見出し画像

シャナイア・トゥエインのMVから考える「印象批評」

Shania Twain - That don't Impress me Much

  カントリー娘がLAヘアメタル系のチャラ男と付き合って触発されてしまったようなカントリーメタルな楽曲(?)で、ミュージック・ヴィデオではそれを反映するように全身ヒョウ柄のシャナイア・トウェインがクールできまってる。砂漠でヒッチハイクする映像の崇高さと俗悪さの妙な混交ぶり、そしてリリックに出てくる「ブラッド・ピット」の名前もあってシャナイア、きっと『テルマ&ルイーズ』【下図】意識してるでしょ、と思った(あるいはリンチの『ワイルド・アット・ハート』にも連なる感覚がここにはある)。

画像2

 と「印象」ばかりつらつら書いてしまったが、印象批評がテーマだからまずは実践したまでのこと。この曲では頭でっかちのロケット科学者やら、いい車に乗ってる金持ち男やら、外面ばかり気にする?ブラッド・ピットなどコケ脅しの男どもを槍玉にあげ、「あんま印象に残んないわね(That don't impress me much.)」と切って捨てる痛快なリリックが有名だ。【※その直前に演奏が一時停止して "OK, So You ~(批判対象)"と決まり文句がくるあたり、ダウンタウンブギウギバンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の「あんた、あの娘のなんなのさ?」みたいなものか?】

 さて、このimpressとは言うまでもなくimpression(印象)の動詞形である。「印象」とはその人の知的・批評的営みの蓄積されたものが凝縮して瞬間的に発露するものであるから、シャナイアが今まで言い寄ってきた男たちから複雑に築き上げた「良い男」の像と比較判断した結果「あんま印象に残んない」と価値判断=「批評」してるわけである。シャナイアは袖にする批評家なのである。

 こんなの「批評」の名に値しない!、というのが「印象批評」批判派の意見でしょうが、僕は断固支持する。ファースト・インプレッションこそが「瞬間の王」(谷川雁)なのである。その複雑に折り重なった「印象」の襞(ひだ)を解きほぐそうとする科学的プロセスが真の批評であると考えるあなた、あなたの中でそのあいだにも数多のものが死んでいます。

 「私がこういう印象を抱いたのはAとBとCとDの要素が組み合わされたからだと思います」などと後付けで整理している時点で、そのとき抱いたはずのもっと豊かで直感的で電撃的な瞬間認識のマジックは消えている。谷川雁なら「私の中にあった「瞬間の王」は死んでしまった」と嘆くことでしょう。

 その意味で平岡正明が「あらゆる感情は常に、絶対的に正しい」とぶち上げた有名な一言はじつは「印象」を問題にしていると再解釈できる。高山学派の人々から白い眼を向けられて(?)なお僕が平岡に執着するのは、普通なら消えてしまう「印象」の豊饒が奇跡的にそのテクストには保存されているからである。

 「印象批評」批判派に足りないのは「そもそも〈印象〉ってなに?」という根源への問いである。こんな奴らに限ってジャン・クレイの大著にして名著『印象派』(中央公論社)も読んでなければ、impressionism(印象主義)とexpressionism(表現主義)を対比させてimpress - expressの問題系を捉える頭の働かせ方も皆無なのだろう。

 小林秀雄のモーツァルト論を「印象批評」という名の悪の権化のように取り扱うより、その小林の中で起こっている瞬間的な、アナロジカルな事物の連結を脳科学的に考えたりするほうがきっと有益であろう。最後にザ・ストロークスの『ファースト・インプレッション・オブ・ジ・アース』【下図】をレコメンしてお別れです(このアルバムに青春を感じる人、きっと同世代!)。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?