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note|大野尚斗さんの note を読んで

昨年、note公式#フードのピッカーを拝命して以来、食関連のnoteを1日1つは読むようにしています。

そのなかで「これは誰かの役に立ちそうだな」というものを公式マガジンに入れていっているわけですが、「いい文章だなぁ」と思っても、#フード マガジンには、ちょっと違うかなと思って入れないものもあります。

でもすごく好きなんですよ」というnoteを、毎週土曜は紹介してみようかと思っています。

(あらかじめ。編集者的な目線でエラそうに感じたらごめんなさい!)

読者が読んでいる時間を大切に

大野さんのnoteは、これまでも読んだことはあります。ヨーロッパを巡りながら、レストランでスタジエ(研修)していく「バックパッカー料理人」であることは知っていて、なんどかタイムラインのめぐりあわせで読ませていただいていました。

このnoteは、たぶん「キノコの魔術師」にひっかって読み始めまたんだとおもいます。なにせ、大野さんの行ったレジス・マルコンさんに僕も憧れていて。ここと、あとブラスさんの2店は、いつか行ってみたいレストラン。どんな、情報があるのかなぁ、という関心で引き寄せられました。

読んでみると、おそらく全体で2000字ちょっとくらいの分量なんですが、一分一文が短く、文末も小気味よく、リズムがあって読みやすい。うーん、読みやすいというより、心地よいという方が適切かもしれません。

段落替えなど、あまり意識していないように見えるので、いっしゅん読みづらそうに感じるのですが、文字の中に入っていくと、そういうことは一切感じなくなります。

風景と人物を生き生きと描写しながら、たまにほどよく道筋を外す一文があったりもします。僕的には、途中の下の一文が、とっても好き。

自然に溢れる小さな街は、とてものどかで暖かい雰囲気に包まれている

大野さんが朝見た、この土地の風景。人と気候の両方の「暖かい」感じが伝わるし、次から続くキッチンでの経験にもうまい影響を与えています。

さらに、この投稿自体は、おそらく一日の流れを描写してると思うのですが、たまに、時系列をずらした個所があったりします。

僕は、休憩という習慣に慣れていないので山へ散歩へ出かけたり、街に1つだけあるバーで昼間から軽くお酒を飲んだりしながらフランス語を最低限だけでもっと覚えたりしていた。

たとえば、この一文なんかは、一日の体験が縦軸としたら、ここだけ時間が横移動していて、2、3日にわたる休憩の過ごし方が書かれています。映画の主人公がセルフナレーションするような、2つの時間が1つの文章に流れているような感触。僕は大好きです。

毎朝の仕込みの日課は、僕の身長 (181cm) よりも高く積まれた野菜と待ち望んだキノコの山。
盛り付けするデシャップ (テーブル) をシェフも一緒に全員で囲み、全員で野菜の掃除に取り掛かる。
ギャテッ ギャテッ」っとシェフが声をかける
小さいニンジンや小さいカブの茎の土がついた部分をペティナイフでこそげ落とすのだ。
1つ2つガリッと味見してみた、なんて野菜の味が濃いものだっと驚いた。
ニンジンはよりニンジンらしく、カブは甘いだけでなく清涼感、土の香り、みずみずしくも濃厚なうま味。 どれも主役級のうまさだ。

ここは、いちばん好きなところです。

自分も、その仕込みの場面にいっしょにいて、野菜の掃除をしているように感じさせてくれる文章で、描写がほんとうにうまい。

状況の描写って丁寧になりがちなんですが、あえて心の動き、目に見えたものだけを紡いでいるんです。ここの部分、本当にいい。

失礼な言い方なのですが、全体を通して、たとえば料理の作り方や、マルコンさん親子の格言があったりするような「読んだら得するの?」的な文章ではありません。しかし、大野さんの見たサン・ボネー・ル・フロワという村にあるレストランの息遣いが、読みながら伝わってくる。

読ませてもらい、とてもいい時間をすごさせてもらいました。

僕だけのフレーム、あなただけのフレーム

ここ数日は、毎日noteを更新していくなかで、自分らしさって何かな、ということを考えることが多くありました。

なんというか、誰かの役に立つような成功や失敗の経験を書いたり、レシピを投稿したりしていくことが、自分にはできないことに気付いてしまったわけです。

そりゃそうです。メディアにいるわけでもなく、バリバリ世界の前線でしのぎを削っているわけでもありません。料理人の方に近い存在ですが、料理はできません。一人では何も作り出せない男が、人様のお役に立ちたいなどというのは、当たり前に無理があります。

なりたい誰かに憧れていたけど、やっぱり自分に向かないことは向かない。

ただ、もしかしたら、自分なりの「ものの見え方」は表現することならできるんじゃなか。そんなことを考えていたときに大野さんのnoteに出会いました。

僕は、文章にも写真や絵画のようにフレームがあると思っています。このフレームの大きさや、物事の切り取り方は、その人らしさ。

世界は360度、全方向に広がっていますが、人間の目は、おそらく上下左右90度ずつ、さらに半径5メートルくらいしか体験的に見ることはできません。こんなに世界が広いにも関わらず、僕たちはそれをつねに切り取りながら限られた世界を認識し、理解や誤解をたえず繰り返しながら生きています。

世界のどの部分を切り取ってフレームに収めるのか。僕は、大野さんの目の動き、視点の移り方が好きなんだと思います。

それなら僕は、どんなフレームを持っているのかなぁ。

ガチガチにフレームを決めこんでいくのではなく、ゆるやかに多義性をもって物事をとらえていく。そこに決定的な意味がなくてもいい。ただただ自分のフレームから見えたものを表現していくことに、どうやらいまの僕は惹かれているようです。

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