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Food|おいしいとは何か? 1年前の自分に学ぶ

先週土曜のテーマ、noteで「おいしい」について考えさせてもらってから、つらつらと「おいしい」とは何か? を考えている。

そこでは、個別性、いわゆる味覚情報としての「おいしい」と、美しいや楽しいと同じ概念としての「おいしい」を分けて考えることを常にやってみようという結論になった。

とはいえ、「美しい」や「楽しい」と異なるのは、「おいしい」は、個別性の「おいしい」にかなり依存しているということ。もう少し、2つの「おいしい」を考えてみないといけないな、と思っている。

そういえば、ちょうど1年くらい前にも「おいしいとは何か?」というテーマを仕事で考えていたな、と思い。自分のFacebookの投稿を見返していたら、面白いものを見つけた。

2018年11月に「シェフズキッチンvol30」というイベントで、長野・佐久にある「職人館」の北沢正和さんと「星のや東京」の浜田統之さんがコラボレーションについての感想を書いたものだ。過去の未熟さがあってちょっと恥ずかしいんですが、全文を転載してみます。

このところ「おいしい」と「おいしくない」というのは、人間中心的すぎな考え方ではないか、とすごく違和感を感じていました。この二元論以外で表現していかないと、たとえばフードロスや、水産資源などの消滅といった、近代が行きついた諸問題って解決できないのでは。デカルト以降の近代的な人間中心な二元論では、次の時代にいけないのではないか、と考え続けていました。

そんななか、先日、職人館の北沢正和さんと星のや東京の浜田統之さんがコラボレーションされた「シェフズキッチンvol30」に伺う機会を得ました。

その時期に長野にあった素材でお2人はコースを作られたわけですが、「これむちゃくちゃうまいですね~~!」とか、そういう感じではなくて、ひたすらそこには長野の素材がある、ただそれだけなんですよね。

極端にいえば、「おいしい」とか「おいしくない」を考えさせない料理。脳の反応で言えば、「認知の刺激」はほぼなく心地良さという「快の情動」だけがある(このあたりは、1月号の料理王国で担当した記事をご覧ください)。

北沢さんは、最後におっしゃいました。

「長野のあるがまま」を味わってくれればいいんです。

2年ほど前に、軽井沢で浜田さんにインタビューをさせていただいた際に「北さんと、今縄文の研究をしています」とおっしゃっていたのを思い返しました。

脱近代の鍵は、縄文にあるのかーー。秋に行きそびれた東博の「縄文展」を思い出しました。

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職人館の北沢正和さん

おいしい至上主義との決別

なるほど、この時の僕は、個別性としての「おいしい」を活かしながら、概念としての「おいしい」の使用をやめようとしていることがわかる。今僕が考える個別性の「おいしい」を使うことをやめようとしているのとは、真逆の行動です。

この時は確か、長く続けてきた美食と呼ばれる「おいしい」の個別性を純粋に追い求める世界に、同時代的な違和感を感じていました。

人類の叡智が詰まった三つ星や二つ星の伝統的な店では、空席があると言う事実。

一方で、星がなくとも、連日満席の店がある事実に、答えが出せていなかった時期だと思う。

1年経ってわかる。6年間、懸命に見続けてきた世界がなくなっていく足音を聞いていたのだろう。凍った池のうえに立っていところが、みるみるうちに解けてなくなっていくような感覚。

今思えば、その世界は、解けてなくなるような世界ではないのに、何かに追い詰められるような危機感を持っていたんだと思う。

実態のない「おいしい」を考え続ける

概念としての「おいしい」を「あるがまま」とすることは、とてもいいアイディアだと思う。

味覚という個別性と切り分けて、ライフスタイルとしての概念として捉えなおしてみる。そこには、あるがままであるかどうかで、食事を選ぶ心地よさがあるのだ。

それは、ワインでいうナチュールという哲学かもしれない。

おいしい」という実態のないものにいかに挑んでいくか。

いつまで経っても僕はそんなことをしてるんだと思う。

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