『オタク用語辞典』の騒動について - 断絶を前提とした視界

三省堂『オタク用語辞典 大限界』について、非常に残念な騒動がありました。

数々の言及がなされ、釈明もなされ、多くのコメントがあり、目立ったものには目を通していると思います。

見る限り、批判的コメントの相当数は、
「三省堂が出すにしては解説のクオリティが低い。辞典を名乗るに値しない」
という趣旨と読み取れました。

しかし、私個人としては、懸念しているところはそこではないよなあ…という感触がありました。ので、そのあたりを書いておこうかなと思います。

オタクという生き物は、"オタクという生き物"と自己批評する精神性を持つ

オタク。嗚呼オタク。隠れ潜むオタク。

そもそも"オタク"は非常に多義的で、安易に取り扱うことができません。しかし、本稿では、『大限界』が想定したであろう"オタク"、すなわち、仲間うちでのみ通じる言葉を大量にやり取りし合う女オタクと見なしたいと思います。

この認識において、オタクとは多数のコミュニティを形成しており、そのコミュニティはクラスタ化(ないしは島宇宙化)しています。クラスタ間は見通しが良くありつつも激しく断絶しており、所属メンバーは各自、狭い界隈に、そして大抵は複数同時に強烈に所属しながら、隣近所のクラスタを常に観測し、相対化をし続けています。

仮想の実例に落とし込んでみます。
まずは「多重所属」について。
A子は、2.5次元界隈を主戦場にするオタクで、とある作品『仮名TTT』の熱烈な愛好家です。原作も愛してますが、舞台がA子にとっては沼の入り口で、全通した結果、推しキャラを担当してくれた若手俳優Zの舞台も行くようになりました。
※この時点で、A子は「中ジャンルとしての2.5次元」「仮名TTT(原作)」「仮名TTT(舞台)」「若手俳優Z」の4つのクラスタに所属しており、それらは接続していますが、完全に包含し合うことはありません。

そして、「相対化」について。
『仮名TTT』の舞台は好評だったので2ndシーズンが作られることになりましたが、脚本家が変わってしまうことになりました。
「新しい脚本家のQ氏は、どうやらよくない評判もある」と仲間うちで噂になっています。不安になったA子は、Q氏が過去に担当した作品『ダミーW』の舞台の評判を確認してみることにしました。
※ここでA子は、「ダミーW(舞台)」のクラスタを観測しに出向くことになります。この際は「中ジャンルとしての2.5次元」のミームを媒介にコミュニケーションを行うはずです。
それに、そもそも「噂」は誰が持ち込んだのでしょうか? A子が所属する「仮名TTT(舞台)」クラスタの中には、別の舞台作品のファンを兼任している人がいたのかもしれません。

……まあ、粗雑な例ですが、こんなところでしょうか。

このような"視界"が、オタクの取り交わす言葉=コミュニケーション媒体を解釈する上では必要になります。

時に数十、数百に及ぶ複数の所属を重ね持ち、相互に参照、比較し合いながら物を見る振る舞いは時に「オタク仕草」「オタクの生態」と(なかば自ら)揶揄されます。

このような言い草自体が、オタク/非オタクの断絶を前提にしたものであるのは論を俟たないはすです。オタクとは"オタクという生き物"であり、非オタクとは別の生き物である、という視界。

しかし一方、既に確認した通り、島宇宙化したオタクたちにとっての[断絶]とは極めて身近なものでもあります。なぜなら、断絶のかなりの部分が作品の構造等に依拠しており、消費者側に制御の余地がないからです(このような構造から別途派生する感覚として、「オタクは(公式に対して)弱者である」という認識がありますが、今回の本論ではありません)。

つまるところ、オタクたちは常に[断絶]を繰り返し、[断絶]しないでいることはできません。非オタクとの[断絶]もそのように発生し、取り扱われています。

ここで肝要なのは、「オタクにとっての[断絶]とは絶望ではなく、前提である」ということです。従って、断絶に伴う無理解もまた、絶望ではなく前提として取り扱われます──少なくとも、前提として取り扱われることが強く望まれます

ここまでを踏まえて、『大限界』の記述に立ち戻ってみましょう。

「私の話」か、「あちらの話」か

当初公開された『大限界』のサンプル見開きでは、【公式カプ】【顔カプ】の用例に、実際に存在するコミュニティの名称が含まれていました。

はたして、そのコミュニティ名=クラスタに所属していたのは誰なのか。

もしかしたら、実際の著者である女子大学生の皆様の中には、そのクラスタに所属する当人がいたのかもしれません。「私の話」として記述した。そして友人(隣人)が観測した。それだけのこと。

しかし、三省堂という出版社を通し、立派な装丁と組版のパッケージに収まり、さらには著者の名義に出る個人名は教授のみになったことで、著者の実体は限りなく脱臭されました。

このことによって、これらの用例は「私の話」として読解される余地をほぼ喪失したと思います。「私の話」でないのなら、用例はすべて「あちらの話」にしかなりえません。

そして、「あちら」とは[断絶]の先にある島宇宙それぞれであり、そのどれもが、無理解を前提として取り扱うべきものでした。

もっと端的にいえば、丁重に遇さなくてはならない存在でした。

揶揄の対象としてはならないし、粗雑に扱ってはならない。それどころか、どのように触れ合うべきかもあらためて問い直さなくてはならないほどの、断絶の向こう側。なのに、『大限界』の記述の数々は、備えるべき丁重さを著しく欠いていました。

とはいえ、出版の経緯を鑑みれば、同情できる点は明らかだとも思います。

「私の話」として書かれたものが「あちらの話」に変質してしまったのは、むしろパッケージによるものと考えられるからです。

辞書編集者の飯間浩明氏がX(旧Twitter)で、「公式が弁明する点があるとすれば、まんじゅうそれ自体ではなく、まんじゅうの箱についてであろうと思います。」と述べており、私も全くの同意見です。

このようなパッケージの変化によってどのような変質が起きるかについて、少なくとも出版社は精密に把握すべきですし、その案内と調整の補助を著者たちに行う義務があったでしょう。

阪神びいきの辞書がある、アンチ○◯の辞書はきっとない

辞書好きには有名な話として、「用例が阪神びいきの辞書がある」というものがあります。『ジーニアス和英辞典』がそれ。解説の文が、阪神が優勝した話だったり、連勝した話だったりするわけですね。これはちょっと面白い。

ですが、もしこれが「"特定の球団の"アンチ」だったら、たぶん許容されなかったと思います。

用例が偏っていることも、語義にあらさがあることも、まだ許容されてもよかったかな、と思うんですよ。でも、どんな偏りでも許容されるわけでは決してない。

当初の『大限界』の記述は、特定のクラスタを貶めている、もしくは貶めうる可能性がありました。そんなわけないでしょ、と思う方はいるかもしれませんが、事実あったのです。あったのよ。

(この比喩自体がオタク的自虐を内包しますが)たとえば地中生物の生態を観察するとき、いきなり巣穴に向けてスポットライトを全力で照射するのは適切ではないように、「よくわからない」相手を表現しようとするときには、わからないなりにも丁寧に接するべきじゃないですか。

まだ発売もされていない書籍ですが、サンプル見開きの2ページを通読しただけでも、アグレッシブな表現は散見されました。大丈夫かな?と懸念する部分はあったのです。

それらの大半は取り越し苦労、杞憂かもしれませんが、本当にそうかどうかはわからないものです。だってそれは断絶の向こう側だから。無理解が前提だから。

危険っぽい表現を平気でずけずけ乱発していれば、「歩き方には気をつけましょうよ、お互いに」とは伝えたいです。

[断絶]に付き合い続けてきたオタクなら、無理解を前提に交流する作法を知っているはず──いや、「はず」は言い過ぎですかね。
でも、無理解を前提に、だからこそていねいに前向きに交流できることを願っていたいです。

たぶん購入して読んでみると思います。懸念は拭いきれませんが、異なる島宇宙を垣間見られるのは楽しいはずなので!

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