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久しぶりの視線

通勤時の運転中、窓の外から恨めしそうな視線を感じた。
ふいに目をやると、斜め右上の端にでっかいバッタがいて、私を恨めしそうな目で見つめていた。
驚いた。いつからそこにいたのか。
自宅から車に乗り込む時は全然気がつかなかったのに。本来ならバッタは草むらが好きなイメージだが、なぜ私の車にしがみついている?  サイズが大きいので、カマキリと間違えたほどだ。

虫嫌いの私は動揺した。
しかし運転中。事故を起こすわけにはいかない。心を冷静に保つよう言い聞かせ、アクセルを踏む右足に力を入れた。
車のスピードが加速する。
黒い私は、風の抵抗によりヤツが吹っ飛ばされるのを期待したのだ。
 
私が向かう職場は、自然豊かな田舎にある。
長い距離を運転するが、その日は青信号ばかりでノンストップだった。

『ツイてる! さっさと吹っ飛んでくれ!』
 
しかし、でっかいバッタは向かい風という逆境に負けずに踏ん張っていた。
なぜそこまでして逆風に耐えるのか。
バッタにしつこく追いかけられているようで居心地が悪い。
 
若草色の腹が、ガラス越しに見えた……。
 
腹を見せる行為で連想するのは犬だ。
犬は己が心を許した相手に大の字になり、地に背を擦り付け無防備になる。私は犬が苦手だったが、犬が腹を見せる行為を真剣に考えた時、苦手意識が和らいだ。
人間と違って、犬が腹を見せる行為に表も裏もない。
命ある者の腹を見ることは、どんな状況であれ、特別な事だと思っている。
 
運転席側にいる大きなバッタは、普通なら滅多に見ることの出来ない若草色の腹を晒している。内側から腹を見られるだなんて、貴重な経験なのかもしれない。ガラス越しとは言え、見たくもないバッタの腹を、私は強制的に見させられているのだ。

赤信号にぶつかった。
バッタがいる窓ガラスを叩き、心の中で叫んだ。

『今のうちにどこかへ消えて!! 』

しかし、バッタは逃げる様子も見せない。
虫だからそんな機転も利かないのは分かっているが、バカか! と言いたかった。今が逃げるチャンスなのに。
ならば窓ガラスを開けて、デコピンでもして解放させればいいのだけど、私にそのような勇気はない。
私は焦った。このままでは車内から外へと出る時にバッタに絡まれ、クールな私が人目もはばからず奇声を発して逃げるという世界線を歩むことになってしまう。
私の焦りと不安をよそに、バッタはガラス越しに腹を見せて余裕な素振りだ。
私は苛立った。

『もうどうなっても知らない! ついてこれるなら最後までついてこい!! 』

バッタに挑戦状を叩きつけた。
 
車を発車させる。
先頭車両は私だ。
悪いが、いつも以上のスピードで車を走らせた。
若草色の腹が激しく振動した。
風の抵抗がすごいのか、羽がだらしなく開き出した。開いたら余計風の抵抗を受けそうで危なっかしい。恨めしそうな目は見えないが、きっと、恨めしく感じているに違いない。それか、そんな余裕すらなくなる風抵抗なのか、バッタは必死にしがみついたまま離れることはない。
その気力はどこから来るのだろうか。
そのしぶとさと根性には、嫌悪感を通り越してリスペクトに値する。
私はコイツには勝てないと思った。

長い時間ドライブを共にしているうち、もうどうでも良くなった。
スピードも緩くなる。
ここまで来たなら最後まで付き合ってもらいたい。
一緒にゴールしたなら、助手席側からヤツを避けて車を降りれば良いだけのことだ。

私は職場へと入る門を左へ九十度曲がり坂を上った。敷地内を徐行する。
 
『よし。ゴールはすぐそこだぞ!』
 
ふと右斜め上を見上げると、そこにはもう、彼の姿は無かった。
 
ゴールはすぐそこだったのに……。
 
私はなぜだか悲しい気持ちになった。
 

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