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流れ藻 2. 壕

2. 壕

全く馬鹿な、凡そおろかな、数日をそのときには、ただ必死の思いで致し方ない日々を真剣に過ごしていたのだ。するべき事がもっと他にあった筈の私達はただおびえ、おののいて、その穴蔵にしがみついていた。

一面街の郵政局で貯金を引き出し、有価証券を換金すると云う知恵も出ぬうちに局は閉鎖されていた。野ざらしで ポカンとしていた一日にこれらの手配をするべきだったのに。

壕の生活は裸の心をむき出しにした女族のみにくい蠢(うご)めきにすぎなかった。

隣組での訓練をうけたこんな日のためのチームワークは、うろたえた自我と血迷ったエゴの前には何の役にもたちはしなかった。

自分だけ、わが子だけ、究極はそれだけだった。

穴蔵の席順、位置にひと悶着、食事当番、見張り、歩哨の人選、順番、時間にあれこれ身を守る本能とは云えこれらすべてのイザコザにうんざりさせられ、耳に浅ましい叫びとなってこだました。

こんな一群に外部からの飛び入りは青ものを運ぶニーと白系青年ラロッシュという会社の運転手(元)だった。ラロッシュはニュースを運んでくれた。

「ホロンバイルに戦車隊が突入した。将校夫人達は戦車めがけて自害した」

「母親たちは子を絞め殺して果てた。敵兵に拉致され凌辱されないために」

「日本人として立派な最期にするために」

などなどと。

壕内の空気は、さっき迄生きるために座り心地がどうの、通風がどうの、逃げ道が遠いの、としのぎを削って奪い合ったショバ争いなどケシ飛んで、これ等の悲壮なニュースに打たれたのか、または酔ったのか、

「お国のために死ぬ事こそ美しい」  

愛国者に、忠義者に、死の賛美者にと浄化されていった。


それから各々それぞれ一隅を占めて動議された事には、

「万一の場合が目前に来ている、依って、死ぬ順番を決めねばならない。       
 見事に全員果てるべきだ。
 きっとそれぞれの夫君も祖国の人たちも満足するだろう、立派だった、よくやったと褒めるだろう」

といった主旨で、小さい順に殺してゆくことに決まった。

誰にも異議がないのか、みんな黙っていた。

穴蔵に灯したロウソクがゆらめいていて、そこに良子(注: 著者操子の第ニ子)の寝顔があった。誰もの視線がこの生後七ヶ月の児にそそがれていた。

真っ先に殺されるのが、わが子だから承知しないのではない。三番目だろうと重番目だろうと五歩の開きもあるまい。

何かにとりつかれた様な、高圧的な、それでいて憐れみを垂れた様な多くの眼が、もうその事が決定した様に、良子に注がれていた。

「私は逃げます。子ども達をつれて逃げられる限り逃げます」

私の言葉が意外なのか、不審そうな眼の人々の中からも

「私も逃げる」
「子どもを殺せない」

と云うひとが続いた。

先刻、その方法を、懐剣の刺し方、ピストルの使い方、まで決めていた一同には拍子抜けした思いと同時に、どうして逃げようかと考え始めた様子になった。

誰にも解らない、どんな事態が、どんな風に次の瞬間私達を襲ってくるのか。

非戦闘員の私達に何一つわからない、銃後の守りの、たしなみの、と字で書かれた物を読んだ記憶などふき飛んで、 異邦で、異民族の中で、敵襲を待つ、いまはの時の何の足しにも、わたしの知識は及ばない。

逃げると決めた翌朝は紺碧の快晴、壕などで妖気にあてられているに惜しい大気。洗ったものを干していたら、爆音がした。遠く双翼下駄バキ機が現れた。B29などの最新型も来なかったが、こんな旧型も珍しくてみんな壕から 首を出して見上げていた。近くに来てグンと高度を下げて大きく旋回をはじめた。

「アッ 日の丸だッ」

男の子達が叫んだ。

「奥様、友軍でございますわ」

の声。頼もし気に見ていたらビラを投じたが遠くへ散り何のビラか解らない。あちこちと投下していると思ったら爆撃音がした。満鉄病院のあ たり、山際らしい。二度爆撃音がして飛行機は消えた。

敵機が日の丸をつけるなど思はなかった。それも博覧会で見る様な昔の飛行機で。欺マンか威嚇か、いよいよ身近に戦争が迫ったのを覚えた。


 その日   たれも 死ぬ事も
  逃げる事も 語らず 過した


その夜、街の方角に二度、三度、爆破音を聞いたが、それが何なのかさっぱり解らないままに、夜中を迎えた。

午前二時過ぎた頃、四五人の軍人と共に街警察所長が現れた。用件は、

「明朝六時、街として最後の避難列車を出す。戦闘に参加出来る者だけ残り、あとはそれで立ち退く事。行く先不明。 野宿の身支度で両手に持てるだけの食料品、荷物及び防寒用品」

と云うお達しで、それからの私達はあわただしく、灯りがつけられないので手探りで種々の用意をした。

二人の子に離散した時の身分証明を、形見の品を、身に くくりつけた。走れるために地下足袋を履いた。野宿の為 に裕三(注:第一子)に毛布とオーバを背負わせた。

水筒を、薬嚢を、食品を、と5才(数え年)の幼児は胸十文字に鞄、リュック、防空帽、雨合羽とくくりつけられ、 立っているのがやっとの姿となった。

良子にも別れ別れに育つ日のために戸籍謄本もつけて、父母と兄の写真を肌につけさせた。

着せられるだけ重ねて着せて背負った上を綿入れのネンネコを着て、またその上を防水用のネンネコを着た。首に図嚢、身につく限り貴重品の子袋をつけ、振り分け荷にして薬品、塩、ミソ、米、食品類を首にかけた。

ボストンバックに児等の衣類、まとめてもまとめても幾莫も持てるもんではなかった。軽いから、寒夜のためにと狐の襟巻、二本も隙間にねじ込んだ。

水牛の一枚皮のトランクに子等へかたみのセビロ二着、小袖二枚を入れ、冬の用意をととのえると朝になっていた。

誰も、どの家も同じ緊急な数時間だったのに違いない。

八月の盛夏を幾重にも幾重にも冬の衣を重ねて子と母とやっと立って歩けるという姿となって仕舞った。

3. 逃げる に続く)


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