12月5日「炉辺荘のアン」「アンをめぐる人々」女性の生き方に思いを巡らす
まだ読み切ってないけど思ったことを。
「赤毛のアン」シリーズの八作目。こういう、スピンオフは四作目「アンの友達」以来やけど、これが、面白い。アンの育ったアヴォンリーの人々が一人称で語ったお話がいくつかはいった短編集。「アンの友達」は読んだ後愉快な気持ちになった覚えがあるけど、「アンをめぐる人々」は何度もウルっときてしまう。
「父の娘」レイチェルは自分の結婚式に別居している父を招きたいが、母は許さない。父と母はレイチェルが生まれる前に喧嘩し、それ以来交流がない。母は父に会うことを厳しく禁じていたが、ある日偶然にレイチェルは父に会う。二人は、お互いが確認しあわなくても、親子だとわかる。その瞬間の描写が美しい。海辺で夢想にふける少女レイチェルに、父は「人魚が出てくるのを待っているの?」と話しかける。なんて優しいんだろう!この一言だけで、レイチェルを見つめる目が温かいのがわかる。それだけでうるっときてしまう。その後父の目に浮かぶ涙を見てレイチェルも気付くが、お互いそのことには触れず、楽しい時間を過ごす。
二人で過ごした時間を彩る、小物も美しい。真紅と紫の斑点のある、大きな淡紅色の二つの貝(きっと、磨かれてぴかぴかなんだろうな…)。ドラゴンの巻き付いた、紫色のティーポット(中国のもの?)。レイチェルが想像したこともないくらいおいしい砂糖菓子(いったいどんなもの…!?)。小さな部屋は父の弾くバイオリンの音色で満たされている。なんだか、セピア色の、夕方みたいな、美しく、幸せで、切なくなるような印象。はー美しい。
他の作品も激しく、美しい人間の様子が描かれていて、一気に読んでしまう。
正直、「炉辺荘のアン」は読むのにだいぶ時間がかかった。アンの六人の子どもたちが中心なのだが、まず誰が誰だかわからない。同じような話もある。ちょっと退屈で、読みながら寝てしまうこともあった。アンもほとんど出てこないし、理解のある母親程度の描かれ方。ただし、一番初めの、アヴォンリーに帰省したアンの話と、一番最後のギルバートの愛を疑う話は面白かった。
途中の退屈さが、わたしにはショックだった。なんだか、母親になると物語の中心ではいられなくなるのか?という思いがずっとあったし、少女のころ好きだったあれやこれや、こだわりと折り合いをつけて、あのアンでさえ、のみこんでがまんして生きていくしかないのか?
少女のアンをみて「好きなものは好きだと言っていい」「空想の羽を広げることはすばらしいことなんだ」と勇気づけられた私は、ショックだった。
「炉辺荘のアン」の全体を通して見てみると、「『わたしたちの時代』は終わってしまった」とダイアナに言わせて始まり、子どもたちの話にほほえむ、夫を支える「型にはまった」(ようにみえる)母親アンの影ちらつく程度に描かれ、最後に「昔の私ではない」ことに落胆するアンの老いが描かれる。なんだか、キラキラしたところが全然ない。もちろん、客観的にはアンは依然として美しいのだけれど…
この次の「虹の谷のアン」ではどんなアンが描かれるのか、期待したいけどちょっとこわい。あの時代に、勉強することによって道を切り開いていったあのかっこいいアンは、どうなるんだろうか。教師も小説家でもないアンは、そのままでいいの?自分の今後への不安も重ねてしまう。
まずは、このキラキラした短編を楽しもう。
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