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note|Ken Sugiharaさんのnoteを読んだ

グローバルホームレスな生き方」ってどんな生き方だろう? そんなことを考えながら読み始めたところ、ものを持ったうえでの生命活動というのは、西洋的な価値観なのかもしれないな、ということを強く感じました。

ただ、従来のコミュニティは多かれ少なかれ「場所」に紐付けられていたわけですが、コロナウイルスが「Zoom」とか「Skype」で繋がることの心理的なハードルを一気に下げてしまった今、どこにいても、自分のお気に入りの人たちとのささやかなコミュニティを維持できるようになってきました。

そうなると、僕のような人間にはとても生きやすくなります。ホームレスという言葉が帯びるネガティブなイメージは、もはや実体にそぐわなくなってくる。

国家だったり、税収を前提にしたコミュニティでは、人の流失が最大の損失だったので、モノや土地を与えることで、土地に人を縛り付けていたというのは確かにあるような気がします。

しかし一方で、地球規模で見れば定住をしているのは人間くらいで、より自然に即していきるのであれば、Ken Sugiharaさんがアルゼンチンで会った釣り人のような生き方で、自分がいられる場所を転々としていくことが、生態系としては自然のように思います。

とくに産業革命以降の近代都市化によって「豊かさ」をお金で測ることになってしまったことで、人間の生き方が場所に縛られるようになってしまったように思います。いわゆる「その場所に仕事があるか」、ということが自分がいる「場所」であるかのようになってしまっているのです。

そこをKen Sugiharaさんは、「移動を中心にした生活」を遂げることで、負荷なくKen Sugiharaさんが生活をする術なのだと思う(このあたりをイスラム教圏の人たちの「他人に施すことを徳とするイスラム教の人たちのアイデンティティに深く関係している」と言っているのですが、このあたりのこともぜひ聞いてみたい)。

そう思うと、かなり多くのことが近代以降のモノを作って経済を回すという、人類だけで完結する(もしくは地球に負荷をかけながら)サイクルについて、無意識に何かを考えることなどなかったのですが、改めて考えてみると、西洋で生まれたある一部の価値観なんだよなぁと思います。

別に西洋的にな経済サイクルを否定もしないし、僕自身もその経済サイクルのなかで生きているので、そもそも否定できる立場でもないんですが、「移動を前提とした生き方」ということも、反面的な存在として考えておく必要があるように思います。

そして、Ken Sugiharaさんが言うように新型コロナウイルスの影響で「Zoom」とか「Skype」で場所に関係なく繋がることの心理的なハードルを一気に下げてしまったことで、「グローバルホームレスな生き方」とまではいかなくとも、場所に縛られない新しい生活様式ができてくるかもしれません。

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明日のnoteは「Rock」。そうだなぁ、イアン・ハンターの「All American Alien Boy 」について、ソングライターだけど自己分析ができない人というテーマで書いてみようかと。

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