどうかさえわからない。

「白昼避行」の後奏での長瀬有花のMCも印象的だった。
「今日の楽しみ方は、自由で~す」
長瀬有花だ、と思った。
耳に残ったのはその直後のMCのトーンだった。つよい長瀬有花だ、と思った。それは言葉の内容以上に訴求し、言葉を力強く支えていた。
その後は沸きに沸いた。

色々あるはずだけれど、今でも響いているこの日の一曲の話をします。
「微熱煙」です。
まず、この曲は待望の一曲だったので、「微熱煙」だと分かったタイミングで、「ついにこのときが来たか・・・」と思った。同時に、それは雑踏をイメージさせる曲なので、まだ地面に帰ってきていないだろうこのタイミングでの「微熱煙」はいったいどうなるのだろうと思った。
曲が始まり、コントラバスが鳴っているだけで広漠とした空間に放り出されているようなイメージが湧く。単に放り出されているだけでなく、身を委ねてよさそうな気がする。そして見惚れるような照明の演出ではっきりした気がするが、何か浮かんでいるイメージがある。それはここまで乗ってきた宇宙船かもしれないし、ここに至るまでの出来事かもしれないし、ひょっとすると、照明で示された光の粒のそれぞれがあの場の一人ひとりの記憶に見たてられていたのかもしれない。ともかく、あのときは浮かぶイメージがあって、安らぐ感じがあって、それをどこか遠くから眺めている感じもあって、それでいて確かにこれは「微熱煙」だと思った(「微熱煙」であることはある意味で当たり前なのだけれど)。そしてアカペラが響く。今乗っている宇宙船からどこまでもズームアウトしていきそうな。
アカペラを終えてドラムを合図に演奏が再開し、視点が一気に引き戻される感じがする。宇宙船は着実に帰路を進んでいる。
「さよなら 永遠の街へ」
もともとそのような曲だったのかもしれないが、包み込むようなやさしさを感じるような歌い方だった気がするし、屈めて諸々を吐き出すときでもそれでいて前を向くような歌い方だった気がする。
この後は光が差して大団円に向かっていくのだけれど、この日のこの曲の演奏の中で特に響いたのはその直前だったと思う。
「綺麗に逝かせて」のところから、なんかめちゃくちゃやるパートがあり、現地では「うおー、もっとめちゃくちゃにやれー!」と縦ノリで興奮していた気がする。が、ここは走馬灯が映るパートでもあり、めちゃくちゃやってることへの解釈の一つは、それが記憶を洗い流す時間の冷酷さの表現だろうと思った。そんなことを片隅に留めながら、既にこの曲を聴いたことがあったので、いよいよ光が差すタイミングだろうと思った、そのときだった。
めちゃくちゃパートはまだ続いたのだった。しかも勝利確定演出みたいな音を携えている気がする、特にベース。ある意味、既にこのとき光は差していた。現地でこれが聴こえたとき、絶対に落ちることのない道の上を進んでいる感覚があった。前へ進んでいた。もうきっと大丈夫だろうと思った。仮にそうだとすると、この音への解釈の一つは、日々が続く中で洗い流されようとなお残るもの、不滅なもの、それを支えにして僕らは続く日々を生きていけることの表現だろうと思った。
そして光が差して大団円へと向かっていく。「LaLaLa」って会場で歌えてよかった、ほんとうに。この空間を共有できるときを待っていたから。

そんな「微熱煙」を終えて「宇宙遊泳」が始まるわけで、これが、よかった。歌声が、というか触れ方がどこまでもやさしい。この日過ごした時間やこの日感じたことを誰よりも大切にしているのは長瀬有花だと言ってしまいたくなるくらいに。そしてその大切さをあらためて共有してくれるのも長瀬有花だった。

果たして、この日のライブは楽しかった。
その日に残したのだろうメモには「なんかよくわからんけどめちゃくちゃ楽しいな、みたいな感覚が溢れかえって、今なら無敵かもしれん、僕ら」と書いてあったり、ほかにも「微熱煙!!」と勢いしか伝わってこないメモが残っていたり、楽しかったのは確かなのだろうと思う。

あと、「ありがとう」は溢れてしまうなあ、と思った。その言葉を使わずに感謝を示す方法をいつだって探しているけれど、結局その言葉を直接伝えることにはなかなか敵わない気がする。とはいえ、この日については、配信やアーカイブで観たり、なによりリキッドルームに立っていること自体が既に一つの答えだろうと思った。

ライブが終わりそのまま会場を後にして、夕食のために店に入り一息ついたところで、メモ打ちタイムが始まりこの時間も楽しかった。これがある程度進んだタイミングでハッシュタグを漁る時間もあり、これも楽しかった。
そんな中、あれもよかったしこれもよかったな~とメモを打っている最中に、ふと「オレンジスケール」を思い出して、どうしようもなく涙腺に響いた。あれはいったいなんだったのだろうか、と思う。

余韻に浸りつつも気をつけて帰り、家に着いてからも余韻冷めやらぬみたいな感じで、気づけばその日は終わっていた。


あれからも普通に次の日は来て、今日もやっていくかみたいな日があったり、早く寝るかみたいな日があったり、久しぶりみたいな日があったり、大切な日があったり、その他の日があったりした。
「プラネタリネア」を聴いて、自分はこの宇宙旅行に行ってきたんだよな~と思ったり、一日の内に占めるライブ音源を聴く時間の割合が減ってきたりした。

今回のライブの同時視聴があって、大切なことをまっすぐに伝えられて、それを素直に受け取ってもいいと思えるような、そんな人柄の良さをあらためて長瀬有花に感じた。

あれからも、長瀬有花が色んなものに出会ってそれを共有してくれる様子がツイッターから流れてくる。自分も何かに出会おうと思った。そうやって今を重ねてそれぞれ歩いてきた人たちがあの日合流したから、長瀬有花が宇宙船から飛び出したあの数歩は劇的だったのだろうと思う。

一年と少し前、「SEEK」のアーカイブが切れる時期の配信で、思い出になってしまうのは辛いね(意訳)という話題に対して、長瀬有花は理解を示しつつもそれだけでなく、「思い出の中で輝いているからこそ美しい」と言ってくれた。美しさや輝きでは何も報われないし今欲しいのはそれじゃないみたいな時期はときにはあるけれど、そういったときでさえ煌めきは越えていくために手を貸してくれたりするし、その一言は実感を伴って信じられる。
受け取った何かを糧にして生きてきたし、これからも生きていける。

ライブが終わってしばらく経つはずだけれど、不思議と心地よさが尾を引いている。理由はよくわからないけれど、きっといいことだろうと思う。

永遠じゃなくていい。その通りだと思えた。
続いていく。大丈夫だと思える。
息をする。


ありがとう。
きっとまた出会おう。

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