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小説 『水面に向かって』


 大量の人間たちの緊迫した眼の光がその一点に注ぎ込まれた。と同時に、鈴の音のような得体の知れない音が周囲からさざめきたった。きっとそれは、この場にいる人間たちの突如いっせいにふくれあがった鼓動の反響にちがいない。JR環状線京橋駅と京阪京橋駅をむすぶ北口のひらけた空間が一瞬完全に固まった光景を、わたしは見た。人間たちはその鈴の音が止むと、スイッチを入れられたように絶叫をあげて逃げまどった。
 わたしの瞳のなかでひと組の男女が雑踏のド真ん中で刺し違えていた。北口の空間のやや東側、ホテル街へとつづく場所だった。
 ぐうぜん男女の周囲に居合わせた人間たちは悲鳴をあげながら、たちまち散り広がっていった。北口西側の歩道橋の上に突っ立っているわたしにはその混乱の様子が、まるでみるみる模様を変化させる巨大なフラクタル図形のように見えた。下から逃げあがってくる人波に何度も肩や顎をぶたれ、押し倒されそうになりながら、わたしはタイルの反射光に目を細め、渦の中心にむかって歩道橋の階段を降りはじめた。
 真上から降り注ぐ照明のせいで男女はほとんど陰影をもたず、のっぺりと平らな印象を抱かせた。
 JR側を背にした女の方はやわらかな巻き髪を肩に垂らし、梅雨のけむたい湿気をたっぷり吸い込んだシフォンのワンピースを着て、麦わらのウェッジソールサンダルを履いていた。京阪側に立つ男はシャツとスラックスを着用していること以外、すさまじい逆光のために、どのような風貌なのか確かめることができない。ぴっちりと交叉している女の左手には包丁、男の右手には――わたしはさらに目を細め、眩むような人波の中心にピントを合わせた。男の右手にもやっぱり、包丁らしきものが握られていた。女の刃はいかにも自然に男のみぞおちに刺さっていたけれど、男の方はどうやらあまり深く刺すことが出来なかったようで、鈍く、めり込むように女の胸に突き立っていた。凶器を握る手から腕にかけて熟したイチゴのように真っ赤な血が走り、肘から滴り落ちていた。踏み汚されたタイルの上でふたりの血が融けあって官能的な水たまりをつくっていった。暑い季節にも関わらずその血の海からは猛烈な湯気が生々しく立ち昇っているかのようだった。女の方が先に倒れた。その倒れる勢いにもつれて男もその上に覆い被さるようにしてくずおれた。JRと京阪両方の駅から駅員がハトのように飛び出して来て、付近の交番からも警官が三人到着した。そこで狂気を帯びた現場の緊張はひとまずワヤになった。
 遠くに退いていた野次馬がおそるおそる走り寄る。倒れた女の肩を抱きあげて、声をはりあげている。けれど、女の意識はとっくに暗闇の底に引っ張られてしまっているようで、どれだけ頬を叩かれても反応はない。男女は、轢死体や車内急患を運ぶための緑色の担架に乗せられた。
 いつのまにかわたしは、血の海から十メートルぐらいのところにいた。
 これから、ホテル街にある仕事場へ行くことになっていた。店へたどり着くにはこのグロテスクな現場をなに食わぬ顔で通過しなければいけない。胃の底がキュッと縮みあがった。
 バッグからケータイを取り出して、いま目の前で事件が起きたことを仕事場に連絡した。頭も口もうまく働かなくて、言いたいことがぜんぶ噛み噛みになってしまって、電話口の事務員に大笑いされた。駅前がとんでもないことになっていてそっちに行くのが難しい、ていうかこわいから、今夜はこのまま電車に乗って帰りたいから、もしまだ予約がひとりも入っていなかったら、今夜の出勤はまた別の日にしてほしいって副店長に伝えて、とわたしが泣きつくと、電話に出た事務員はちょうどネットで事件の実況を読んでいたところだったらしい。ああ、いまニュース速報が出とるわ、エライことなっとるらしいなあ。
 電話を切り、自分の立っている位置がJRと京阪どちらの駅に近いか見くらべた。ボコボコ果てしなくふくれ上がる野次馬たちに圧倒され、距離感がまったく掴めない。生臭いM字ハゲに右肩を押され、熱帯植物のようにけばけばしく口紅を塗りたくった女に左腰をはじかれ、さらに別の人間から腕を引っ張られ周囲に押し潰されるうちに身体がグルグル回転し、自分がいったいどこを向いているのかわからなくなった。どっちでもいい、たどりつけた方に乗って帰ればいい、自分はただ無事に帰ることさえできたらいいのだと、見当をつけず、流されるままどちらかの駅にたどりついた。人波に揉みくちゃに運ばれる最中に一瞬、そのわずかな隙間から、担架に乗せられた女の表情を見ることができた。赤と青が斑に入り混じった複雑な顔色で、目を薄っすら半開きにしていた。この距離ではまさかほんとうに見えるはずなどないのに、女の瞳が外国人のように茶色いことがわかった。
 胸の透くようなエメラルドグリーンのシフォンワンピースに浮かぶ白い花柄が、低く吹き抜ける風に煽られてひたひたと、凝固しはじめて黒く変色してきている血にまみれた腕を撫であげていた。
 ふたりとも死んだにちがいない。と、めまいのように思った。夜光虫のように薄気味悪い終電間際の満員電車に乗り込み、自分の棲む町に近い駅でふらふら降りてコンビニでチャーシュー丼とレッドブルを買い自宅の鍵を開け枕もとの蓮の花型の香立てにホワイトムスクを挿しライターで火を点け肺胞の隅々にまでその清潔な匂いを吸い込みふと枕にてのひらを沿わせるとそれがまるでついさっきまで誰かが寝ていたかのように妙にぬくまっていることに気づき、そういえばわたしはいったいどちらの電車に乗ってここまで帰って来たんだろう。と、思った。

     *

 「里緒音」という名前は勤め先のホテヘル店の事務員・石狩が名づけてくれたもので、ほんとうの名前はもっとすっきりとした字面で読み方も意味もかしこそうで、石狩はずいぶん前に辞めてしまったけれど、里緒音の名前は彼が消えたあともわたしの桃色の仮面として機能し続けている。可愛い雰囲気だからリオネちゃんはどうだろうか、と石狩は提案してきて、ふたりで相談して漢字も決めた。何の思い入れもなく使用していたその名前について、彼は退職の日、じつはあんたに初めて会った面接の日、あんたの見た目がクリオネにとても似ていると思ったんだ。それがずっと頭のなかに引っかかってて、そのクリオネから拝借してリオネという名前を付けたんだよ。と、教えてくれた。面接の待ち合わせ場所に指定した、ホテヘル店舗の近所のラーメン屋の脇で待っていたのは十九歳の、肌の色が薄過ぎて透けてしまいそうな、細身でおっぱいも小さい、それでいて頭でっかちな、まるでクリオネのような女だった。胸に手を重ねてケータイを握り締めていたのですぐに面接希望者だと分かった。と、石狩は笑った。
 わたしもあの日のことはとてもよく憶えている。
 あの日は大阪に来てからちょうど半年の日だった。
 大阪の街は油っぽい。冷房を点けないで網戸で寝ていたら夏の花のかおりに混じって近所の呑み屋やスーパーから焼酎やビール、調味料の臭いが吹き抜けていくし、寝つかれなくて朝刊配達より先にアパートのゴミ捨て場に袋を持って行ったりすると、酔っ払いたちがまるでなめくじのようにねっとりうろついているから、見ていられない。家族全員がものぐさなせいで穴の空いた壁も天井も玄関もほっぽりっぱなし、流れこんでくる雨や泥で座敷の仏壇をどろどろに腐らせたり、捨てきらないズック靴や家電のコード、生ゴミ、古雑誌、濡れたトイレットペーパーなんかが散らかる三重のいなかの路地の家で育ったわたしも、似たようなといえばそうかもしれないのになぜだか大阪には馴染みきれないでいる。
 この街に棲んで初めて就いた職はラブホテルの裏方で、薄暗い受付でエレベーターの昇降管理や会計をたんたんとこなすのは性に合っていたものの、客室風呂のゴムパッキンに付着しているカビや糞便、体液の類を目にすると貧血を起こしてしまい、同僚にも、あんたはすぐ吐くから、と言われて仕事をとりあげられ、むなしくなって辞めてしまった。朝の大阪の油っぽさは、あのホテルのゴムパッキンに付いていたような人体から出るあのねとねとに、もしかしたらよく似ているのかもしれない。
 ラブホテルの裏方を辞めても二十万円ぐらい貯金があったから節約すればとりあえず生活できる状態だったけれど、三重にはもどりたくなかった。貯金ももっともっと欲しかったし、みんなでお酒を飲んでクラブでワイワイやるようなサークルみたいなやつに入ったりして、新しい友達もどっさり欲しかった。将来の目標もあった。
 生活はジメジメと下降し、スーパーに行く以外、アパートにこもってすることといえばパソコンの前で毛布をかぶりいろんな音楽や動画を視聴すること、買い置きのハムやソーセージ、乾麺、チーズ、卵や日持ちのする野菜を使ってなにかカンタンでおいしいものを作ろうと狭い台所で手を動かしてみること、服の組み合わせをあれこれ考えてひとりファッションショーをしてみること、ネットオークションでやりとりすること、宝物にしている本棚の小説のなかから久しぶりに一冊ひらいてみると、不思議なことにそこに書かれている日本語がまったく読めなくなっていて、どうかすると吸い忘れたタバコの先端の長い長い灰のようにボトリ、ボトリと文字がこぼれてカーペットを汚してゆき、自分が小説の言葉をすっかり失くしてしまっていることに気づいたのでぱったりとぜんぶの本を閉じて、代わりに、参加する気も金もないのに株の値動きを観察してみたり、むかし誰かからもらった観葉植物のガジュマルをいかに可愛く撮れるだろうかとカメラに夢中になってみたり、そのうちに二十四時間を持て余しはじめた身体の関節が妙に軋みだして、外の光や景色を見つめるとどうにもかすんで焦点が合わず目の調子が変、筋肉もうまく伸ばすことができない、ゲロ吐きそうだし、なんかいろいろもう無理、と思っていたある日、急に胃を悪くして寝込んでしまった。
 とくに病名の付くものではなかったけれど、医者はおそらく長いこと塞ぎ込んでいたせいだろうと言い、あの、塞ぎ込んでいたわけではないんです、ただ家にいて、とわたしが答えると、若い子は時おり意味のある塞ぎ込み方をするものでそれは別に悪いことじゃない、と、よくわからないことを抜かして何とかいう処方を寄越し、五千円近くもする診察代検査代および薬代を請求してきた。その値段の書かれた領収書を帰りのタクシーの中であらためて透かし眺め、自分の身体と金と生活が何重もの複雑な螺旋階段になっている果てのない光景を想像し、ああ、その長い階段をきちんと降りていかなければなあ、とケータイからバイト情報サイトにアクセスし、病院でもらった薬をぬるいビールで流し込みながら自分に合った労働条件を入力、大量の募集欄をていねいにチェックしていった。
 たまたま見つけたホテルヘルスのキャスト募集に問い合わせたら、ネットで応募をした十五分後に連絡が来て、即面接、即採用となった。関西の各歓楽街に何店舗もデリヘルを構える大手の風俗企業で、言い渡された勤務地は面接の行われた難波ではなく現在もっとも人手の足りない京橋店だった。難波での面接官は京橋店にさっそく行くように命じ、その晩、わたしは大阪に来てから初めてまともに降りる京橋で、事務員の指定したラーメン屋の前を目指した。
 迎えに来てくれた石狩は中性的な美青年だった。きっと二十五、六歳、こざっぱりとした趣味の良い服を着ていた。女以上にきれいな顔とは反対にずいぶん低い声で、わたしの名前を確認した。そのまま彼の後にくっついてホテル街の入り組んだ路地をすすみ、予想していたよりも立派なビルに到着した。嬢によって値段は変わるけれどいちばん安い無印の新人かつ基本のコースで六○分三万円、九○分五万円、高いコースで三○○分二十五万円という、系列の中でも飛び抜けて高級な値段設定だから、この路地ではもっとも基本料金の高いラブホテルの裏に事務所を設置してあるのだと石狩は言った。ロビーは大理石ホールになっていて、奥にはエレベーターが四台も設置されていた。六階に到着すると床は灰色のカーペット敷き、正面のガラス張りの入口扉には品のいいミニマルなフォントで店名のプリントされた看板が掛かっていて、ホテヘル店というよりもネイルサロンかエステのようだった。このすぐ裏手の雑居ビルの三階に姉妹店の事務所があって、そっちは関西の男なら誰でも知っている手頃な値段の有名店だった。ドアの中はすぐに客の待合室と受付になっていた。待合ソファを囲むように白いシルクカーテンが垂らされ、そのカーテンをくぐった向こう側にはオフィスにあるようなドア付きの白いスチールパーテーションが立てられている。パーテーションのドアを開ければ事務所だった。
 石狩だけがドアのなかに半身を入れ、壁に掛けられている鍵を取った。七階に連れて行かれる。七階の二部屋を店が借り上げて宿直室とスタジオにしているのだと石狩は言った。わたしはスタジオに案内された。
 間取りは2LDKでバーカウンター付きのオープンキッチン。フローリングにはサモエドのような毛足の長いふかふかの白絨毯がたっぷりと敷かれ、天井からは真新しい白のバックスクリーンが垂れさがっていた。傘レフもあった。そのほかの機材もどこから調達してきたのかそれなりの仕様で、中央には黒い蔓模様のベッド、金の刺繍のクッション、サイドチェストを引いてみればエッチなおもちゃが、おとなしい女の子が畳んだ下着のようにきっちりと収納されていた。もうひとつの部屋は赤い絨毯に赤いバックスクリーン、ガラスのテーブル、黒い檻の柵がついたてのように立てられて、鎖や手錠やロープ、ギグなど拘束具の用意もしてあった。ネットで下調べしていた安価なホテヘル店のキャストのプロフィール写真は小学校の机やアットホームなソファ、天蓋付きのメルヘンなベッド、造花や風船といった子どもっぽいセットで撮られていることが多かったから、まるでホテヘル店でないどこかに来てしまったかのような緊張をおぼえた。
 戦意喪失した野生動物みたいだ、と石狩はわたしを見て微笑った。わたしの履歴書は石狩に回収され、免許証は持っていないのでスタジオにある立派なコピー機で保険証をコピーされ、ざっと目を通した石狩はあらためてわたしを見、姉妹店のほうは容姿が合格ならそれで採用なんだけどこっちはいちおう金額が高いこともあって経歴学歴、将来性、ちゃんと見るから。確認だけど特にうしろめたいこともないね? と訊いた。わたしは頷いた。モデルとかタレント系のスカウトの経験は? ないです。前はラブホテルのスタッフをやってたん? はい。じゃあホテヘルとかの後始末も毎日やってたでしょ。そうですね。じゃ、いろいろわかるね。
 ふだんなにも塗らない指先に前の晩にジェルネイルを施していた。透明な桜色のグラデーションに控えめのストーンが一粒、二粒。服装は自分の持っているものでいちばん大人っぽい、水商売女のオフ風に見えるさらりとした白色ロンTワンピに、スモーキーピンクのロング丈サマーカーディガン。梅雨で蒸し蒸ししていたけれど、素脚じゃなくて極薄のストッキングを履いてきて正解だった。髪染めとらんの? と石狩はタバコに火を点けながら履歴書とわたしを交互に見た。はい、いま髪いじるお金とかないんで。差し出された灰皿の縁をわたしは手で撫でた。わたしはタバコは吸わない。ちょっと茶色くした方がいいかもね、髪、パーマもかけたらいい。と、石狩はまた微笑った。ジュノンだか明星だか、そのテのやつから毎年いつのまにかポコポコ生えてきてテレビ画面や映画のスクリーンを可能な限り浸食するタイプの若手俳優、わたしより少し年上の女世代に人気のあるナントカカントカに彼がとてもよく似ているとふと思ったけれどその名前がどうしても出てきてくれなくて咽喉の奥がたまらなくむず痒くなった。
 石狩から目標金額・性癖・可能プレイ一覧チェック表・客向けプロフィールなどが一枚にまとめられた用紙を渡されたので記入した。できました、と提出すると石狩がものすごい速さでチェックした。即尺とSMプレイとAFの欄にOKの丸が付いとるけど、これ大丈夫? ってか意味、わかってる? わたしはラブホテルの裏方時代、同僚全員から、あんたそれしたらほんとうにアタマの弱い子に見えるからやめな、と何度もきつく言われているのにどうしても治らなかったへらっとした笑いを浮かべてしまう。はい、大丈夫です、と頷く。
 なぜ応募したのかという石狩の問いには、癖のへらへら笑いを挽回しようと気合を入れ、これまででもっとも明瞭な声で、生活苦です、と答えた。
 わたし、いなかから出てきて、ほんとうに何にもないスゴイいなかで、友達とかもできないぐらい人の数もすくなくって、それでこっちに来てバイトもしたんですけどそれでもだめで、将来は小説家になりたいから大学に行きたいんです。そのお金も欲しいんです。わたしは言った。小説家。石狩は復唱した。
 そういうの変ですか? わたしはまた、へらりとやってしまう。
 石狩はいや、いや、と手を振る。ここのホテヘルで稼ぐ理由は七割の嬢がホスト代や借金で、目標金額も六百万ぐらいは軽く設定している。小説家なんて言葉をこんなところで聞くとは思わなかった、と言った。わたしの目標金額は大学の入学金と二年分の学費・それから何より生活費、あわせてひとまず三百万円だった。目標ひくいね、と石狩はわたしの下手糞な字を撫でた。
 そのあとは服を脱いでプロフィール写真の撮影に入った。長いこと新しい下着を買っていないのでお気に入りのものだったけれどブラジャーの布地がどろどろに溶けているのでそれを石狩に見られるのが羞ずかしかった。わたしの書いたプロフィールと容姿から〈知的な華奢マゾ女〉というキャラクターが作り上げられ、それに沿った撮影がされた。デジタル一眼も石狩がかまえた。どこかで写真を本式に学んでいたわけではなく、ここで三年前に働きはじめたときに初めてカメラを手にして、いまではこの作業にいちばん魅力を感じるという。女の子の身体を好きなようにできるから、と石狩は真剣にファインダーを覗き込み、写真は部屋の隅にあるパソコンに取り込まれすぐに編集作業へと移った。デスクの脇にはCDラックがあってそこにはわたしもよく聴いているDJのミックステープがあったので心の底から嬉しくなりそれは私物ですか、と横から話しかけたわたしに石狩はほんとうに驚いた顔をしてまさかこんなものを知っている子とこんなところで出会うなんて、というプライベートな笑みをまるでまばたきのように一瞬、見せた。
 サイトへのアップロードを済ませている間じゅう部屋のなかをぐるぐる見て回るわたしに石狩は、こういうのはぜんぶ、小説を書く参考になるの? と訊ねた。すこし考えて、わたしは浅く頷いた。ところでなんでラブホテルは辞めちゃったの? 石狩はつづけて質問する。あの、そうですね、人の体液とか部屋のカビとかを掃除するのができなかったんです、どうしても無理で、手で触れなくて、それで辞めました。石狩は顔をくもらせた。えっ、じゃあ風俗あかんやん、他人の体液まみれになるよ、もっと汚いモンも、触ることになるよ。
 はい、だからリベンジなんです。これでだめだったら大阪に負ける気がして悔しいんです。今回はだいじょうぶだと、思うんです。
 結局初日は店出しまでじっくり二時間ほどかかり、「里緒音」はピカピカに完成して、サイトへのアップロードも済み、無事わたしの画像の上には「受付中」のピンク色の文字が点灯した。すでに働いている先輩嬢たちの写真と並ぶと、自分の容姿が芋虫そっくりの醜い生き物に見えてすこし泣きたくなった。出勤ブログも書かされた。嬢の待機室に通された。予約が来たらケータイにコールするからと言って、石狩は別の仕事があるのかわたしを置いて事務所へと消えてしまいそれからわたしは体験入店で四人の相手をつとめトラブルも何もなかったのでそのまま本決まりとなった。
 はじめは週に三日・五時間の出勤希望だったのに、しだいに昼から夜の十一時前後まで待機室で過ごすことも増えていった。終電から明け方の日もあった。風俗でのバイトは初めてなのでよそがどうなのかは知らないけれど、ここではあんまり嬢同士がグループを作ってにぎやかになることがなく、わたしは気さくな事務員たちとの距離の方が近くて、慣れるうちに石狩以外のスタッフたちともよくしゃべるようになった。
 事務には石狩のほかに、鱧野悠という二十二歳の現役大学生の男と、電話番をしている産砂沙織という女の社員がいて、彼らの上に副店長の新谷春木という三十半ばの男がいたけれど、新谷は親しみやすい言動と明るい表情とは裏腹に、とてもよく光る蛇のような黒く粘っこいオーラが見えて、正直あんまりお近づきになりたくなかったから、給料の受け取り以外には顔を合わせないようにした。仕事後には産砂と食事をしたり、鱧野行きつけのクラブイベントに連れていってもらったり、石狩が休みの日には、彼が常連だという梅田のバーに付き合わされて翌日の午後までベタベタに呑み潰れたりもした。
 昼勤の日はいつも終電より一、二本前の電車で帰宅、コンビニのケーキなどで適当にお腹をふくらませて寝て、翌朝起きてケータイを開けば今日は何人のお客さんが入りました、という石狩や鱧野からのメールが届いているのでそれをチェックする。それから出勤。午前中だというのにいじましく湿った京橋の裏路地を通り抜け、店に到着して事務所にあいさつして、ローション・ストップウォッチ・うがい薬・コンドームの入っている黒いトートバッグを受け取り待機室へと移動する。待機室の隅にあるお気に入りの桃色のどでかいカウチは昼勤からだとまだ空いている。左手でケータイを、右手でスプーンを持ち、テイクアウトの生臭い牛丼に事務室の冷蔵庫にあるポン酢をぶっかけて掻き込み、ふとももの上に駅の本屋で買ってきたコンクリートブロックのようにぶ厚い少女漫画雑誌を広げる。頭をパーにしたいから、待機室では小説は読まない。ひたすらケータイが鳴るのを待つ。いつ呼び出されてもいいように、一時間に一度ぐらいのペースで適度に化粧直しをする。待機している嬢たちは薄い薄い羊膜のような間仕切りをそれぞれ身体から放出して、その膜がそれぞれの存在を護っている。着信があったら事務所に飛んでいく。客の待合室の防犯カメラをチェックさせられ、知り合いではないことを確認させられる。わたしはべつに知り合いであってもいいと思う。オーケーを出したら石狩か鱧野からホテル代の入った透明ポーチを受け取る。そのあと黒服にわたしの身体が引き渡され、客と対面し、エレベーターまで黒服とわたしと客の三人で珍妙な短い散歩をする。そこからはふたりきりでホテルまで歩く。
 一年勤め、大学の入学金と一年目の学費を手に入れることができて、その仕事ももう辞めてしまおうとなんとなく思いはじめたのは、直接的にではないにしろ産砂と鱧野が同時にひどい鬱病に罹ってしまったらしいことにも原因があったのかもしれない。
 最初に鬱だとわたしに告白してきたのは産砂だった。昼シフトで勤めている産砂がむかしこの店で嬢として働いていた過去があることを、わたしはいつのまにか知った。おばさんだから辞めちゃった、と産砂は周りに笑って言っていたらしいけれど、わたしと七歳しかちがわない彼女が現役を辞めて裏方に移ったのはそんな理由ではなくて、精神的にまいってしまったからなんじゃないかと思った。この職場を離れればさっぱりするのかもしれないのに、別の場所で働けず、この業界の粘っこい網の目に自ら囚われつづけているというのは、きっと産砂がほんとうに心の弱い人間だからなのかもしれない。
 産砂は神経質で生まれつき真面目な女らしかった。事務所に行った時、ときどき耳に入る彼女の客との電話は温めたハチミツのような甘い声で、あまり人気の出ない地味な嬢をまるでこの店いちばんの売れっ子みたいに飾り立て、さらさらと予約を処理していく。わたしが彼女のキャスト経歴を知っているという空気が向こうに伝わると、彼女が現役時代に金を継ぎ込んでいたホストが経営しているという北新地のダイニングバーへ、食事の連れとしてしょっちゅう連れていってくれるようになった。
 こんなこと、里緒音ちゃんやから言えるねんけど。薄緑を帯びた金色のシャンパングラスに痩せたくちびるを押しあてて、さいきん店に行くのがつらい、と、産砂はこぼした。産砂は先週入店したひとりの新人の名前を口にした。うちが働いていた時にそっくりな子やねん、あの子を見とるとむかしの自分を思い出してもうて、無理やねん。つらい。そう言って産砂は豆のサラダとアロエの刺身に静かに箸を伸ばして話をつづけた。その新人の登録用紙を見て唖然とした、出身地も通っていた中学高校も、目標金額も同じで、客に店頭で見せる自己紹介文もまるでカンニングしたかのように一緒、なんと希望の源氏名まで一緒だったという。
 そこまでおそろいとくればもちろん驚くのはわかるけれど、果たしてそこまで気になってしまうものなんだろうか。わたしはその時、レモン入りのジンを舐めていた。そう言われてみればあの嬢は自分も待機室で何度か見かけた。髪の色やパーマの具合、服の趣味や面立ちもそこはかとなく産砂と通じるものがあるかもしれないなあと思い、思い出すのはやっぱり辛いですか、としか訊ねようのない顔をしているわたしを産砂はのっそりと湿った瞳で見つめかえし、だけどそのことがいちばんの原因というわけではなくって、それ以外にもイヤだと思うことがいっぺんに重なって近頃は仕事に行くのがしんどくてたまらない、心療内科でもらっている薬もあまり効かないから近いうちに辞めるかもしれない、とだらだら話した。
 その一週間後、産砂が自宅のマンションで大量の刺身醤油を一気飲みして自殺を図ったとの情報が石狩を通してわたしにも伝えられ、彼女は泡のように店から消えてしまった。新谷は産砂の自殺未遂についてとくに語らず、なにもかもを淡々と処理した。
 鱧野が退職したのは産砂が消えたその月、彼が三度目の留年が決まってとうとう学費を払えなくなり大学を中退することにしたというので、以前から新谷の勧めていた正社員契約に取りかかろうとしていたところだった。石狩から聞いたところによると、産砂が刺身醤油を飲んだという報せを新谷から受けた時、鱧野は真っ青になってくちびるをすぼめ、ふるえていたという。その翌日鱧野は無断欠勤をした。嬢たちにも鱧野の噂はまるで粘菌のようにすぐに広まった。近況を話すぐらいには親しい嬢に遠回しに訊ねてみると、あんた知らんかったん、ハモッさん産砂さんと恋人やったんよ。と、いままでまったく気づかなかった事実を告げられ、いちおうほかの嬢にもそのことを確かめてみると、いや違う、ハモッさんは仄華ちゃんと付き合っているのだと、サイトのトップページにも写真を載せている五つ星の看板娘の名前を出され、ハモッさんエエ人やけど店の女の子とそういう関係なんていつか店長からお咎めが来ると思う、産砂さんとも付き合っとったんならそれが彼女にばれたんちゃう? ああこわ。とニタニタして、わたしの頭のなかでいろんなウワサがぜんぜん点を結ばないいびつな線でこんがらがり、どうしたものかと考え込んでいるうちに鱧野の欠勤は一週間以上におよび、不審に思ったわたしが石狩に訊くと、あいつは辞めた、とさっぱり言うのだった。鬱病らしい、と石狩は付け足して、こういう業界ではなにも珍しいことじゃないとくるりと仕事に戻った。一度にふたりも事務員が辞めてしまったけれど、その頃には新しい事務員がふたり入ってきていたので、とくべつ仕事に支障が出ることはなかったようだった。
 そしてその一ヶ月後に、石狩までなんの前触れもなく辞めてしまった。
 石狩のプライベートの連絡先をわたしは知らなかった。
 自分もこの仕事を辞めよう、とわたしがぼんやり思い立ったのは、梅雨に入りたての蒸し暑く重い雨が降る朝だった。夢をみた。果物が腐ってゆく様子を定点カメラで何ヶ月もひたすら見つめつづけているという夢だった。鮮やかさを失ってずぶずぶと腐りくずれ、それまで果肉内をたっぷり満たしていた水分が滲み出て辺りに濁った水たまりをつくり、その水たまりに白いカビが生まれて、痩せちぢんだ果物を菌がみるみる呑み込んでいく。
 ハッ、と烈しい雨音で目が覚めて狭いベランダを見ると、寝る前に洗って干した下着がいまにもすっ飛んでいってしまいそうな大嵐が来ていた。水をやらなくても光を当てなくても枯れないと言われたあの可愛いガジュマルの木が干乾びて完全に死んでいた。
 すいません、お仕事やめたいです、と新谷にメールをしたらすぐに返信がきた。お客さんからなにかイヤなことをされたのでしょうか? 気づくことができずに大変申し訳ないです。どうしてもというなら引き留めはしないがあなたの目標金額を達成するまであともうすこしじゃないでしょうか、お金を溜めて集中して勉強がしたいというあなたの事情も知っているからなんとか上手いく方法がないか一緒に考えてみましょう、と書かれていた。それを読んだとたん、ただただぜんぶがめんどうくさくなって、ひとまず新谷の言うように辞めるのは保留にしてあらためて彼と直接話そうとおとなしく出勤した。
 京橋駅前での男女の刺殺事件を目撃したのはそのやる気なく出勤した日、JR環状線京橋駅の西口から店に向かう途中のことだった。

     **

 事件を見た二日後の正午に出勤した。シルクカーテンの向こうにある待合室にはひとりも客がないらしく、事務所の隅で黒服が中華弁当を掻き込んでおり、新谷と新人の事務員がパソコンの前でコーヒーを飲みタバコをふかしていた。黒服の会釈に迎えられてわたしはパイプ椅子に腰を下ろした。おはようさん、と新谷がコーヒーを渡してくれた。
 新谷の隣で嬢たちへの連絡メールをカチカチ打っている新人はまだ入って一ヶ月も経っていないソバカスの男で、わたしをちょっと見ただけで、あいさつもなくて、手首に何重にも巻いた天然石の数珠をじゃらじゃらさせて作業をつづけた。スラックスにタバコの灰をこぼしているのに気がついていない。きっとこいつは新人の面接や電話対応なんかの重要な仕事はしばらくやらせてもらえないだろうな。そのふてぶてしい様子を見て、新谷にもらったコーヒーをひと息に飲み干した。事務所には中華弁当の甘辛いタレやニンニクの生温かい臭いがのどかに充満していた。お腹が鳴った。コーヒーのせいで胃が痛んだ。
 音量が大きすぎるためにひどい音割れをしている有線からいま一番流行しているラブソングが流れ、サビの女声がまるで断末魔のように裏返った時、新谷がこっちを向いて、里緒音ちゃんの遭遇したあの事件、二日も保たずに騒がれなくなったな、と笑った。
 とにかくまあアッチもコッチも、国中物騒やわな。二○一一年はイイ年、なんて正月番組の能天気っぷりが懐かしいよなあ。景気も見込みねえよ、まったくよォ。新谷は眉を動かして言う。あの晩、夢とうつつをさまようにふらふらと帰宅したわたしは、翌日の昼過ぎまで腐った泥のように眠りつづけた。ようやく起きてパソコンを開き、SNSを巡回して、野次馬たちが撮った現場の血だまり写真を確認したけれどその頃にはすでに事件の情報はそのほかのニュースに押し流されつつあった。ニュースサイトにも事件の様子はほとんど載っていなくて、わたしが見たその時にはもう祭りも騒ぎも終息していた。まあほかの事件に較べりゃあなあ、こんな大阪京橋の小ッこいトコで起こった刃傷沙汰なんてそう珍しいことでもなし、みんなすぐに忘れるわな、と新谷は言い、ちょうど鳴った電話を取った。
 新谷が電話口でわたしの名前を出した。わたしは自分の予約がきたことを悟った。このあと準備ができたらすぐ一二○分のコース、常連客だと、電話を切った新谷は言った。今日が水曜日であることを憶い出したわたしはその客が兎川だと一瞬で理解する。
 兎川は、関西を中心に展開する有名予備校の現代文の講師だった。フルネームは兎川・チャールズ・リデル・怜、父親が日本人、母親がイギリス人の、四十歳独身、白のマオカラーシャツとボルドーの色付き丸眼鏡をトレードマークとしてほぼ毎日昼から晩まで講座をもつほどの人気があり、なるほど口をきいてみればそのやわらかながら陰圧的な表情と、細い八の字眉に斜視気味な光のない瞳、フランス語のように日本語をなめらかに操って、まるで物語を紡ぐように受験用の現代思想キーワードを散りばめて会話する彼の優雅さに、若い女ならすぐ恋に落ちてしまうんだろう。兎川も兎川で自分の立ち居振る舞いはよく心得ているから、相手にするのも感覚の鋭い女のほうがいい。ギャルは好まないけれどあまりに素人臭くても自分の生徒を思い出すから不快、ほどよく手入れされた性格も体格も派手過ぎない二十歳前後の女を、という初回時のリクエストにわたしが紹介されて以来、ずっとリピートしてくれていた。飛田は好きじゃないし雄琴は遠過ぎる、十三や三宮では教え子に見られる可能性が高い、ほかに近隣で風俗を巡るようなことはせずに、一度しっくり来たら店は変えないとは聞いていて、兎川の性欲処理のペースはだいたい一週間に一度。八時からの講座が一本しかない水曜日ばかりで、わたしを使うためにわざわざ自宅のある豊中からJRで京橋までやって来て、プレイが終了すればJRと阪急で一時間もかけて西ノ宮へと出勤していく。昼間であれば店頭受付した方がトータル料金は安くつくけれど、時間と体力を節約したい兎川は先にホテルに入室し、そこから電話を掛けてくる。兎川が入るホテルはこの店が提携しているホテル五店のうちのひとつ「プラージュ」と決まっていて、その中でもひのき風呂のある清潔な和室が空いていれば、必ずそこへ入っていた。
 到着したわたしがノックすると兎川がゆっくりとドアに近づいて来る気配がした。ノブがまわる。こんにちは、と、一週間ぶりの兎川が光のまったく射さない瞳で微笑みかけてきた。
 わたしが待機室で化粧を直し汗まみれの下着を取り替えて準備を済ませているあいだ、ホテルで待っていた兎川はロウテーブルで読書をしていたらしく、揉み消されたタバコが四本転がっている灰皿のそばに、文庫本が一冊ページを開いたまま伏せられていた。カバーが剥ぎ取られているので近眼のわたしにはタイトルを確かめられない。以前わたしにも予備校の授業でやっているような話をしてほしいとねだったことがあるけれど、僕の現代文の講座なんて猫ダマシのようなものだからと取り合ってくれなかった。ほとんど言葉を交わさないまま服を脱がせあって浴室へと移動した。兎川はわたしがバックストラップの凝った黒いレースのブラジャーを付けているととても悦ぶ。刺青の女郎蜘蛛を背負っているみたいだ、と、光のない斜視に鋭い精気を宿らせる。フロントホックの前だけ開け、半脱ぎのままわたしが腰を振れば、兎川は満足げに身体を圧し付けてくる。わたしがベッドに仰向けになる。鎖骨と首の上に兎川がまたがる。勃起した自分の性器に手を添えた兎川はわたしの顎に石鹸の匂うなまあたたかな陰嚢を当てながら尖端をむりやり口の中へと押し込む。首を絞められているのでくちびるが上手に性器を咥えていられない。何度もむせてよだれを吐いた。鼻やまぶたまで体液まみれになっていく。わたしは自分の顔が異様に醜くゆがむのを感じ、それを眼下におさめてゾクゾクと衝き上がってくる愉悦に顔を弛緩させている兎川の剥き出しの尻に手を這わせてヘルプを求めたけれどなにも応えてくれない。だんだんと動きを速め、腰を浮かせて咽喉の奥まで性器を突っ込みわたしの顔なんかまるでどうでもよいかのように胴体で押し潰してきてそのまま兎川は一度目の射精をした。二度目はおたがい我慢汁を垂らし過ぎてメレンゲのように白く泡立った性器を二十分ほど擦り合わせたあとのゴム膣出しだった。兎川はわたしの身体を隅から隅まで、まるで形を盗るかのようになぞり、触っていく。兎川はビクビクと両肩をふるわせてコーヒーにフレッシュが混ざるようなゆっくりとつよい射精しながら芯のとおった美しい声で、愛してる、とささやいた。
 兎川を店の前まで手を振って見送り、事務所に戻った。退勤時間は決めていなかったけれど、相手が兎川だったので気持よく仕事が済み、今日はもうほかのよくわからない客の性器に触りたいと思えなかった。気分が悪いので早上がりしたいと新谷に伝えた。日払いの給料を受け取った。新谷はパソコン机の足もとに潜って小さな金庫を取り出し、そこから札を抜いてわたしに渡した。肌に心地よいそのピン札を、つばをつけた指で一枚一枚まくる自分を姿見越しに眺めた。頭の片隅にある銀行口座の残高の記憶も引っ張り出してきてこのあとミナミにまで足を伸ばし新しい指輪かワンピースを買うかどうか考えた。新谷が気怠げにマウスを動かしている。長年取り換えていないためにマウスは黄色く変色していた。黒服が棚のカゴから使用済みのローションを何本か取り出し、流し台に並べ置いて、鼻歌をうたいながらスポンジと洗剤でボトルの表面をひとつひとつ洗浄しはじめた。
 ステンレスをうつ水の音。
 結局、辞める話をする体力は残っていなかった。こんな時、新谷じゃなくて石狩であれば、きっと驚くほど気楽に退職の相談ができるにちがいなかった。それじゃもう行きます、とパーテーションのドアノブに手を掛けた。肩と首で受話器を挟んだまま新谷はわたしに手を振った。事務所を出ると、床に設置されている来客用のブザーがやかましく鳴った。エレベーターが開いた。ワキガのサラリーマンがネクタイをゆるめながら乗っていた。わたしを見るとギョッとして、顔を伏せて店内に駆け込んで行った。鉛筆の芯のような残り香のむさくるしいエレベーターに乗って、ビルを出た。ラブホテルの密集する細かな路地をよくよく見やれば、自分と同じ風俗嬢と思しき黒いトートバッグを手にした女たちが、電柱に生えたコケのように、いたるところに見え隠れしている。
 太陽がグランシャトーの先端に引っかかっていた。その斜陽をまともにかぶって菊がひと鉢立ち枯れていた。その横を通り過ぎる瞬間、死なせてしまったガジュマルの二代目に何を育てようか、もっと瑞々しい、梅雨明けにまぶしく眺められるようなものにしよう。思いつくかぎりの植物のイメージを浮かべながら、JRのキップを買って難波へと向かった。
 座席にもたれていたら、窓ガラスに映る自分の顔がふいに石狩に見えた。
 石狩がわたしのことを里緒音、と呼ぶ声がきこえた。辞めていく彼がわたしに最後の言葉として、わたしがクリオネのように見えていたと話してくれたあの日、わたしは市立図書館でクリオネの載っている本を探しまわったのだった。凍るほど冷たい海に棲息し、雌雄同体の生き物で、精子と卵子をひとつの身体で製造するということ。繁殖のためには二つの個体がオスとメスの役割を演じ、胸に生えた繁殖器官を踊るように重ね合わせ、交尾をする。交尾のあとにはぷるぷるしたゼリー状の卵のかたまりを放出する。三千個もの幼生がうまれてくる。クリオネという奇妙な名前はギリシャ神話のクレイオーが由来で、クレイオーは文芸を司るムーサイの一柱であるということ。あの不格好な半透明の頭のなかには、英雄詩と歴史が豊かにおさめられているということ。クレイオーは美の女神アフロディーテに対して「女神のくせに人間に恋をした」と嘲笑し、怒ったアフロディーテに呪いをかけられ、自らも人間に恋をしてしまう運命を背負わされてしまうということ。それから、クレイオーという言葉には祝福する女、という意味もあるのだということ。
 天王寺で乗り換えミナミへと下る電車にぽつぽつと細かな滴の線が走りはじめた。難波駅のキオスクで傘を買ってから地上に昇ると、アスファルトから白煙のような霧が立っていた。豪雨だった。バッグをぐるりと前に回して抱え込み、ビニル傘を差してアメリカ村方面へと駆け出した。雨が汗ばんだ肌にはねてすぐにずぶ濡れになった。交叉点でトラックや乗用車が深海魚のようなライトの光を錯綜させていた。ぶ厚い鉄色の雨雲の下には豪雨から逃げまどう人影があるけれど、どの人間もその胸から上が霧でけぶっているために一切の表情がわからず、いつかに見たことがあったような気のする夢のなかの、影だけがやたら巨きく伸びる黄昏た町、そこですれちがう通行人たちの顔を確かめようとしたのになぜだかどうしても見ることができなかった、あのうそ寒い感触をふいに憶い出してたちまち全身に鳥肌が立った。冷たい足もとが一気に頼りなくなり、走る速度が上がった。周囲の人間の顔がよく見えないのはめやにが付着しているせいかもしれないとまぶたを擦ってみても、見上げても見上げても、やっぱり誰の表情も確かめられない。雨の中ですっかり無防備になってしまっていたせいで、もしかすると自分はいま、過去の夢のなかにいつのまにか迷い込んでしまっているのかもしれない。
 だんだん闇の濃くなる街に細い悲鳴を吐き出して、もう何も見ずにカンだけで路地を突っ走りアメリカ村の西の隅、地下に看板を出している、行きつけのセレクトショップにぶわっと飛び込んだ。肩をこわばらせて魚のように全身から水を滴らせているわたしのすがたに、ひとり検品をしていた店長はびっくりして、ちょっとあんたとんでもない顔して、まさか幽霊か殺人鬼に追いかけられでもしたんかいな、と大笑いした。

     ***

 いなたく甘い太陽の匂いをたっぷり吸った枕の向こう側で、きのうから親友になったアクアプランツのネジレモが、明るい真緑のそのねじれにまぶしい気泡をいくつもまとってガラス壜のなかですらりと伸びていた。まるで電源さえあれば永久に回転しつづけるスパイラル型のテーブルモビールのような、遺伝子モデルのような、あるいは幼い頃に町角でよく見かけた散髪屋の棒看板に似たネジレモの生えすがたは、停止した水のなかにいるはずなのにつねにクルクルと運動しているような錯覚を見る者に引き起こして、二日酔いのめまいがよけいにひどくなるようだった。パイル地のかけぶとんをわたしは頭まで引っ張り上げた。
 ゆうべは歯も磨かずにふとんに倒れ込んだから、舌に焼酎臭い粘膜がべっとりと付着していて、それを前歯でこすり落そうと思ったら前頭部ににぶい痛みが走った。深呼吸をしながらわたしはもう一度目をあけ、ゆっくりと首をほぐし、午前中らしいまろやかな光で満たされている部屋のなかを見渡した。ふとんから伸ばした手に、パソコンや周辺機器から生えている冷たいケーブルが触った。ネジレモのガラス壜のまるい胴体に映り込む陽光が時間ごとにわずかずつ位置を変えてゆくのを薄目で眺めているうちにわたしの意識はゆらゆらと二度寝の糸に絡め取られていった。
 つぎにきちんと覚醒したのは夕方の六時前で、部屋の隅でほこりをかぶっていたカップ麺を拾い上げて湯を注ぎ、食べ、足の指をマッサージしながらパソコンを立ちあげ、床に転がっていた適当な映画のDVDを挿し込んだ。
 ネジレモは、きのう飛び込んだセレクトショップから歩いて十五分ほどの所にある堀江の家具屋で買った。みょうに凝った家具屋だった。店の奥に水棲植物コーナーが広く設けてあって、ガラス壜に入れられた何十種類もの藻や水草がタモ材の棚に隙間なく並べられていた。やわらかな色の電灯の下で静かに呼吸する生物家具が物珍しいのか、たくさんの客が見入っていた。
 水草たちは、サウルルス、ウォーターマッシュルーム、パールグラス、リシマキア、パンタナルヘミグラフィス、アンブリア、ハイグロフィラバルサミカ、グロッソスティグマ、サルビニアと、耳の裏でせせらぎが鳴るかのように涼しげな名前をつけられていた。それらを見較べて、これください、と壜を指差して店員を呼ぶ客たちの表情は、まるで夜店で掬った金魚の袋を嬉しそうに抱える子供みたいで、わたしもあのガジュマルの二代目観葉植物にどうしてもひとつ欲しくなった。ひととおり眺めていちばん気に入ったのが細い螺旋状に葉を巻いているネジレモだった。ネジレモのなかでもとくに生命力の強そうな株を選びぬき、左手にはセレクトショップで手に入れた金木犀をモチーフにした華奢な金のリング、そして右手に美しいネジレモを持って、跳ねるような心地で帰路についた。その頃には雨も上がっていた。とても良い気分だったので寝酒というには多過ぎる量を呑み、左の薬指に装着した指輪をさんざん眺め、いつのまにか眠ってしまっていた。
 薄い壁のせいで、隣室の声が丸聞こえだった。大音量でバラエティ番組を垂れ流しながら、強烈に嘔吐する声がきこえてきた。頭のおかしい女のゲロ音というのは、車のゴムタイヤがアスファルトで引き攣れた時と似た音がする。映画のボリュームをグイグイ上げて座椅子にぐったりもたれこんだ。隣の女は過食嘔吐症なのか呑み過ぎなのかいつも吐いている。どろどろの女が液体を必死に吐き出しているすがたを想像するうちに胃のあたりが妙にむず痒くなってきたので、もそもそと四つん這いで座椅子を離れ、麦焼酎を冷蔵庫にあったウーロン茶で割り、残っていた大根をすりおろして醤油を垂らし、カイワレと紫蘇を散らしてつまんだ。醤油の味はどうしても、自殺未遂した産砂のことを憶い出させた。
 ずるずると大根おろしをすすっている最中、跳ね散らかしたタオルケットの下からくぐもった震動が伝わってきた。一度登録しただけの珍しい名前が着信画面に表示されている。
 もう半年以上も顔を合わせていないその人が果たしていまどんな格好をしているのかはわからないけれど、電話越しの声を耳にしたとたん、わたしのかすんだ記憶の中からチェ・ゲバラのような濃く硬いヒゲをした、勇ましいすがたで飛び出してきた。
 ごぶさたのあいさつもそこそこに、とつぜん、馴染みの小さなクラブ・バーでベースミュージックメインのパーティをこれから定期で開催したいのだが人手が足りないのでキャッシャーをやってくれないだろうか、もしフォトショップなどの技術を持っていればぜひフライヤー作りにも協力してほしい、打ち合わせというか詳細だけでも聞いてほしいのでぜひとも近々会ってもらえないか、とゲバラは言った。
 ゲバラはもともと石狩が紹介してくれた男だった。石狩が大学時代に所属していたサークル・電子音楽研究会の友達で、学科も同じだったので腐れ縁なのだと言っていた。石狩とわたしが仕事後によく遊んでいた頃に、石狩が彼を呼びつけて意気投合し翌日の昼まで呑んでいたことがあった。
 どうして一、二度しか会ったことのないわたしなんかに連絡をよこしたんですか。働きアリの数より女友達が多いと言っていたのに、なんでわたしなんでしょうか。わたしは座椅子から立ち上がり、皿にこびり付いている大根おろしの粒やカイワレの葉片をじっくり洗い落とす。ゲバラは受話器が砂嵐のように鳴るほど大笑いした。きのうケータイを機種変更した。アドレス帳を整理して懐かしい思いにひたりながらパーティの企画を手伝ってくれる人間を探していた。アドレス帳には名前やメールアドレスを見ても顔さえ憶い出せない奴らばかりで、五十音順の最後の方はもう適当にスクロールして眺めていた。ところが「里緒音」という名前に目がとまった。石狩を交えて遊んだだけなのに不思議と顔が鮮やかに浮かび上がってくる。それで嬉しくなって連絡したら繋がった。
 それに「ラ行」の名前の女は知っているかぎり全員情が深いんや、リエコもリナも、レミもルリカもみんなエエ女やったんやで、俺のいまの女も「ラ行」の女なんだよ。と、ゲバラは言った。
 本名は「ラ行」じゃないんですけど、という言葉は飲み込んで、ゲバラの企画の話にわたしは、面白そうなお誘いですが生まれつき陰気だからそういう活発な場所で何かをお手伝いするのは不向きだと思います、と答えた。なんや前に会うた時には全然そないな風には見えんかったけど、何があってどう陰気なん、たとえばお前はいままでどんな仕事して食ってきたんや、と訊いてくるので、ラブホとフーゾク。と、正直に言った。
 アホな奴ッちゃなあ! そんなローカルでコミューン臭いもんでばっかし働きやがって、オモテの権力に反発してヤミに棲んだところでほんまはぜんぶオモテの奴らに支配されてるねんど、フーゾクでフーテン気取って社会否定したつもりになっても、結局はそれでヤミが自滅してしまうのをオモテが手ぐすね引いて待っとるんやって、いくらヤミがシマを拡げたところで最後はオモテにぜんぶ回収されてしまうんやって、とゲバラはいきなり熱弁をはじめ、しまった、そういえばこいつはしゃべり出すと止まらない癖があった、とわたしは憶い出し、ちょっと、なんか話めっちゃむずかしくて意味わかんないし、とあわてて制止して、あのね、そんな力んだことなんてしてないの、ゆるく生きてんの、ゆるく生きるのなんてもう時代遅れなんだろうけど、わたしは、あらゆる秩序が自生してくるのを日々寝て食って待ってるわけ。わたしはゲバラに向かってくちびるをとがらせた。
 ゲバラは納得がいったのかどうか、まあせやなあ、こんな時代は好きな主義にパラサイトして生きるのがいちばん賢いわ、正しさなんてない時代なんやから、根本の思想はジョイントみたいに取り換え可能にしてその時々によってクルクル変えてさ、そこへたとえばキョーサン主義の上澄みのエエとこだけをフレーバーで詰めて、資本主義のフレーバーも少しまぶして、スパーッと吸って、気持よくなってさ。と、なにやら深く頷き、ともかく、久々にお前と会いたくなったなあ、俺の会社の同僚なんかべちゃべちゃに腐った奴らばっかりでさ、まともな人間としゃべりたい思とったんや、俺の社宅の近所にウマい焼き鳥を一本五十円で食わす店があってさ、上等のマッコリもモツ煮も焼肉も食わすんだよ、小汚い縄のれんやけどエエ店で、一度そこで呑もうや、奢るわ、とゲバラは一気に約束をつけてきて、どうやら彼と三日後に会うことになったらしい。
 電話の最後に石狩のことを訊ねると、ああ、元気にしとるよ。俺もたまにしか遊ばんけど、あいつはいま家に引きこもりっきりらしいわ。もう若ないのになあ。ゲバラは笑った。三日後は石狩も呼んでほしいと頼んだけれど、最近はメールをしてもなかなか連絡がつかないのだと断られた。
 思いもよらない長電話のせいでヤケドしそうに熱を帯びてしまったケータイを、網戸から入る冷たい風になぶられてひやりとしているふとんのシーツに擦りつけ、そのまま捨て置いた。まだ一杯しかコップを空けていないというのに二日連続の酒はどうやら回るのが早くて、頭をわずかに傾けただけでめまいがした。蛍光灯の明りがまぶたの裏でシナプスのような細い星になって何重にも爆ぜた。咽喉や胸もほてってきたので、それがにわかに降りはじめたらしい表の雨の湿気と絡みあってうっとうしく、シャツも下着もぜんぶ取ってしまってまた寝床にむかってのろのろと這っていった。近頃ではまるで睡眠薬のように常用しているホワイトムスクに火を点け、電気を消そうと半立ちになって紐を引いたらタイミングが合わず、常夜灯だけ点灯させたまま床にずるずると横たわってしまった。風にあおられて網戸を通り抜けてきた細かな雨がわたしの頬に翅音のように降りかかってきた。
 閉じたまぶたのなかで知らない人間がひとり、昏い表情でふりむいた。目を開けると薄い紅茶のような色みの電灯の下に、ネジレモがあった。梅雨の雨とは正反対の、清涼感に充ちた、それでいて女の豊かな肌に顔をうずめた時に感じられるような母性的な香りがわたしを羊膜状にくるみ、いつのまにか眠りの淵へといざなった。夢に着地する一瞬、表の雨がほんとうはゼラチンを含んだ大雨で、そのゼラチンというのはじつはクリオネのわたしが交尾のあとに噴出した三千個もの卵で、ざあざあと長い雨が降りつづいた翌朝、目映い朝陽に照らされて、植物から建物から住人から、この町のすべてがゼリーのように固まっているという幻の光景がわたしの脳内をめぐって消えた。

 ガラス壜のなかの水がすべて失くなり、ひょろりと生えたネジレモが剥き出しになっていた。
 これはいったいどういうことなんだろう。壜に近づくわたしの、寝癖でボヨボヨに爆発した影が床におどった。壜を手にした。いままで水で支えられていた華奢な身体がくったりと壜に張りついていた。
 外は真夏のような快晴だった。朝のニュースを点けたところ今日は気温が三十五度にまでなるとのことだったのでもしかすると壜の水がいっぺんに蒸発してしまったのかもしれない。でも、たったひと晩でそんなことになるはずがない。壁にかけられた鏡のなかのわたしが首を傾げた。とにかくネジレモは水草なのだからこのまま放置しておけばたちまち干乾びてしまう、早く水で満たしてやらなければ。だけど、カルキたっぷりの水道水を直に注入してもいいんだろうか? おそるおそる蛇口の水を壜に注いだ。ふたたび水中で自立してくれるとほっとして、壜を元の位置にもどした。まんべんなく陽が当たるように調節した。それからまた寝て、きのうと同様に目覚めたのは夕方だった。空腹と汗で起きた。
 アパートの外へとだらだら出た。錆びた螺旋階段を降りていると、駐輪所に隣室の女がいることに気がついた。上から見る女の髪の毛には異様な脂っ気があり、プラスティック製でもあるかのように夕陽をぬるぬる反射していた。隣の女は自転車に乗って買い物かなにかに行ってしまった。電車で二駅先の町で事務員をやっているといつだかに管理人から聞いたような憶えがあるけれどほんとうかどうかはわからない。彼女もわたしように醜い身体をさらしていっしょうけんめい働けばいいのに、と思った。
 ものうい商店が夕方の一本道に建ち並んでいて、潰れているのか、そもそも何を商っているのかもよくわからない。店奥にふと見やれば、老店主や、ワンピースをむちむちに着た老婆が昏がりからこっちを爬虫類のような目で見返してきたりする。町じゅうが梅雨から夏の暑さへといっぺんに変ったせいで、すっかり爛れてしまっている。アメンボの屍骸が大量に浮いた水たまりのある駐車場を抜け、花壇まみれの文化住宅の路地を過ぎ、最上階にはラーメン屋の看板を塗り潰した金融屋、その下が韓国式エステという小柄なビルの一階にある定食屋ののれんをくぐった。
 定食屋には先客が三人いた。全員が日替わり定食のライス大盛りを一心に掻き込んでいた。日替わり定食はよくしみた鰈の煮つけ、大学芋、コールスロー、赤出汁のナメコのみそ汁、デザートに缶詰パイナップルの輪切りと、全体的にいやに甘ったるい感じのメニューで、わたしはまったく食べる気にならず、ラックから週刊誌を取り、カウンターの中で鍋にお玉を突っ込んでいるおかみさんに、豚の生姜焼定食、と声をかけた。
 女優のスキャンダル記事を読んでいた時、向かいの卓席に着いていた中年の、夥しく肥った男がちょうど茶碗の最後の一粒をすすり込み終えて、おおげさに食後の一服をやりはじめた。週刊誌のページがパチンコ特集にさしかかったところで顔を上げた。定食屋の前の道路がまぶしかった。
 白いプラスティックの植木鉢に、黄色い斑点を浮かべている植物がたっぷりと植わっていた。まだ花を咲かせていない。どうやらゼラニウムらしい。どうせろくに世話などされていないだろうけれど、ほっといても植物という生き物は根を下ろす場所さえあれば何とでも育ってくれる。動物や魚なんかより現代の人間のお供にずっとふさわしい生き物なんじゃないか。過剰な接触も干渉もない、彼らの生命に対して人間が負うのは、そこに埋めてやった、という半分以下の責任でいい。死に際も軽いもので、血も出ないから誰も目を背ける必要もない。色をうしない道端で風になぶられていても、誰もそれが生き物の死体だとは思わない。
 肥った中年客が飯も汁も勢いよく掻き込みきって勘定ォ、とつばを飛ばした。できあがった豚の生姜焼き定食を持ってきたおかみさんは、すぐに戻って中年客に手早くおつりを渡す。まいど。アンタとこも気張りや。おかみさんのしゃがれ声を横耳に、湯気の立つ豚肉と汁の滲みたキャベツを口に放り込む。脂がべとついて黒光りしている神棚の脇に据え付けられた薄型テレビに、ローカルの情報番組が映っている。
 仕事がひと段落したのか冷蔵庫から瓶ビールを持ち出してきたおかみさんがいちいち頷きながら観入っている。彼女のうろんな黄色い瞳のなかで情報番組が目まぐるしく展開するのを見て、わたしは、ねえおばちゃん、四、五日前に京橋で男女の刃傷沙汰があったのテレビで観た? と空になったお冷を差し出した。
 おかみさんが、さあねえ、そんなんあったやろか。観たかもわからんけどなあ。あれやったら店に置いとる古新聞持ってきたろか、と不自由な脚を押さえて奥の階段へと立ち上がりかけたのであわてて止め、いい、いい、それよりおばちゃんビールひと口ちょうだい、とお冷のグラスにたっぷり注いでもらう。近頃は、ほら、国じゅう原発と地震のニュースばっかしやもん、それどころちゃうわねェ、ほかのニュース流してる間ァもないわな。おかみさんはべったりと笑い返し、ビールを呑む。
 勘定を済ませて、頭痛薬やリキュールなどの軽い買い物のためにドラッグストアに寄った。まだ暗くなりきらないうちにアパートに戻った。帰宅した部屋のなかはすっかり暮色にひたされていて、玄関に立った時、まるで夕陽に透かしたカタツムリの殻のなかを覗き込んでいるかのような心地がした。網戸を開けて顔だけ出してみる。焦点を結ばない町じゅうのいろんな音が両耳に一気になだれこんでくる。下の家から生垣を盛大にすすぐ匂いがする。つぎの出勤予定は四日後だ。兎川ではない別の常連客からの予約があったと、新谷からメールが来ていた。そのままふとんに移動して、部屋の中が夕陽の色から水槽のような青色に変る頃、コテンと眠り落ちた。
 翌日も起きしなに首を傾げることとなった。ネジレモの壜の水がまたなくなっていたのだ。
 窓辺の壜を持ち上げて、きのうと同様に水道水でいっぱいに満たしてやりながら天井や壁をゆっくりと見回してみた。遅い午前の陽にアイボリーの壁紙がいつもどおりてらてらと照らされているばかりだった。ネジレモ以外はとくに部屋の様子がおかしいわけではない。
 座椅子から床にごろりと寝転んで、ケータイに手を伸ばしてみるとゲバラから明日の呑みの詳細がメールで送られてきていた。勤めだの社宅だのと電話口では言っていたけれど、ゲバラという男はどのような生活を送っているんだろう。彼についてわたしはほんとうになにも知らない。森ノ宮駅に夜七時ごろの待ち合わせで、というゲバラからの連絡に返信文を打ちながら、シャツとネクタイをグイグイゆるめ、タオルハンカチで汗まみれの額を拭い、あわてて待ち合わせ場所に駆けてくる彼のすがたを思い浮かべた。そうこうするうちに体がだるくなってまぶたが落ちた。
 さっと、前髪が薄い刃物のようなもので撫でられるような感触がした。呼吸のような風の音が聞こえた。目が覚めた。パソコンの脇に置いたネジレモの水が半分に減り、葉っぱがガラスにへばりついていた。
 わたしは、息を呑んだ。

 森ノ宮駅の隅に突っ立っていたわたしのもとへ雑踏のなかを走ってきたゲバラの格好は、シャツネクタイなんかじゃなくて麻の渋柿色のモモンガパンツにぺらぺらのトングサンダル、そして頭と胴にタイダイ染めの布を巻きつけているという珍妙なものだった。人ごみに背を押されゲバラは頭に巻きつけた布から食み出た長髪を、今夜も蒸すなァ、と言って撫でつけた。すまんけど、緑橋方面にちょっと歩くんだわ、と中央大通りを東に進もうとするゲバラに、彼のいでたちにあぜんとしながらとにもかくにも付いて行く。
 ゲバラおすすめの店は森ノ宮駅からずいぶん離れた緑橋と深江橋の間にあった。「とに屋」という店名で、入り組んだ裏路地に焼き鳥・モツ・酒の看板を静かに掲げていた。狭い座敷に通されるとゲバラは腰を下ろすなりこってりと濃い特製のマッコリを頼み、ビールを言いかけたわたしにもまずは一杯これをやってみろと言って強引におちょこを渡してきた。ひと口含んでみると頬に張りつくように甘くて、たちまち空けて追加を注文した。そのうちに塩皮やモツの熱いのが運ばれてきて卓上が豊かになった。ゲバラは麹臭い息を吐いて、仕事についてクサクサと愚痴をこぼしはじめた。
 商社には見えんやろ。ゲバラは舌の上に残ったマッコリの味にプリプリした牛肉の刺身をうまそうに絡めて笑った。同じ穴のムジナだ、お前と同じ穴だ、と言った。
 ゲバラは現在、十三の風俗案内所に勤めているのだという。
 なんなんですか、電話であんだけ説教垂れたくせに、ほんとに同じ穴じゃないですか。わたしはつまんでいた肉を箸から滑らせてしまった。電話でのあれは自戒みたいなモンや、まあ許せや。ゲバラはあぐらをかき直す。
 うさんくさい口ぶりからは信じられないことだけれどゲバラはかつて、大学四回生の時に学会の研究誌に掲載されるほどの優秀な論文を書いて首席を取って、ついでに答辞まで読んで石狩と一緒に卒業して、東京の大手広告代理店に営業として入社したらしい。石狩や電子音楽研究会のヒマなメンツが引っ越しを手伝い国立までトラックを飛ばした。ところが、研修を終えて配属された先の上司とうまくいかなかった。それが原因で仕事自体がどうにも回らなくなり、たまらなくなって辞めて、親戚の世話で建設会社に鳶として一から働くことになった。厳しい世界だったけれど羽振りのいい会社だったから金の余裕ができて、広告会社に勤めていた頃には控えていた夜遊びの熱も復活した。高い機材やレコードを買いそろえて夢中になるうちにもしかしたら音楽で食っていくこともできるのではないかと欲がムクムク湧いてきて、曲をつくり毎晩クラブに出掛けた。けれど、はげしい肉体労働と音楽を両立することはとても叶わなくて、じきに胃と腎臓を壊して長期に仕事を休むこととなり、結局気が腐って辞めることにした。そのあと大阪に戻ってきた。リハビリがてら何か軽い仕事はないか、と友人に訊きまわったら十三の駅前にある風俗の無料案内所を紹介された。二階建ての、一階にはタコ焼きとお好み焼きを売るスペースがある案内所で、ゲバラはその屋台部の厨房に入れられて一日じゅうキャベツを刻み小麦粉を練る。青空に透ける高い足場から身を下ろしてもやっぱり自分はそうすぐに地に足をつける生活はできないのだなあと、ゲバラはある種の諦めのようなものを胸の奥に感じたという。案内所の仕事はゲバラが思っていたものよりもはるかにめんどうくさいものだった。
 どういう内情の組織なのかゲバラにはよくわからなかったけれど正社員という扱いになった。社宅と言えば聞こえはいい、ようするに案内所周辺のチンピラが都合よく放り込まれるアパートのうちのひとつにゲバラも入居した。そのうちに女もできて同棲するようになった。ときどき社長が案内所に様子を見にくる。会長は来ない。
 このあいだ、案内所の視察に訪れた社長はゲバラとほかの従業員をふたり連れて、風俗仕事の身であるならば現場も知っておかんならん、と店を早閉めさせて、M性感を奢ってきた。案内所から歩いて三分ほどの性感に連れて来られたゲバラは、下半身に挿入されたアナル・ボールの、内臓が裏返されるような感触に飛び上がり、自分にはとても合わない世界だと思いながら社長にごちそうさまでした、と頭を下げ、早々に帰宅した。寝床に一秒でも早く潜り込みたかった。ドアを開ければ、同棲している女が粗大ゴミと虫の屍骸だらけのベランダに出て風呂上がりの髪をドライヤーで乾かしているところで、ゲバラは女に物をのけて早く寝床をつくれと命令して冷蔵庫の麦茶を飲み、一服した。六畳の部屋を寝られる分だけ片付けた女はふとんのなかにゲバラを呼んだ。もう今夜は疲れて勃たへんっちゅうのに、まるで何かに追い立てられとるみたいな形相で女が俺のチンコにむしゃぶりついて離さへんのや。と、ゲバラは苦笑した。
 女とはそろそろ別れたいわ、それにまた体も壊してしまいそやし、音楽の方にはとても手が回らない状況ではあるんやけど、最近はこれでもようやく落ち着いてきたから以前おまえに電話したように少しずつイベントに手を付けはじめとるんや。そこまで一気にしゃべって、ゲバラはタバコに火を点けた。
 いつのまに運ばれていたのか、食卓には鉄鍋に入れられた溶けかけの熱いモツの甘煮と、イカダと、獅子唐と鶏の串と、馬のタテガミのお造りとササミの紫蘇巻きが並べられていた。話がひと段落つくと夢中で食べた。すっかり酔いが回っていっそう口の軽くなったゲバラが逆剥けた畳にのけぞって、お前は痩せ過ぎだ、もっと食わねえとなァ、腐った果物みてえな顔色しとるやないか、痩せッぽッちの顔色だよ、病気ンなる顔だ、俺だったらお前のことをもっと綺麗にしてやって、もっと売れるように仕組んでやるのになあ、いやあ俺はまだお前みたいな顔には腐り落ちひんぞォ、俺は風俗やろが鉄板焼きやろがまだまだしがみつくねんぞォ、と叫び、梅干し入りの熱い焼酎をまるで水のように一気に呑み干してしまった。
 店を出て軟体動物のようにくねくねと歩くゲバラに手を引かれて路地をさまよい、四十分ほどもかかってようやく駅前に戻ってきた。てっきりこのままゲバラの家かラブホテルで性交するのかと思っていたのに、ゲバラはすっきりした顔でわたしをタクシー乗り場に連れて行った。
 終電の過ぎた駅は切れかけの蛍光灯がかすかに明滅していた。駅横で盛大に焼き鳥を焼いている赤提灯の周りにはたくさんのタクシーが客を待ち構えていた。ゲバラはその先頭の一台にわたしを放り込んだ。運転手がヤニまみれの黄色い歯を見せて行き先を訊ねているあいだ、ゲバラはすこし待ってくれと近くの赤提灯に急いで飛び込み、もうさっきの店でさんざん食べたというのに、お前はまだまだ食べて肥らなあかん、おっぱい大きくせんだら客も悦ばんど、鶏肉は巨乳を生成するのである、と言い、モモと塩皮と砂ズリを一本ずつ裸のまま買ってきてわたしに握らせた。おっちゃん、これでこいつのこと連れてったってけれや、とゲバラが先に一万円を支払った。また連絡するわ、とタクシーが速度を上げて横道に入ろうとするまでゲバラは手を振った。薬品臭いレースのシートにうずもれて、ゲバラにもらったタレまみれの甘い鳥肉を飴のように口にふくんだ。深夜の道路に水分のように満ちたネオンの灯が窓に濾過されて、ふとももの上に、粘液でぬるむ川底の魚のようにひたひたと浮かび回っていた。
 おうお客さん着いたわ、と肩を叩かれてわたしは自分が無事にアパートの前に戻って来ていることに気がついた。かじりかけのまま放ってしまった焼き鳥の肉片や汁が服に飛び散り、口から垂れた酒まじりのよだれがそこらに糸を引いていた。悲惨だった。すぐにシャワーを浴びてふとんに潜り込もうと手すりにしがみついて錆びた螺旋階段を上がって行った。もどかしい手つきでディオールのキーケースを取り出し、ドアを開ける。電気を点けるのもおっくうで手探りで壁を伝い、足先で邪魔な物をうっちゃってふとんに飛び込んだ。枕に顔を押しつけるとくぼみで呼吸が反響し、マッコリの甘ったるい香りが顔を覆う。その香りを吸い込むうちにいびきが混じり、投げ出した手脚が冷たい床を掻いた。
 明るいな、と目を擦ると、路地にいた。
 空間の区切りを失ってひたすら膨脹をつづけているかのような夕暮れの路地に立っていた。せせこましい道は正面で二又に分かれていた。向かって右の道を奥にたどれば特製のマッコリがおいしいあの居酒屋に着くはずだったし、左に進めば、自分のアパートに戻れるはずであることを知っていた。コケがうぶ毛のように生えた壁に隠れて右の路地を覗けば、はんぶんだけ引き戸の開いた「とに屋」のカウンターでゲバラがとっくりの酒を舐めながら焦点の定まらない目でおかみさんと世間話をのらりくらりやっている光景があった。店の壁のテレビには野球中継とアニメが混じったようなものが放映されている。ねえ、と声を掛けようかと思ったけれど、ゲバラは五本目のとっくりを注文し、ツマミの馬肉を生卵に浸けてうまそうにぺろりとしたところだったので、ためらって声を引っ込めてしまい、ふたたびあの路地に戻ることにした。ふくらみつづける夕方は右の路地を覗く前よりも重力を失って、雲の流れる音を響かせながら縦へ横へと伸びていた。真正面の空で螺旋状に巻き上がり、ねじれた部分に影をはらんだ巨大な入道雲が、どうやらこの膨脹する夕方の中心になっているようだった。餅のように肥ったネズミが足もとをうろちょろしているだけでほかに生き物の気配はない。左の路地を入って、もうアパートに戻ろうと思った。いつのまに汚してしまったのか、焼き鳥の肉片や汁の付いた服が気持ち悪かった。でもまあいいや、部屋に戻ってすぐに風呂に入ればいい。アパートの前にはじきに着いた。郵便受けには何日分放っておいてしまっただろう、チラシや封筒が飛び出していた。夕陽のあたらない冷たい螺旋階段の手すりに片手を掛け、一歩一歩踏みしめるように上がる。部屋に戻ったら、酒ですっかりもたれている咽喉や胃に冷えた麦茶を流し込んで、ふとんにでろりと大の字になりたい。もどかしい手つきでキーケースを取り出し、ドアを開ける。
 建てつけの悪いドアがギイ、と開いた向こうに、人影があった。
 長い茶色の巻き髪が、うつむいているその顔のほとんどを隠していた。ベランダの網戸から吹き抜ける風でときおりわずかに髪が持ち上がり、白い肌がちらちらとまたたいていた。
 よくよく目を凝らしてみると、人影はその口をまるで豚の鼻のようにクッと突き出してベッドの脇に置かれているネジレモの壜にそっと寄せようとしているところだった。そして、豚の鼻のようだったくちびるがみるみるうちにキューッと細まってゆき、蝶の口吻のように一本のストローとなって壜の水のなかへと音をたてずに侵入した。
 あ、と思って瞬間、壜を満たしていた水を人影はひと息で飲み干してしまった。見ているこっちの咽喉まで一気に渇くかのような見事な飲みっぷりだった。ネジレモは支えを失って壜の内側にぺったりと貼り付いた。水が完全になくなると人影の白い口吻はふたたびするすると太さと短さを取り戻して、ぷっくりと丸いくちびるになった。
 人影はエメラルドグリーンのシフォンのワンピースを着ていた。ぐったりうなだれたネジレモを助けようと思ってわたしは手を伸ばした。人影が顔にかかっていた髪を右手で大きく掻きあげ、こっちを向き、ごめんなさい、つい飲んじゃって。いつもすぐに咽喉が渇くんです、と、水滴で光る口角をキュッと締め、微笑んだ。

     ****

 どうしてこんなにも咽喉が渇くのかというと、自分のなかの水分がいつのまにかつねにだだ漏れになってしまっているからなのだと人影というかわたしの部屋のなかにいた女は困ったように首を傾げて言った。
 見てやってくれる? と女は胸の透くような色のワンピースを裾から持ち上げた。
 女のみぞおちに赤ん坊のてのひらほどの大きさの穴がぽっかりと穿たれ、そこから漿液のようなさらさらした液体が流れつづけていた。穴に見えるのは刺し傷で、最初ここから流れていたのは真っ赤な血だったんだけど、もうそれが切れてしまったのかそのうち色の付いていない水が漏れてくるようになってしまったの、と女は言った。
 女のみぞおちの穴から落下する水流の先に目を凝らしてみても、どうにもそれが見えきらない。床も濡れていない。液体は彼女の腹や太ももをてらてらと濡らすけれども、そのてらてらが周りからの光の反射で途中から曖昧にもやがかってしまっていて、そこを見ようとすればするほど、たちまちしぜんに目が逸れる。穴から漏れる水は詰まることもなく急に勢いが増すこともなく、静かに、いっそ止まっているかのように流れつづけている。女はわたしの向かいにぐるりととぐろを巻いて座った。
 ここ何日かネジレモの水を飲んでたのはあんたなの? わたしは言った。女はこくんと頷いた。咽喉が渇いてるんだったら、ほかに何でもあるでしょう。ほら、ここには飲みかけのミネラルウォーターもあるし、棚にはリキュールの瓶の入った箱が置いてある、蛇口をひねればいくらでも冷たい水が出る、何もこいつの命みたいな壜の水を盗ってやらなくてもいいでしょう。
 女は幼児のようにううんと首を横に振って、フタや栓が締められてしまっているものは自分の力では開けられないと言い訳した。
 女は自分を幽霊だと言った。
 どこの幽霊かというと、このあいだ京橋で起きた男女刺殺事件の女の方から生まれた幽霊なのだと説明してけたけた笑った。それから、幽霊だから物は開けられないのだと言った。
 とにかくネジレモの水はもう飲まないでよ、可哀想でしょ。わたしは立ち上がって壜に水を満たしてやり、酒は呑めるのかと女に訊いた。生きていた頃は毎晩ひとりでロング缶を三本は空けたと女が言うものだから、とびきり暑い晩に呑もうと冷蔵庫で冷やしていたハートランドを一本渡してやった。女は気持ちよく呑み干した。力を入れるようなフタは開けられなくとも、壜やコップは持てるらしい。彼女にとっての可・不可の境界がよく掴めなかったけれど、おそらくルールがそれなりにあるんだろう。にっこり笑ってくちびるを拭う女の顔からつうと視線を下にずらすと、ワンピースの薄いシフォンの生地が、いまさっき呑んだビールの流れ出る勢いではらはらと揺れるのがみえた。女の髪の向こうで早起きのアブラゼミが鳴き出した。
 ゆうべは寝てないから一度寝かせて、と、まだ呑みたそうにしている女をふりはらって、わたしはベッドに飛び込んだ。後ろでヒュル、と音がした。また女が豚の鼻のように口を伸ばしてネジレモの水を飲もうとしていた。きつく叱りつけ、枕に顔を押し付けた。枕の布のくぼみに、ゆうべゲバラにさんざん呑ませられたマッコリの甘ったるい香りが呼吸とともに溜まる。その香りを吸い込むうちにいびきが混じり、投げ出した手脚が冷たい床を掻いた。

 起きると女はいなかった。ほっとして、おとといからベランダに手拭い類を干しっぱなしにしていることを憶い出し、取り込まなければと思って窓を開けると部屋の真下にあの女が座っているのが見えた。女は痩せた両手を折り畳んだ膝の上にまるく置き、自転車置き場の隅で放尿しようと服をたくしあげてぷよぷよのお腹を見せている幼児の股間をじっと見つめていた。幼児は女を怪しんで、おしっこが出なくなってしまったのか立ちんぼになっている。あわてて女に、部屋に上がってくるよう促した。
 とりあえずジョッキにたっぷり水を注いで手渡してやった。
 ここにいすわるつもりなんだろうか。明け方、女と対面した時には、蛇口からはいくらでも水が出ると言ったものの、よくよく考えてみれば水道代がとんでもないことになるから、もしここでこの京橋の幽霊を飼うとしたら犬の散歩のように決まった時間にアパートのそばの川に連れてってやるか、それとも病人のように口と穴をチューブで繋いで水を循環させてやるか、そんな方法しかないのでは。
 女はおかわりの水をさっそく要求した。
 ほかにいい案が思いつかなかったので浴槽に水をまんぱいに溜め、身体の水分が減ったらそこに口を開けて浸かるよう女に命じた。そうすれば飲んだそばから漏れた水はふたたび浴槽に戻る。それを繰り返せばいい。
 女は気持ちよさそうに水に浸かり、外からの風にひよひよと当たっている。幽霊のくせに、なまあたたかい体温が伝わってきそうなその表情は生きているそれとしか思われない。
 女を眺めているところにゲバラからメールが届いた。昨夜の礼とともに、よかったら夕方からまた酒を呑まないか、今日明日は女がいないから家に来い、と書いてあった。
 ゲバラの家へ行く前に、名前はあるのかと京橋の女にたずねた。ある、と女は力強い声で言う。死んでから自分の名前がどう処理されているのかは知らないけれどむかしは美奈美という名前だった、と女は言った。

 昼間の暑さがおさまるまでおとなしく過ごした。クッションをはさんで壁にもたれ、立て膝に肘をついて映画を観ながらわたしはときどき美奈美に目をやった。彼女は彼女で、登場からまだ一日も経っていないというのに、いったいいつからここに棲みついているんだろうと錯覚するほどしぜんだった。前髪をばさばさと垂らして、開きっぱなしの雑誌を読んだり、飲みかけの紅茶のコップの底を覗き込んでは沈殿しているお茶のかすを見つめてうっとりと茶色の瞳をくりつかせたり、そうかと思うと急に真顔になって浴室の方へすっとんでいき、ワンピース姿のままで浴槽の中に飛び込んで、豚の鼻のようなくちびるを伸ばし、ドクドク音を発てて水を飲んだりする。美奈美の動きはそのおだやかな見た目とは裏腹にひじょうにせわしかった。動き回るたびに身体の奥が上気するのか、首や二の腕のあたりから桃色のオーラのようなものが噴出していた。霊魂というものは興奮すると薔薇色に光るようになるのだ、とむかし誰かの小説で読んだことがあったような気がする。
 アパートを出て、美奈美を連れてJRを乗り継ぎ森ノ宮のゲバラの社宅に向かった。住所を入力して検出されたグーグルの地図をたどったので、迷うことなくゲバラのアパートに到着した。灰色コンクリートのなにやら入り組んだ五階建てで一階部分がデリバリーの鮨屋になっている。階段は見当たらなかった。どうやらその鮨屋の脇に設置されているエレベーターでしか居住部へ上がることができないようだった。ゲバラの棲んでいる五階でエレベーターが開いた先には、三部屋並んでいた。やかましい重低音が漏れ聞こえてくる、いちばん左の部屋をノックした。
 咥えタバコのゲバラが目を細めて、つま先立ちでドアを開け、よォ、と出迎えてくれた。
 部屋の奥からあふれてくる爆音のサイケトランスに耳をふさいだ。騒音だいじょうぶなの、と声を低めるわたしにゲバラはバカみたいにわざとらしいウィンクを寄越して、ふたつとも空き家や、下の鮨屋に迷惑かけんかったらここでは何したってええんや、と言った。
 ゲバラに美奈美は見えないようだった。
 部屋は六畳そこそこ、四方には奥行きのあるステンレスラックがきっちり嵌め込まれていて、そこには何百枚もあろうかというレコードやCDが業務用冷蔵庫に保存されている豚肉のパックのように収納されていた。床にはふとんが雑に畳まれていた。ゲバラの体臭が漂っていた。
 ゲバラが飲み物を用意しているあいだに、向かって左隅に掛かっている曼荼羅の奥を勝手に覗いた。狭小の三角形のスペースは、高級な機材や何台ものノートパソコンが要塞のように設置されているDJブースになっていた。働いて稼いだ小遣いと競馬や競艇の儲けはぜーんぶ音につぎ込んどるからなあ、と、ゲバラはウィスキーとコーラを持って来た。広ささえあればじゅうぶん立派なパーティを開ける機材だから、そのうち隣二部屋の鍵も社長から貸してもらって、三つの部屋を行き交うパーティなんかやれたら面白いとも思っている。そんな本気か冗談かわからないことを言って、すばやく二杯のコークハイを作った。わたしの背後にもたれかかって溶けかけている美奈美は案の定、ずいぶん前から咽喉が乾いていたらしく、くちびるを豚の鼻状に伸ばしてコークハイを睨みつけている。水分が抜けてしまったざらざらの網膜を浮かべている彼女にわたしは、ゲバラが渡してくれたらゆっくり落ち着いて呑みな、と頭の中で、水鉄砲を飛ばすようにささやいた。
 ゲバラは首まわりの伸びた黒いTシャツに灰色のスウェットパンツを履き、裸足でくつろいでいた。読書好きのゲバラは、石狩を交えた呑み会の時もゆうべも、しきりにわたしの最近の読書について訊きたがる。好きな本なんてきのうときょうでそっくり変化するに決まっているから、いま好きな本について語るのであれば最初に好きになった本のことからぜんぶ話したかった。ゲバラはわたしのおしゃべりに熱心に耳を傾けてくれるけれど、何をどう話せば彼がよろこぶのかというのがかんたんに予想できるし、反応もわかりきったものだったから、わたしの思い通りになる彼の表情を見ているとわたしは彼よりも石狩に、石狩に会いたいという強い想いが込み上げる。石狩の、無味無臭であっさりとしたあの美しい顔をわたしは見詰めたい。豚みたいに売られてゆくわたしを軽蔑でもない憐れみでもない、いかにもシンプルな瞳で見送ってくれたあの石狩に。石狩を通して知り合ったのだから、いいかげんゲバラはわたしに石狩引き合せてくれてもいいのに。
 こうして自分が読んだ小説についての感想をだらだら披露しているうちに、急に二の腕を掴まれて腐った杏のような異国の匂いのするくちびるを押し付けられ、それから胸や股間も押し付けられて、そうこうするうちに裸に剥かれて性器を突っ込まれ、じつは一目惚れをしていた、とわたしに告白するゲバラの女になる、そしてそう遠くないある日、手をつないで街に出たゲバラとわたしが奇跡的に石狩と再会し、ああ、お前には言っとらんかったけど、俺いまこいつと付き合っとるんやわ、とゲバラが石狩にわたしを紹介する。そこまで想像した時、ゲバラのケータイが鳴った。
 わたしの右肩に頬をのせていた美奈美は急に輪郭を取り戻すような声音になって、ゲバラがあぐらをかいていた位置にとろりと這い寄り、そんなくだらない想像あそび、するもんじゃないわよ、といかにもイヤミっぽく忠告した。
 あんな濃い顔の男と妙な関係になったりしたらロクなことはないと思うわね。
 電話から戻ってきたゲバラは、悪いんやけど、すこしだけ仕事やっていいか、急ぎのやつが入ったんや、と畳に転がっているノートパソコンを膝の上で開いてなにやらカチカチやり始めた。わたしはそれを肩越しに覗き込んだ。ゲバラのつけている整髪料の強烈な匂いに噎せ返りそうになる。気づいたゲバラが、わたしの腕を引き寄せてきちんと正面から覗かせてくれる。
 開かれたドキュメントには大量のフォルダが仕分けされていた。
〈明太子〉〈スジコ〉〈イクラ〉〈鮭フレーク〉〈松前漬け〉〈奈良漬け〉〈韓国海苔〉〈納豆〉〈肉味噌〉〈なめ茸〉〈ちりめん山椒〉〈牛肉しぐれ煮〉〈めかぶ〉〈アボガドわさび醤油〉〈コーンビーフ〉〈いかなごの釘煮〉などの名前を付けられている。 
 ご飯の友。わたしは目を丸くした。
 ゲバラは笑った。まあつまりオカズだよ、と、試しに〈ちりめん山椒〉をクリックしてみせた。瞬く間に、大量のタイトルリボンが示される。ツンデレ社長秘書・アフターファイブの遊戯。わたしが読みあげた。これぜんぶAVやで、業者から引っ張って来たやつをエンコードして、ハイライトに短縮して、俺が考えた紹介文と一緒に無料サイトに載っけるねんわ、で、その処理前の映像をこうやって分けてあるわけ。え、いやあ、彼女に知れたらややこしなりよるから、こうして意味わからん名前つけてたらあいつ観いひんやろうと思ってさ、下手に〈仕事用〉だとかのわかりやすいので書いとったらあいつ勝手に見よるんや。
 〈ちりめん山椒〉はピリリとシャープなOLもの、〈明太子〉は有名女優もの、〈スジコ〉はロリで、〈奈良漬け〉は熟女、〈なめ茸〉は近親和姦もの、〈韓国海苔〉と〈アボガドわさび醤油〉はそれぞれアジア系と欧米系の洋物、ほかにもいろんなご飯の友、オカズってわけ。無料やからいろんな奴がアクセスして観よるやろ、そんで、この下にうちの風俗店の系列広告打ってるのわかる? 無料の短縮版観てイッパツ抜くわけやけど、それだけじゃどうしてもたまらんなった奴はこっちにほいほいアクセスしてくれて、上手くいきゃウチに女の子注文してくれるってわけ。動画のあっちをクリック、こっちをクリックしながらゲバラはていねいに説明してくれる。
 で、さっき早急に仕上げてほしい動画があると言われたんやわ、とゲバラは細身ノーマルものの〈イカの塩辛〉フォルダから一本取り出して、映像編集ソフトで巧みに切り貼りした。すっかりハイライトができあがった。わたしなら、〈イカの塩辛〉を食べたらつぎは〈卵黄の味噌漬け〉か〈子持ちシシャモ〉あたりでキュッともう一杯流し込みたくなる。そう想像したら間髪いれずに耳元で美奈美が、あんたって不潔ね、と眉を顰めた。
 氷が溶けてすっかり水になってしまったからと作業を終えたゲバラは新しい酒を取りに行った。何かつまみを作るけど何がいい? 野菜はあんまないわ、コーンビーフと、チーズと、それかいっそスーパーに行ってくるから本格的に夕飯を作ってやろうか、というゲバラに、そうだね、と頷きつつ、何の気なしに開いた〈カズノコ〉は、十何人もの全裸の男優たちがひとりの棒きれのような少女を取り囲んでいるサムネイルを示した。
 わたしはカチリと視聴ボタンを押した。
 表情があまりわからないようなアングルで撮られた男優たちが、部屋の隅に突っ立っていた。そのうちに彼らはゆるゆると画面の中央に集まってくる。彼らの手はそれぞれ自らの半勃ちの性器を包み込んで今か今かと待ちかまえている。そこへ画面の左端からロングヘアの痩せた少女が放り込まれた。男たちは少女を無言で取り囲む。少女も無言だった。少女が長い髪をポニーテールに結いあげると、それをきっかけに男たちが生温かいモグラの赤ン坊のようなくにゃりとした性器を彼女の口に何本も何本も押し当てた。
 観ているこっちにまで性器の先端から放たれる酸っぱい臭いが伝わってくるようだった。彼女はあどけない顔で、上目づかいに、つぎつぎに押し寄せてくる男性器を頬張り、しごきあげ、かわし、連続で発射される精液を口の端から垂らし、噎せて泣いた。それが何十本も続いた。あと残り五人、というところまで来て、とつぜん彼女の咽喉からクカッ、という鶏が絞められたような不気味な音が響いた。 
 不気味な音を吐き出しつづける彼女の口腔を犯していたひとりの男が、彼女の華奢な首と頬を持ち上げて、てのひらで叩く。彼女は充血した眼をかっ開き、フウ、フウ、と苦しがった。一秒後、彼女の目は白く裏返り、呼吸が止まっていた。男の手が頰から離れると、顎の関節がはずれてしまっているのか下顎ががっくりと落ち、そのうえ大量の精液で気管を詰まらせ、彼女の顔はみるみる黒紫色に染まっていった。すぐさま応急処置が取られるものだと思った。ところが、男優たちはいかにも物足りない、苛立たしげな様子で、精液のかたまりをゴポゴポ吐き出している彼女のくちびるに、さらに性器を押しつけた。そして、彼女の意識が戻らないのをみると、さっさとその部屋を後にしてしまった。
 横付けされていたカメラの視点は天井から見下ろす形へと移り、もはやピクリともしない彼女の全体をとらえた。少女の首から上は鬱血し、投げ出された胴と手脚がまるでカズノコの房のような綺麗な黄色をしていた。口からは途切れることなく発酵途中の麹のような、大量の精液がどくどくと吐き出されてゆく――。
 おい、とゲバラに肩を叩かれた。
 べつに好きに観てもええけどさあ。ゲバラは笑った。お前、とんでもないのを選ぶのな、観れば確かに勃起はするけどさあ、俺ァこんなハードなセックスはできひんわ。わたしはノートパソコンを叩くように閉じた。動悸が止まらなかった。精液にぬめった心臓がものすごい速さで体内を昇り口や鼻から噴出しそうだった。
 その後どうやって普通の話に戻ったのかまったく憶えていない。何時間経ったのか、ゲバラがわたしの身体を引き寄せて、お前はぜったいに良い小説家になれる、そうしたらお前が風俗嬢やってたことは俺が責任もって、世間にバレないようにぜったいに守ってやるから、と言った瞬間に、ハッと我に返った。わたしの周りに呑んだ記憶のないたくさんのグラスや缶が散乱していた。美奈美が満足げな顔で畳に寝転がって蛇のしっぽ状に伸びた足をはた、はたと動かしていた。まだまだ話し足りないらしい彼をあしらい、とろとろに酔っ払った美奈美を抱きあげてわたしは部屋を出た。
 ゲバラ宅を後にして森ノ宮の駅で電車を待っているあいだに酔いが薄れてきた美奈美は意識を取り戻し、薔薇色のオーラを二の腕やふとももから発光させた。向かい側のユニバーサルシティ行きの快速が発車した瞬間、巻き上がった風を受けて酔いから醒めたばかりの美奈美はまるい八重歯を光らせ、まるで波紋がひろがるように身体をぶるぶるふるわせて、指先から空気に融けて透明に染まっていった。くず餅のようにそのまま全体が透けて消えていってしまう、とわたしがつばを飲み込んだ瞬間に風はやみ、二の腕まですっかり透けていた肌はふたたび色を取り戻した。美奈美の瞳孔が傘をひらくように明るくなった。
 美奈美は、お酒おいしかった、楽しくて、良いお友達ね、と笑いかけてくる。良いお友達ねえ。
 夜風を割り左右の景色を吸い込んでゆくように滑り込んできた電車に、わたしは美奈美の手を引いて乗り込んだ。

     *****

 自分のかかとがどうしようもなく腫れはじめているのを感じた。電柱に背中をあずけて真新しいパンプスを脱ぎ、くるりと足を裏返した。靴擦れした部分の肉がはち切れて柘榴のように赤くぱっくり割れていた。両方のかかとがひどい靴ずれになっていた。パンプスの内側に膿の汁がだらしなく広がっていた。
 こんなパンプスもう明日からはぜったいに履いてやるものか。わたしは自分を落ち着かせるために前歯をゆっくりひと舐めした。言葉が見つからないほどにみじめだった。
 さっきまで履いていた、足の曲線にやわらかく馴染む黒いジミー・チュウのバレエシューズは、さっき相手をした一見の客から「記念にいただきたい」と懇願されたので勢いよくくれてやったのだった。その客は女のあしのうらが大好物なのだと言っていた。
 ローションと精液が斑状に広がったシーツの上に素っ裸のまま寝転がったわたしが、その靴を持って帰ってどうするのかと訊くと、客は愛おしげに靴を抱きしめながら自分は一度でいいから若い女の子の持ち物にオシッコを引っかけてみたいと思っていたんです、と答えた。客はふだん、ハルサメを製造する東京の食品会社に勤めているのだと教えてくれた。東京と大阪に一つずつ大きなハルサメ工場があるらしい。三日前から二年に一度の社員旅行で関西に訪れ、最後の夜であるきのうは自由行動が言い渡されていたので自分ひとり京橋にふらふらと観光にきて二軒ほど呑み歩いた後、内臓がギュッと絞られるように性欲が込み上げてきたので、ホテルに飛び込みホテヘルを呼んだのだと言っていた。そこへわたしがやって来た。
 ホテルのドアを開けると、下着だけ穿いたハルサメさんがベッドに寝転び、テレビを眺めてわたしを待っていた。あいさつをし、彼の手を引いてシャワーを浴び、まず手で抜いて、それからベッドに移って騎乗位とフェラチオで交互に攻め、果てさせた。変わったプレイは苦手だというので痛いことも苦しいことも要求されなかった。
 下着なんかより、靴をいただくほうがずっと哀愁があるじゃないですか。と、ハルサメさんはわたしの二の腕をさすった。サービスが終わって、会話がどこへ伸びていくでもなくしゃべったあと、熱い生ゴムのようにシーツに融けきっていた体に服を巻きつけ、自分の靴の代わりにゴキブリのように黒光りするホテルのスリッパをムズムズと履いた。新しい靴を買って差し上げるから、と、ハルサメさんはわたしを連れてホテルを出て、残りの一時間を買い物に当てた。
 平日のファッションビルの、ひと気のない奥の方までハルサメさんと見て回るのはどうにもためらわれた。入り口にもっとも近い靴屋へと足を踏み入れた。その時に目についたのがこのパンプスだった。
 ハルサメさんに会計をしてもらって、その肌色のパンプスを履いてファッションビルの外に出た。舗装の割れた道に音をたてる新しいヒールが自分の裸足のやわらかなかかとからピンと生え伸びた武器のようだった。背後からゆっくりと付いて来るハルサメさんに、どうもありがとう、大阪に来た時はまた呼んでね、と手を振った。それから飛び立つようにその場を走り去った。ホテル以外で客と何かをするのが初めてだったから、心臓が痛いほどに脈を打っていた。ふたたび別の客たちの相手をするため店とホテルを往復するあいだに、ひどい靴擦れができてしまった。
 兎川の待つ「プラージュ」の和室に入ったのはその日の仕事のラストだった。珍しいことに兎川が予約してきたのは日付の変わる午前0時でしかも今日は月曜日だった。
 まさか予備校の先生を辞めてしまったんですか、と開口いちばんに訊ねたわたしに兎川は、まさか、とボルドーの色付き眼鏡の奥で笑った。再来週から新しい講座が始まるから、土曜日から十日間のリフレッシュ休暇を取っているんです。と、兎川は言った。
 さっそく服を脱ごうとしたわたしを兎川は背後からそっとてのひらで制した。ロンTワンピだけ脱いで腕の途中に通したまま、振り返ろうとした瞬間、何度もシャワーを浴びたせいで自分の肩が乾燥して藁くずのように毛羽立っているのが目に入った。みぞおちにヒュッ、と寒気が走った。兎川が、僕はきょうあなたの何人目の客ですかと訊いてくるので正直に五人目ですと答えた。彼の細い身体が背中にあたっていた、そうだこの人はわたしよりもずっと背が高くてわたしのことを包みこもうと思えばかんたんに包み込んでしまえるのだということ、覆い被さってしまえばわたしのことをかんたんにひねり潰してしまえるのだということを考えた。ふつうなら五人目だなどと、とても口にはできない、どんな客もそんな見知らぬ男の垢や汗や体液がたっぷりと塗り込まれた女の身体などイヤがるに決まっている、短気な客ならこのやろう、淫乱ババアが、と殴ってきてもおかしくはない、けれどもそれについて素直に数字を提示することが、兎川に対してはぜんぜんおかしくないのだ。五人ならきょうはたっぷり稼げたでしょうね、あなたは三ツ星だから一時間で五万円、四×五・二十で二十万円、七割計算で取り分は十四万円。最近は仕事がイヤになっていて、僕の来る水曜日とあとは金曜日にしか出勤してこないと前に聞かせてくれたけれど? そうです、週に二日しか出勤していません。そうなんだね、ではなぜきょうは月曜日なのに出勤しているのかな? きのうわたしはピルを飲み終えて、あしたから生理が来てしまうからきょうは出てきたのです。
 あなたは良い子ですね、と、兎川はわたしの毛羽立った肩の羞ずかしい皮膚をじっと見つめた。ここはふつうのヘルスよりも値段が高いから、つらいこともたくさん要求されるでしょう、と剥がれかけた肩の皮を舐め取り、腕にへばりついたロンTワンピの隙間から両手を同時に勢いよく伸ばしてきてわたしのおっぱいをそれぞれ猛烈に握り締め肺やほかの内臓がすべて潰れそうなほどに抱き寄せた。兎川は聡明で優しい、と思った。兎川が首すじを舐めてくるので自然と顎が反り、涙が込み上げそうになった。
 僕はきょうあなたをロングで買ったよ、いまから明け方まで僕の相手を務めて二十万円だ。朝になったら電車に乗って帰宅して、おとなしくゆっくり眠れるね? とわたしの耳にくちびるを浸ける兎川のことがとつぜんまるで石狩のように愛おしくなってわたしは自分を見失ってほんとうに泣きだしてしまった。

 きょうされたイヤなことをすべて言えと兎川に命令され、わたしは後ろ手に縛られた全裸の状態でうつむき、ハルサメさんのことを語った。興味を示した兎川はわたしの足もとに屈み込みそこだけまだ手が触れられていなかった肌色のパンプスを脱がせた。肌色の革の下からまったく同じ色の肌があらわれた。まるで内臓が剥き出しにされたようでくらくらした。わたしのかかとが膿の汁を水たまりのように浮かべて沈黙しているのを、何か大切なものを目撃したかのように兎川は手の甲で撫ぜた。激痛が脳天を突き抜けた。兎川は手に付着した膿汁をわたしのふくらはぎで拭き、挿入するまでは絶対にはずさないボルドーの眼鏡の奥からあなたはほんとうに良い子だからこんなつらい目に遇ってとても可哀想だ、と語りかけてくる。つらいことはこの世に腐るほどある、と思う。でもそのつらいことを、わたしは時に、もしもそれが可能ならばすべて経験してみてもいいとさえ思える瞬間がある。不可聴域のつらさにまで耳を澄ませて、すべてを呑み込んで受け容れてみたいと切望したりもする。
 兎川はわたしをあおむけにして、力を込めたてのひらでめいっぱい腹を押した。兎川のてのひらがわたしの白い腹に浮き上がっている内臓のふくらみやくぼみを掴み、揉みしだく。痛みでわたしが叫び声を上げるたびに兎川の性器が匂いを立てて勃起してゆく。彼の性器を握りしめようと伸ばしたわたしの手をまるで首を切り落とすようになぎ払い、そんなことをせずともこうして腹を触らせてくれれば僕は勃つ、と兎川は言った。苦しくて涙があふれた。吐き気とめまいで身体がパンパンになっているのに内臓を掴まれているせいで吐くことができない。指先がシーツを掻き毟り、かかとが膿汁の跡をのこす。水で薄められるように意識が遠退いてゆく。ベッドのライトだけが蜜色に光を孕んでいる。暗い壁に兎川のマオカラーシャツが美しく掛けられているのが見える。ようやく兎川の手が離れて、呼吸をもとめて反り返ったわたしをどこにも逃がさない兎川の手がふたたびやって来て、くちびるをふさがれ首を絞められこれ以上ないぐらいに勃起しきった性器がぶち込まれた。
 行為が済んだのは深夜の三時過ぎだった。外側からも内側からもさんざん痛めつけられ何度も失禁したせいですっかり腫れあがった膀胱を抱えるようにしてトイレに駆け込み、洗面所の灯りを点けたら、全身が青痣まみれになっていた。
 兎川はわたしをベッドに呼び寄せた。バッグから八インチの白いタブレットを取り出し、一緒に映像を観ようと言った。
 映し出されたのはSFのようなシンガポールの風景だった。
 ガーデンズ・バイ・ザ・ベイという場所なのだと兎川は教えてくれた。均等に植物の生繁った要塞のような巨大人工ツリーと空中散策路、天女の羽衣のようにいくつもの滝をまとって、標高二千メートルの頂から低地へ至るありとあらゆる植物が植えられているという、ほんとうにこの世にあるとは思えない、わたしにはきっと一生この目で見ることが叶わない幻想的な光景だった。部屋を暗くして、ノスタルジックなエレクトロニカミュージックを挿入したら、ベビーモビールのように永遠に観続けていられるだろう。手ブレのないなめらかな映像なので、どこかからダウンロードしてきたのかと思っていたら、兎川が二年前のリフレッシュ休暇の旅行で自身の手で撮影したものなのだと言った。旅行にはその時に付き合っていた女と行った。
 その女の人がどこにも映っていないね。そう訊ねたわたしの頬に兎川はくちびるを寄せて、女はレンズに入れてやらなかった、これは僕自身の憶い出だから、とつぶやいた。女とはその後すぐに駄目になって、映像を撮ったタブレットは廃棄してこの新しいものに買い替えた。
 ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの映像がふっと落ち、いきなり見知らぬ女の全裸が映し出された。
 烈しいファック動画だった。下半身にオレンジ色のラバーを穿かせられた上半身裸の女が、ラバーの目隠しバンドを巻き付けられてエメラルドグリーンの診察台にのせられている。髪が濡れていて、ハイトーンに脱色されたゴミのような三つ編みが診察台のクッションから垂れている。年齢はわからない。青ざめたくちびるがふるえている、それを、すぐそばで黒いスーツの男が眺めている。スーツのなかに着ているのが白のマオカラーシャツなのでわたしの心臓が巨きく鼓動する。
 男はラバー女のカスタードプリンのように黄疸がかったおっぱいに吸引器を装着し、機械のボタンを押して起動させた。乳首から乳輪へ、それからおっぱい全体へと、みるみる鬱血してゆく。ミュートになっているので何も聴こえなかったけれど、女はもうれつに助けを求めていた。乳首が黒い棒飴のように尖がりきりおっぱいがじゅうぶんに腫れあがると、男はつぎに女の股のチャックを下ろし、剥き出しとなった性器に三つめの吸引器を吸いつかせた。吸引機の内側が結露していく。真ピンクの肉が隆起し水分を奪われてつるつるに輝き、クリトリスが無残に引っ張られて巨大化させられる。仕上げに男は、女の首に白いビニールロープを回し、女の動きが止まるまで締め上げた。映像はそこでまた、ふっと落ちた。
 わたしはゲバラの見せてくれたご飯の友の動画を思い出していた。どうしてこんなのを持っているのか、これはシンガポールで女とプレイして撮影したものなのか、この男は兎川なのか、つぎからつぎに疑問があふれて振り返ったら、兎川は小さな賢い男の子の顔で眠っていて、ふとんをまくると、性器だけが無機物のように勃起していた。
 わたしは力の抜けている兎川の手からタブレットを奪い、先ほどの動画をリピートした。五分足らずの動画の中でちらちらと映り込む男の顔は兎川ではなかった。兎川はこれをダウンロードしたのだろうか。ゲバラが作っているようなサイトから。わたしは彼の額の匂いを嗅いだ。
 ゲバラみたいな奴がせっせと作成しているような場所から、あるいは天上の蓮のような場所から、まさにいま、この自分の手に何か光るものが舞い降りてきた。そんな気がした。冷たい炎のなかを歩いているようだった。
 兎川さん、兎川さん。ねえ。兎川さん。起きて。わたしは彼を必死に揺さぶった。兎川はまるでそんな動画など観もしなかったような清潔な顔で目を覚ます。
 ねえ、わたしこういうのとても面白いと思ってしまうような人間なのよ、こんなの見せられたらわたし、どうにかなってしまうよ、と言ったわたしの瞳が想像もつかないほどに光っていたんだろうか、兎川は寝ぼけたままハッと上体を起こしてわたしを見つめたあと、冷えた指先でわたしの首をすこし、握り締めた。

     ****

 JRで帰宅して寝床に潜り込み覚醒したのは五時だった。カーテンをはんぶんだけ引いた部屋の中は熱帯魚の水槽の底じみて青く、外からの音が一切きこえなかった。空気が澄んでいた。丸一日眠っていたことだけを実感した。いまが明け方と夕方どちらの五時なのかわからなかった。
 ネジレモの水かさが三分の一ほど減っていた。わたしは知っている。初めて美奈美と出会った日、あれほど注意したというのに、わたしが外出しているあいだにこっそりとまだ彼女がネジレモの水をすすっているということを。ふとんを脱ぎ、窓を開けた。近所から濃厚な煮炊きのにおいがふくれあがっていたけれど、それでも明け方か夕方かわからず、そのあとベランダの正面の道を制服姿の中学生が駆けて行ったのでようやく夕方だと知れた。美奈美はベッドのすぐ脇で眠っていた。何枚もの夏ぶとんをめちゃくちゃにかけて、まるで波打つ浅瀬に横たわっているかのようだった。額までかかったタオルケットを剥いでやる。彼女の薄い血の気がさらに引いて、内側の歯茎や舌が薄っすらと見えるほどに頬が透けてしまっている。
 エメラルドグリーンのワンピースの裾をこっそりまくった。白い下着とへそが剥き出しになった。みぞおちの穴から漏れ落ちる水が下腹部と接触しているシーツの一部に流れていた。そこへてのひらを当てるとたしかに濡れている感触がした。が、いくら目を凝らしても水のシミそのものが見えない。彼女のみぞおちから流れ落ちた彼女の一部が、感触としては存在するのに、目には見えない。存在しない。
 美奈美がぴくりともしないので、今度は鼻をシーツに押し付けた。吸い込んだ瞬間、脳内に桃色の何かがとろりと広がった。くちびるで触れてみる。濡れている。見えない。鼻先が彼女の股間に触れた。
 びいどろのような美奈美の両目がぱっちりと開いた。と同時に、いままで力が抜けて透けていた身体の各箇所がまるでスイッチを入れられたかのようにパチンと元に戻ってゆく。
 おはよう、と美奈美は寝返りをうった。
 夢のつづきを見ていた、と白瓜のような額に片手の甲をあてて、美奈美はつぶやいた。その夢というのは、自分が死んでから三日半ほど失神していた時に見たものの続きだと言う。
 死んだのに失神するだなんておかしな話だし、そもそも、時間という尺度であの出来事を語ってよいのかもわからないけれど、いま思えばあれはたしかに失神のたぐいだった、と美奈美はまぶたを押さえた。美奈美はとつとつと語り出した。
 あの日、自分は自分の死ぬ瞬間がわかった。包丁が皮膚をぷつりと破る音が聞こえた。一度刺し込まれた刃先は自分の意思とは無関係にみるみる奥深くにまで達し、強烈な吐き気が脳天へと突き抜けた。まるで包丁の刺し込まれたその中心点がブラックホールのようだと思った。血しぶきを噴き出す自分のみぞおちの穴に轟音とともに自分が吸い込まれてゆくのが見え、超高速の砂嵐が明滅していた。そうして、ああ自分は死んでいく、とわかったのだ。
 気がつくと、立っていたのは無地の空間だった。空間は黒かったけれど、光がないのでその黒が闇であるとは思えなかった。目が覚めた時と同じ心地だった。でも、まぶたそのものがその場になかったからそれが覚醒だったと断言することができなかった。足もないけれどあしのうらの感触はあった。とろけた湯葉のような地面の感触があしのうらに触れ、ひろがっていた。刺された時の砂嵐の名残がざらざらとうねるように鳴り響いていた。はじめは不快感をおぼえたものの、しだいに音が心地よくなりだした。
 しばらくして、無地の空間にいくつかのまるっこい隆起が生まれた。
 それはゴム風船のように粘々とふくらんでいった。ゴム風船は極限までふくらむとパチンとはじけ、やぶれ目からいろんな生き物があらわれ出た。鹿がいた。うなぎがいた。ネザーランドドワーフや、鶏や、ひぐま、象、蛙もいた。かつて見たことのあるありとあらゆる動物たちが、虹色に光る薄い羊膜にぬめぬめと覆われて、桃色の透けた胎児のかたちで千切れた蕾のように辺りの無地に一面転がっていた。小さな内臓がきらきらと光っていた。どの胎児も半透明のまぶたの向こうからわたしを見ていた。
 ふいになぜか、異様な咽喉の渇きをおぼえた。安らかそうに転がっている動物の胎児や幼生のなかで、自分だけが水にかつえている気がした。おろおろと歩き回り、至るところに口を浸けてみるけれど、なんにもない。ここには水はない。
 それから三日半、咽喉の渇きに耐えながらひたすら無地の曲線を進みつづけた。そんな夢を、死んでから、この部屋にたどりつくまでずっと見ていたのだと、美奈美は言った。
 それで、いま見たその続きというのはどういうものだったの? わたしは訊ねる。
 それがね、あの時に出会った胎児たちが入っていた、ゴム風船のような羊膜のなかに、自分もすっぽり、入っていたの。あのまま静かに膜のなかに収まっていたら、きっといまごろわたしはどこかで新しく生まれていたのかもしれない。美奈美が手でまるい形をつくる。
 だけど、なんだかすごく気持が悪くなってしまって、怖くなって、自分を包んでいたその膜を引っ掴んで、爪を立ててやぶり裂いた、と美奈美は言う。やぶれ目から自分のやわらかい身体がこぼれ落ちて地面に転がったのが見えた。そばに同じように羊膜をやぶいて転がっていた半透明の豚と冷たい目が合った。
 ああ怖かった、と美奈美はみぞおちに手をあてた。穴からは、初めに見た時よりもかすかに混濁した水がしらしらと流れ落ちていた。
 京橋のあんな場所で男と刺し合って死んだということは、どうせあんたもわたしみたいにロクな商売してなかったんでしょう、と棘を含ませて問うわたしの顔を、美奈美は水そのもののような瞳でみつめかえした。
 彼女は、自分は「マミノアナ」という店で働いていたと言った。
 マミノアナ。わたしはケータイで「マミノアナ 京橋」と検索した。それらしい風俗店はひとつも見つからない。あるわけないよ、とわたしの頭のなかで美奈美は笑う。徹底して、ひとすじの光にも当たらないよう上手にやってるんだから、あそこは。桃色の気配を振りまいて、美奈美はベッドの上にとぐろを巻いて座っていた。
 「マミノアナ」は京橋のどこかにあるわ、とだけ彼女は教えてくれて、あの事件は、客の男と行為を越えて惚れ合っていた、ただそれだけのことだったのだと言った。

 それから何日か経つと、わたしの身体のなかを支配していた極度の疲労はすっかり溶けてもとどおりになっていった。
 週に二日出勤して、あまり愛着のない常連客やあるいはサイトのプロフィール画面やパネルでわたしを選んだ一見の客たちの身体にかしずく。相手をつとめる。男の体液と自分の汗が混じって腐った牛乳のような臭いを発しながら、帰宅する。繰り返す。兎川が会いに来てくれる日だけはなぜなのか息を吹き返す。靴擦れは、知らないうちにヤケドの痕そっくりに皮膚が固まった。兎川が律儀に通いつづけてくれるのと、新谷がほかの嬢たちよりもわたしに異様に優しく接してくれるような気がして、店を辞めるという話は靴擦れとともにいつのまにか消えていた。わたしも口にしなくなっていた。産砂や鱧野の代わりに入って来ていた新しい事務員たちも店に馴染んでいたし、嬢たちはどっしりと待機室に棲みついて日々の仕事をこなしている。
 稼いでいるはずのおそろしい額の金はどこへいってしまったのかわからなくて、月末は電車賃もなくなって、あわてて朝からたてつづけに三本しゃぶって稼いだ十五万円を握りしめてふらふら帰宅すると美奈美が部屋に腹這いになって、開きっぱなしの雑誌を読んでいたり、薄暗い浴槽内に大輪の花のようにエメラルドグリーンの裾を広げ、オフィーリアとまったく同じ姿態で浮きつ沈みつ眠りについていたりする。顔の右半分を水の中に沈めて口を開け、寝ながら口の中に水分を取り込んではみぞおちの穴から出して循環させている。
 その様子はわたしを腹の底から苛々させた。
 なぜなのか苛々が止まらない。このまま置いていたら、美奈美にわたしの人生を取られてしまう。あんたなんか、さっさと弔ってあげる。弔ってやって、もういっぺんきちんと死んでもらって、あんたが夢で見たうなぎや、ネザーランドドワーフや、鶏や、ひぐまや、象や、蛙なんかにいさぎよく生まれ変わればいい。
 白ワインをかっくらって舌打ちをするわたしに美奈美は蛙のように黒目をにゅうっと巨大化させて目玉じたいをこぼれ落としかけながら、そんなことより咽喉が乾いた、もっともっと水をちょうだい、と言う。
 美奈美は底なしに欲望をくちにする。まるでわたし自身が水であるみたいに。その、水面に向かって。

     ***

 機種変更したてのスマートフォンを兎川と逢う時の部屋のソファに立て掛けて、彼に言わずに行為の全編を撮影してみたのは、世間が夏休みの熱に浮かされはじめた頃のことだった。
 ちょうどいまの機種の二年契約が切れるというメールが来ていた。それで、以前からコマーシャルで目にして気になっていた、背面にクリスタル加工が施された可愛らしいあの新機種に変えてやろうと、出勤前にケータイショップに行き、手続きを済ませた。
 出勤すると、新谷とバイトの事務員が何かの話題でわっと盛り上がっていた。おはようさん、と、話題の熱気を顔にこびりつけたままの新谷が、どきりとするような笑みでわたしに振り向いた。ふだんの新谷ならけっしてわたしに見せることのない無防備な笑みは、石狩を思い出させた。出勤してきたわたしを石狩はいつもさらりとした笑顔で出迎えてくれた。憂鬱な面持ちで事務所のドアを開けるわたしに、その笑顔はまるで上質な化粧水をたっぷり滲み込ませた、ひたひたのコットンのように効果的だった。
 きのうもゲバラから電話があって、またくだらない話の相手をした。わたしは懲りずに石狩の近況を訊ねた。
 石狩はいま土地を管理する仕事をしているのだとゲバラは言った。ゲバラによるとなんでも石狩は、わたしがホテヘルとして働いているこの風俗企業をじつは二年前に一度辞めていた。それから半年ほど、ホテル街とはすこし離れたところにある喫茶店でボーイをしていた。その店が閉店することになって、わたしが面接を受ける五ヶ月前に結局またここに戻ってきたけれど、二度目の退職である今度こそほんとうに戻ってこないつもりで、その喫茶店の所有者だった男の不動産業務を手伝っているのだという。
 あいつは顔もいいし優しくて根が真面目やから、どこ行ってもエエ働き口が向こうから転がりこんできよるんやわ。ゲバラはうらやましそうな声を出した。そんなことより石狩に久しぶりに会いたい、会わせてほしいと頼み続けるわたしを心底めんどうくさがっているゲバラは、シッシッと犬を追い払うように鼻を鳴らして、いつもそう言うけどなァ、実際あいつはもう里緒音ちゃんのことなんて憶えとらんと思うよ、いくらひいきして世話した嬢やいうてもさ、店で働いてた子はそれこそ星の数ほどおるわけやし、フーゾクなんてあいつの過去なんやから、ぜんぶ鍵付きの箱の中に仕舞ってしもてるやろ、こう言うと酷かもしらんけどさ、辞めたんはあいつやねんから、そのフーゾクの真っただ中におる里緒音ちゃんがわざわざ会ったら、あいつはもしかしたら何かの拍子に傷ついてしまうこともあるかもしれん。里緒音ちゃんと石狩の友情は仕事の副産物やったわけやろ。
 なんでゲバラがそこまでして頑なにわたしと石狩を引き合せたがらないのか、ほんとうにわからない。苛々する。石狩は傷つけたらいけないのに、わたしのことはいくら傷つけてもいいというのか。いま電話してきているあんたとわたしの関係こそ、わたしと石狩の副産物じゃないかと思わず叫んで電話を切ってしまったわたしのもとへ何時間後かにおずおずとメールが届き、さっきはすまなかった、お詫びに冷蔵庫に大事にとってある水茄子の高級ぬか漬けをふるまうから、ちょっと呑みに来ないか、と言うのでのこのこ出掛けた。前回遊びに行った時とはまったく別の部屋ではないかというほどおそろしく片づいていた。木彫りのファンシーな置物まで窓の桟に飾られている始末だった。女がぜんぶ勝手にやったのだとゲバラは照れて、おいしそうな水茄子と日本酒を出してきた。白菜と豚肉のミルフィーユ鍋のようになるまでふたり折り重なってくたくたに呑み潰れ、朝になってゲバラ宅を出てわたしはケータイを変えた。
 「プラージュ」の和室で待っていた兎川はわたしがソファにスマートフォンを細工していることに気がつきもしなかった。
 その日は彼が持ってきていた錠剤を飲み、服を脱いだ。店のルールではおもちゃも薬物も持ち込み厳禁で、ほかの客だったらもちろん店に報告して出禁にしてやるけれど兎川にだけはわたしはもう何でもゆるした。いっそついこのあいだまで考え詰めていたように店を辞めて兎川とだけ関係を持ち続けたらよいのかもしれなかったけれど、わたしがひとりの女に戻った時にはもう兎川はわたしを欲しがらないだろうという確固たる予感があった。
 兎川の手がわたしのおっぱいを包み込んでいた。肩には兎川の顔がバイオリンのようにのっている。兎川の細い顎はわたしの鎖骨にぴったりと嵌め込まれていた。なんだかまるで生まれた時からそばにいるのでどちらともなく繋がってしまった幻想的な動物のようだと思って、キスしていたくちびるをわずかに離し、つい兎川に、ねえ、わたしのこと好きなんだったら恋人にしてもらえませんか、と、告白した。
 ボルドーの眼鏡の奥にある斜視がゆれた。くちびるの薄皮が噛み千切られた。血があふれ、温かく甘い味がした。兎川は何度も何度もわたしのくちびるの肉を噛み千切った。だめですね、と言う兎川の前歯にわたしの血がにじんでいる。だめですね、そんなことより僕は、あなたを救ってあげたいと思う。あなたがあなたでいられないぐらいに可哀想なことをしてあげたら、それはなによりの救いになるに違いないと、思わない?

 兎川に求められるがまま、ややこしく身体を折り曲げ、ベッドの上で棄てられた枯れ枝のようになるまで性交したその一時間半の映像をわたしは、図書館で借りてきた調べもの用の本を広げながら鑑賞した。
 本は民俗学の文献で、ちょうどヒンドゥーの、死んだ夫とともにその妻が生きたまま焼かれ埋葬される「サティー」という風習の箇所に目が止まったところで、スマートフォンの映像は終了した。遠いインドの葬式の現場などきっと一生見ることはないだろうけれど、火が身体にまんべんなくまわって蝋人形のように硬直し、目玉や鼻を溶かして汁を垂らしみるみる焦げていく夫の死体の隣に寝ころばされた貞淑な妻が同じように焦げてゆく様子は、まるで棺桶に詰め込まれた花のようだ、と思った。
 美奈美はわたしが家で休んでいる時はいつも底なしで水を欲しがる。ひとりで風呂に浸かっていればおとなしい。贅沢な日の彼女は、浴槽に浮き沈みしながらわたしを呼び、片手をひらひらと伸ばして、ねえお水をちょうだいよ、咽喉が乾いて仕方がないの、と訴える。水にすっかり浸されて満ち足りているというのに何をまだ欲しがるか、と腹が立つ一方で、水に浮いている時の美奈美の腕や脚は芯の芯までみずみずと美しく透き通り、つい水をやって美しく育ててやりたいという気持にかられてしまう。それで、やってしまう。
 ある日、わたしが帰宅すると美奈美が玄関からキッチンに続く狭い廊下に倒れていた。
 あわてて抱きあげ、水を与えた。それでも美奈美は正気に戻らなかった。浴槽にじゃぶじゃぶ浸けて、冷蔵庫のハイネケンを飲ませたらようやく薄目をあけてくれた。その日から、美奈美はどうにも調子がもどらないようだった。
 ちょうど同じ頃、暑さにやられたのか、黄色い斑点を浮かべてネジレモが枯れはじめた。そうして美奈美もそれとそっくりに、腕や脚の先に濁りを浮かべて、弱っていく。
 窓辺に座っている美奈美は、エメラルドグリーンのワンピースの裾を指でちらちらもてあそび、長い長い時間、遠くのどこかを見つめていた。部屋に散らかっている開きっ放しの画集や小説にわずかな興味が残っているだけで、ほかのものにはとんと接しなくなってしまった。桃色のオーラもしぼみ、全身がトンボの羽翅のように骨と毛細血管だけを残してすっかり透けてしまっていることもあった。投げ出したあしのうらのトモの部分にだけは、かすかに桃色のほてりが残ってはいたけれど。

 兎川との隠し撮りのデータが増えていくにつれてわたしの心のなかを占める兎川の容量もゆっくりと重みを増していった。仕事中に石狩のことを憶い出して恋しくなったり、かなしい気持になることが少なくなっていった。兎川はわたしに親身にしてくれて、そんな瞬間はとても石狩に似ていると思ったし、近眼が幸いして細身で色白であればそれだけで石狩との共通点を見いだせて満足した。なにより石狩はわたしに「里緒音」というたくさんの意味の詰まったすばらしい名前を与えてくれたというそれだけでわたしにとってはじゅうぶん過ぎるほどに愛をくれていたのだとも考えられるし、わたしはいまも「里緒音」として生きている。
 夏が熟れた盛りを過ぎて、九月の影が背後に迫っていた。
 ある晩、兎川がプレイ後に黒革の手帖のページを一枚おもむろにやぶってわたしに手渡した。その小さな紙片には兎川の連絡先が記されていた。「プラージュ」の和室に生けられていたリンドウをわたしの髪のように撫でる兎川は、わたしを食事に誘った。
 三日後の金曜日にわたしたちは肥後橋で落ち合った。居酒屋やカラオケのあるけばけばしい通りを逸れてしばらく路地をすすみ、白いレンガ張りのビルの地下へと入っていくとそこは、兎川の高校時代の同級生がやっているという中華ダイニングバーだった。高校を出たあとインテリアの専門学校に進んだというその同級生の趣味で、広い店内には形の異なるいくつものソファとロウテーブルがバランスよく置かれていて、兎川はいつもそこが定位置なのだという背の高いモンステラの蔭の広いソファに腰を下ろし、わたしはその向かいの赤い猫足の一人掛けソファに座った。
 兎川は生ビールを一気にあおってすぐにモヒートを注文し、わたしは白ワインをもらってエビチリや蒸し鶏が運ばれてくるのを待った。兎川はタバコに火を点け、吐き出すと同時に口を開いた。
 僕の目の前で呑み食いするのって初めてじゃないですか。
 はい。と、わたしは頷いた。
 僕が思っていたよりも生々しい呑み方をするんですね、アイドルはトイレに行かないっていう冗談があるじゃないですか。僕はあなたのこと、もしかしたら人類でひとりだけ呑み食いなんかしやしない存在なんかじゃないかと想像したこともありました。
 兎川さんのおちんちんはしゃぶって、食べてたのに?
 はい。僕のチンコはしゃぶっていたのに。
 モンステラに寄りかかるように腰掛けている兎川の、スーツを着ているその姿が裸体よりも裸体らしく見えておそろしいほど淫らだと思った。わたしは兎川に向かってわざとくちびるの粘膜を大きく覗かせ、見せつけるように料理を口にした。白くて紙のように薄い皿に、こぶしにおさまりそうなほど少量のエビチリが盛りつけられていた。兎川の同級生が気をきかせて持ってきてくれた十何種類のチーズは、どれもワインによく合って身体の奥にとろけていった。兎川に見劣りがしないようにと着てきたサンローランの黒いワンピースのドレープをいつのまにか強く握り締めていた。シャワーを浴びてきたばかりだというのに脂を含んだ前髪が分かれて、まぶたにかかった。

     **

 店から出たあとはそのまま兎川に連れられ、とりあえず近くのバーで呑み直し、そこではブラックルシアンを手にした記憶しかなくて意識がきちんと戻らないままわたしは身体じゅうにタクシーの消毒液の臭いをつけて兎川の家に運び込まれていた。兎川はわたしを肩にのせて抱きあげマンションのカーペット敷きの廊下をすすんだ。部屋はさっき飲んだブラックルシアンのように暗かった。傘の深いスタンドライトの光しか点いていないのに逆に暗闇が光よりもまぶしくてたまらず、必死に目をつむろうとした。手から足の先まで筋肉ぜんぶが痺れていた。兎川のマンションは豊中にあると聞いていた。カーテンの隙間からは妙に潤いを帯びた夜景が覗いている。兎川は天井の電灯のスイッチを入れなかった。嘔吐しそうになるのをこらえてなんとかうつ伏せたガラスのテーブルの表面にまでも、兎川の体臭が沁みついている。ここは兎川の家なのだ。呼吸をするたびにガラスが曇り、自分が自分の居場所でない暗闇にとうとう流れ着いたのだと感じる。
 トイレを済ませ浴室で下着だけになってきた兎川は完全に酔いつぶれているわたしのそばに立っているらしかった。もうろうとしているわたしの耳には言葉としては届かないけれど兎川はなにやらものすごいスピードで饒舌に語っていてわたしにはそれが濁流のようだった。無理やりこじ開けられてキスが来た。合わさった互いの歯から酒と歯垢の臭いがした。
 きゅうに鼓膜がクリアになって兎川の言葉がきこえてくる。
 兎川はわたしの身体の隆起をくまなくなぞりながら、新しい遊びを思いついたと言った。
 何分か経ち、わたしを抱きあげた彼の手に握られていたのは大きな厚い綿の袋だった。わたしひとりくらいかんたんに収まってしまいそうに大っきい、と思っていたら、そのとおりに兎川はわたしに袋をすっぽりかぶせてわたしの肩と脚のところに調理用ハサミでまるく穴を開け、そこから手と足を引っ張り出したからわたしは手足のはえたダルマになって、それがなんでなのかめちゃくちゃ面白くて、ゲロと酒の臭いのする笑いをわたしは何度も何度も袋のなかで放りあげた。わたしが手足をぱたぱた動かしていると兎川がすこしだけフキゲンになり、やっぱり穴を開けるべきじゃなかったか、と低い声で言って、どこからかロープを取ってきて両手は後ろに両足は前にそれぞれまとめてするする縛った。スマートフォンはソファに器用に立てかけてあった。部屋に連れてこられたからにはぜったいに性交するにきまっていると酔いつぶれながらもそれだけは頭が働いてきちんと録画を作動させていたのだ。
 袋のなかはきゅうくつだった。手と足が外に出ているのがよけいにそう思わせた。どこかで見たことのある光景だった。そうだ。わたしは憶い出す。不思議の国をさまようアリスが時計ウサギの家に上がりこんで、壜に入った液体を飲んだらあっというまに巨大化してしまって、煙突だか窓だかから手足をすぽんと出すと散々な目に遭ってしまう、あのアリス。それがおかしくて笑い声をあげるわたしを兎川は起きあがりこぼしのようにこづいて罵声を浴びせかける。
 一瞬兎川の気配が消えてまた戻ってきたと思ったら頭から勢いよく水がぶっかけられた。
 綿の布地はみるみるわたしの顔じゅうに張りつき鼻の奥は完全に塞がれ混乱して思わずひらいた口のなかの前歯や舌の隙間にまで布地はくさびのように侵入してきてわたしはリビングの床で溺れた。
 呼吸ができずにのたうちまわり床に顔をこすりつけてなんとか鼻や口にすきまを作って息をしようともがいているわたしの頭を兎川がフローリングからひっぺがし今度はあおむけに叩きつけて、もう一度水をぶっかけてそれから濡れて貼り付いたわたしの口のくぼみに性器をこすりつけ、ああ、と声をあげる。てのひらをかぶせて乱暴に性器を押しつけてくるので酸素不足のわたしは白目を剥いてふるえている。袋状のわたしをぎりぎりまで性器でもてあそんで意識をうしなう直前、兎川は指で口もとの布地をつまみあげ、すきまをつくり、強烈なビンタを食らわせてわたしに呼吸を促してくる。また水をぶっかけられる。袋のなかで自分の身体がブヨブヨと巨大化していくようなもうろうとした感覚に支配される。何度も床に頭を打ちつけられたから脳震盪を起こしていたのかもしれない。濡れた布の上に射精されて鼻の穴にどろりとしたかたまりが染み込み脳みそまで白い液体に犯されたみたいで今度こそ意識がぷっつり切れた。

 鈴虫とハトの鳴き声で目が覚めて、手足のロープはもうはずされていたのにわたしは縛られた形のまま手をそろえてソファの下にうずくまっていた。袋は生乾きで身体に貼りついていた。卵から孵るヒナのように筋肉痛で固まった手をすこしずつ動かして袋を脱いだ。全身が生臭く、頰や下腹がふやけて鏡で確かめなくてもおそろしく醜いすがたになっていることがわかった。ソファでは上半身裸の兎川がまぶたに手の甲をのせて深く眠っていた。鼻だけでなく口のなかは粘っこかったし立ち上がったら股から精液が垂れてきたので、きちんと性交もしたらしい。性器とお尻の感覚がおかしい。性器と肛門が腫れてはいるもののひどい傷になるまでいじくられたわけでもなさそうだった。床には乳首と性器と足の指を結ぶクリップの付いたチェーン、巨大ディルド、シリコンのクリカップ、ステンレスの浣腸注射器やらが床に散乱している。水を吸って重くなった袋をパジャマのように勝手に洗濯機に放り込んだ。大きな窓の洗面所はすっかり朝で、暑い光のすじが鏡のなかのわたしの顔を浮かび上がらせている。脂と水を吸った髪の毛がへばりついて気持ち悪かった。シャワーを浴びて生き返って兎川の使っているシャンプーのいい匂いをただよわせてまだ寝ている兎川に抱きついてわたしもちゃんと人間のように眠りたかった。でも、シャワーの音で兎川を起こしてしまって、形相を変えた兎川にゆうべのように罵倒されて追い出されてしまうかもしれない。朝の光のなかで兎川に罵倒されて、ちょっとだけ信じていたかすかな愛情みたいなものが握りつぶされるなら殺されたほうがマシだと思った。
 そっと覗いた浴槽に冷めた湯が溜まっていたから、ひとつの水音もたてないようにそのなかへ滑り込んだ。死にそうに咽喉が乾いていることに気がついて兎川の垢の浮いた風呂水を夢中で飲んだ。

 タオルが見あたらなかった。濡れたままワンピースをかぶった。キッチンに行くとブドウや桃がある。シンクの包丁を借りて桃をするする剥いた。ひとくち食べた。兎川はまだ寝息をたてている。さっきよりも姿勢がくずれて横向きに身体をまるめている。ソファの下にわたしのスマートフォンが蹴り落とされているのを見つけてあわてて回収した。ロックはかけてある。鼓動が高まって口から心臓が飛び出しそうになる。
 どうせだったらゆうべ、裸の芋虫のようだったわたしを完全に窒息させて殺してくれたらよかったのに。殺して袋のまま猪名川にでも棄ててくれたらよかったのに。と、兎川を見下ろしながら思った。
 店外で客と痴情のモツレで死んだのならきっと二十二時の大きいニュース番組でも取り上げられるんだろう。濡れた袋越しに性器を押し付けられて死亡、だなんて公共の電波にのせて放送できないから暴行、直接的な死因は窒息死、わたしは接客業の二十歳。部屋に転がっていたスマートフォンから容疑者–被害者間のあられもない行為が明るみになって。モザイクのかかったウチの店のサイトや看板、ビルの外観をバックに、淡々とニュースが読み上げられる。それを、不動産の仕事から帰宅してやれやれとスーツすがたのままコンビニ飯を掻き込んでいる石狩の目に止まる。石狩は見おぼえのあるわたしの証明写真とぼやけた店の外観にハッとする。握っていた割り箸を落とし、あわてて店かゲバラに電話をする。でもそんなのお涙ちょうだいバラエティ番組の、珍人生を歩んできた子どもが大人になってテレビ出演してお母さんこれを見ていたら僕に連絡をくださいと言って司会者といっしょに泣きくずれるみたいな、ああいうバカっぽいものと一緒になってしまうからそれはイヤだし、だいいちそんな都合のいい話があるわけないのはわかってる。ああ、石狩に会いたいな。いますぐ石狩に会いたい。最初に面接してくれたあの日に戻ればいいのに、そしたらわたしはもっとマシな顔でマシな化粧でマシな服で、石狩のことが最初からずっと気になっていたって顔で、石狩と出会うことができたのに。
 いまはもう石狩のいない京橋の駅前の街に意識が飛んでいく。いまはもういないけれど、でも確かに、出会ったのはあの場所だったのだ。そしてあそこは、美奈美が客と恋をして、モツレて、死んだ場所だ。
 あの場所で刺し合うその瞬間にいたるまで、美奈美はいったい、どんなに烈しい感情の波にその身をもまれていたのだろう。もし相手が石狩のような男だったなら、どんなにか愛おしかったことだろう。
 京橋のどこか、ギュウギュウの乱杭歯のように建っているビルのうちのひとつに、「マミノアナ」という店がひっそり開店している光景がぼんやりと見えてくる。石狩と同じ顔をした客の男が、入り口で美奈美を指名する。指名されて待機室からシッポを振って美奈美が飛び出し、客に抱きつく。今日も来てくれたのね、うれしい。大好き。愛してる。
 そのうち店で会うよりも、プライベートで愛し合うことが多くなる。それでも待ち合わせはいつも京橋だった。あの日の待ち合わせもそうだった。どうやってそこまで来たのかを夢のなかでは憶えていないのと同じように、どうやってあのJR環状線京橋駅と京阪京橋駅をむすぶ北口のひらけた空間にふたりがたどり着いてしまったのか、もう憶えてはいない。それでも、握りしめている包丁の感触はずっとずっとむかしから記憶のなかにあるようだった。大量の人間たちがごうごうと行き交うその真ん中で、彼と向き合っていた。最後に何を話したんだろう。街の喧騒が心臓の鼓動のように高まったあの瞬間、包丁の先が彼のみぞおちに吸い込まれるように突き刺さった。
 ギャーッ、という耳をつんざくような絶叫がその時、響き渡った。
 吹き込む風でカーテンがふくらんでいた。白っぽいフローリングに、生まれて初めて見るような赤い点々が散らばっていた。自分の手がなにかを握っていた。
 わたしが包丁を握りしめていて、包丁は兎川の手の甲をつらぬいていた。
 ヴァーッ、と兎川は絶叫してソファから飛び起き床に転がり落ちた。包丁は手の下のソファ生地まで貫通していて転がり落ちる瞬間に手だけがダーツの刺さった的のように打ちつけられたまま、さらに深く肉が裂けて泡のような血があふれた。わたしはとっくに包丁から手を離していたようだったけれど、てのひらにはまだ包丁の重みがはっきりと残っていた。足もとにさっき剥きかけていた桃の実がボトン、と落ちていた。
 言葉にならないどろどろの黒く鋭い叫び声をあげながら兎川はうずくまって全身をふるわせて自分の手の甲から包丁を引き抜き、よだれを撒き散らして手の甲を胸に押しつけ、立ち上がろうとしてよろけては高級なソファに寄生虫のようにもがきつづけている。血で靴下が滑ってその拍子にスラックスが脱げて尻と性器があらわになる。里緒音、里緒音、里緒音、とわたしの名前を呼んでいる。
 わたしはいったい、なにをした?
 全身から血が引いた。真っ青な鳥肌がひろがっていく。
 キッチンに走ってひねられるだけ蛇口をひねって包丁に付着している血を洗い流した。兎川はずっとわたしを呼びつづけている。お願いだから黙ってよ、と髪を振り乱しこぶしでシンクを叩いているわたしの顔がキッチンの丸鏡に映っていた。水切りかごに包丁を転がす。チェストの上にある兎川のサイフには二十三万円入っていてぜんぶ抜いてからちょっと考えて一万円だけとった。きのう自分が着ていたマオカラーシャツをずるずる手に巻いて消え入りそうな呼吸で倒れている兎川を最後に見つめてわたしは部屋から逃げた。

     *

 アパートの部屋のテレビは点けっぱなしで、タラスという奇妙に美しい名前の台風が迫ってきているというのが昼のワイドショーのトップニュースとして流れていた。ワンルームのなかを見回しても美奈美はどこにもいなかった。ただ、窓辺のネジレモの壜が乱暴に倒れていた。こぼれた水の跡はなく、ネジレモそのものもなくなってただ、空っぽの壜だけがそこにあった。美奈美、と呼びかける。美奈美。テレビは重要なニュースを縦横無尽に行き来している。わたしはバッグを放り出して浴室に飛び込み、愕然とした。
 水のなくなった浴槽の底にあおむけの美奈美が転がっていた。
 けれどもその顔は、美奈美ではなく、まぎれもないわたし自身の顔だった。
 やわらかな茶色の巻き髪はたしかに美奈美のそれで、あのエメラルドグリーンのワンピースを着ていて、なのにそこにある顔は水鏡を覗き込んだようにわたしのものだったのだ。ワンピースの裾はかきむしったようにまくれあがり、そのみずぼらしい下半身や乳房も見おぼえのある自分のパーツだった。腐乱してはいなかったけれど牛乳の膜のようなモヤが目玉にかかって、焦点を失ってぽっかりと見ひらかれていた。
 浴槽のふちを掴んでいた手を離した。なにか予感のようなものが脊髄から脳天に突き抜けて、部屋に駆け戻る。ワイドショーが東京に完成した新しいリゾート施設の特集をやっている。部屋は光で満ちている。本棚の近くに立てかけてあるコルクボードに気配を感じてふりかえる。クーポンや請求書がべたべたと貼られているなかに一枚だけ写真が飾られている。
 鈴の音のような得体の知れない音が周囲からさざめきたった。
 齢の近い何人かの派手な女とピースをしているわたしの写真。
 「mami no ana」という店の名前が、写真のなかの右上にある看板にきざまれている。
 この写真がここに貼ってあることをわたしはずっと知っている。なのに知らないことがひとつある。なんで、どうして、満面の笑みでピースをしてここに写っているわたしは、なんで、いままさに浴槽に横たわっている、美奈美の髪型と服装をしているあのわたしなの。
 やわらかな茶色い巻き髪を風にゆらしたエメラルドグリーンのワンピースすがたのわたしが、頭のなかに色鮮やかによみがえってくる。まちがいなかった。彼女はたしかに、最初からわたしだったのだ。
 むかしからこのワンピースが好きで、お気にいりのシチュエーションの時にはかならず着ていった。茶髪の巻き髪は、ひとから染めたほうがいいと言われて、まめにカラーリングに行っていた。
 ざらざらという耳慣れない雑音がしていた。立ち尽くしていたわたしは浴室に戻った。転がっている自分の死体を抱き起こそうとして、伸ばした手が止まった。空っぽだった浴槽の三分の一ほどが、泥で埋まっていた。
 泥は、いままで絶えず水を垂れ流していたあのみぞおちの穴からごうごうと吐き出されているのだった。
 上半身を引き寄せた瞬間にいっきに泥が排出され、みるみるうちにわたしの体を埋めていく。このまま放っておけば、止まらない泥が浴槽を割り、あふれ、廊下に流れ込んで部屋まで侵食し、いずれはその重みでこの部屋の底が抜けてアパート全体が巨大な泥のかたまりと化してしまうだろう。泥はとけた砂糖のように粘っこくてのひらにまといつく。ひとりぼっちじゃ止められない。もうあとには戻れない。とうとう声をあげて泣き叫んだ。
 のんきな着信音が鳴り響いたのはその時だった。廊下のバッグのなかからスマートフォンを拾いあげる。電話越しの声を耳にしたとたん、しだいにかすんでいくわたしの、というよりも美奈美の記憶のなかから、あの男がチェ・ゲバラのような濃く硬いヒゲをした、勇ましいすがたで飛び出してきた。
 おい。と、太い声がわたしを抱きしめる。
 おまえ、何かあったんかよ、きのう夜中に電話かけてきたやろ。おまえはかけたつもりなかったやろうけど、たぶんまちがえて通話ボタン押してもうたんやろ、とにかくこっちにかかってきて、すんげえ声が聞こえてきたからさ、そのうちプツッと切れよるし。あのあと俺すぐにかけなおしたんやけど、繋がらんかったんや。ほんま、ようやく繋がったわ。ほんで、なんやきのうのは。客とプレイしてるところ俺に聞かせようとしたんかいな。アホやなあ。それどっちが言い出したん、え、客のほう? そらそうか。おまえが金もろてんねんもんな。俺はさ、ついにおまえがキチガイになったんかと思ってドキドキしたわ。さいきんおまえ酒ばっかウチに呑みにくるやろ、え、いや俺が誘ってばかりちゃうやん、さいきんはおまえがどうしても酒が呑みたいつってさ、どうしても呑みたいって、いつもすぐに喉が渇いてしょうがないんだって、お願いだから水が飲みたいって泣き出すから、じゃあおいでって言ってやっとるんやろうが。ほんで、どう、きょうもウチ来ていっしょに呑むか?
 スマートフォンを耳と首ではさみ、わたしは浴槽のなかの力ないわたしを必死で抱えた。みぞおちからあふれる泥は永遠に止まりそうもなかった。ごうごうと割れるような音にのみこまれていく。泥に埋もれていく。ゲバラの声に涙がほんとうに止まらなくなって泥の流れる音よりもつよくつよく、お願いだから今夜こそ石狩に会わせて、石狩に会いたい、わたしはどうしてもあのひとに会わなきゃだめなの、と叫んで、まるで目の前にゲバラのぶ厚い胸板があるかのように穴のあいた自分の胸に頭を打ちつけると、おい、いったい何があったんだよ、いますぐ飛んでいくから住所を教えろとゲバラも絶叫していて、わたしの首からスマートフォンが滑り落ちていって泥の海の底にあっというまに消えていった。(了)

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