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「長生き」できる写真を撮りたい

ついに梅雨…明けた……(拍手…!)
今年の梅雨はとにかく身体的・精神的にもダメージが強過ぎて…仕事にも影響が出るくらいかなりダウナーゾーンに入ってたのだが、やっと梅雨が明けるということでくす玉割って花吹雪を舞い散らせたい気分である。(とはいえ夏も熱中症には気をつけねば…)
そして、「この気持ちをみなさんに!」とSNSにアップするために夏の写真を…と思ったけど、今年はまだ撮っていないし、去年もあまり外出していなかったので写真がなく、ちょっと前のものをPCから引っ張り出してきた。

もう3年も前の写真で、赤坂由梨ちゃんと初めて一緒に写真を撮ったときのものだ。「木漏れ日がきれいだな」と思った瞬間を撮ったのだけど、ちょうど由梨ちゃんが足を踏み込んで、夏に飛び込んでいるような写真になったのがお気に入りだ。はじめましてということもあり、ほどよい距離感で撮れたのが逆によかった気がするこのときの撮影。

y-36のコピー

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この日も暑かったよなぁという思い出。そして、めちゃ良い写真が撮れた!!!と嬉しかった思い出。たしかこの時期にコマフォトの方にポートフォリオ見てもらい、これを一番に推したものをつくって、「この写真良いね」と言っていただけたのだ。こうやって時間が経っても、夏の季節に届けたいと思える写真になってくれて撮れてよかったなぁと思う写真である。

新しく撮ったものをアップし続けなければいけないなんてSNSのルールはないけれど、SNSを眺めていると常にいろんなフォトグラファーの新しい写真が大量に流れてくる。それが悪いわけではなく、みんながみんな撮りたいという欲求と新しい表現を目指して撮り続けている証拠なんだと思う。そして正直とても羨ましいなと思うことがある。というのも私は常に頭のなかで「こういうイメージを撮りたい!」とかあるわけでもなく、ふと撮りたいイメージ、撮りたい人が現れたら動き出すというタイプなので、空いた時間ができればすべての時間を撮影に注ぎ込む人間ではない。なので、作品数も少ないし、のらりくらりと流れで撮影してしまうとあまり良い結果は残せない。

ただ、最近はすごく思うのは、撮ってすぐSNSで上げて終わってしまうよりも、数年後にも見てもらえるような長生きできる写真を撮り続けたいということだ。
数年前に自分の写真がSNSに消費されてしまう感じが嫌でちょっと病んでたことがあった。私にとっての「写真が消費される」とはどういうことかになるけど、その場の「いいね」だけがコミュニケーションになってしまっていることや、SNS上でアップするのが1回限りで終わってしまうこと、そこから展示や写真集などのリアルな場に持っていけないところだと思う。正直、SNSの性質どうこうの問題ではなく(SNSの性質上、流れていきやすいサービスというのは重々承知でやっているので)、うまく活用してたくさんの人に見てもらえている人もいるので、見てもらう側の問題というより、結局は私の力不足だったんだろうなと思う。そして、長生きできる写真が撮れていなかったんだろうなと思う。

撮った写真を最初にSNSにあげるときは自分の撮影したときのテンションや勢い、伝えたい気持ちが溢れていて、客観視できずにあげてしまうことがある。その場では「いいね」や感想ももらえて満足するけど、たまに自分のTLを遡ってアップした写真たちをスクロールしながら眺めていると、その作品(投稿)が過去のものになってしまった感がすごくある。もうきっとSNSにアップすることはないだろうなという写真もあって、そういう写真を見ると、自分で撮っておきながらすごく悲しくなることがある。短命な写真を撮ってしまったんだろうなぁとため息が出る。

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そういうことを意識し始めてからは、できるだけ長生きできる写真を撮るというのは私のひとつ課題になっているかもしれない。じゃあ、「長生きできる写真」ってなんだろう?と考えると、今回みたいに何かのタイミングで「見てもらいたいな」と思うときにスッと絵葉書を送るように届けられる感じが、私の写真が「長生きできる写真」であって欲しいの答えになっている気がする。そして、手元に届いた人には何かを感じたときにふと見返してもらえる写真でありたいなと思う。だから、つねに額に飾られているよりは、本棚や引き出しに置いてあって、何かの節に引っ張り出してもらうのが理想なのかもしれない。

ただ、技術的にどうやって撮れるかはまだうまく言語化できていないけど、自分自身の写真に対する熱量とか見てもらいたい欲求から少し距離を置くことができる写真というのが、ヒントな気がしている。自分で撮る写真だから、撮るタイミングでその距離感を考えながらシャッターを押すことはなかなか難しいところではある。でも、そういう写真を撮れるようにと撮る前に意識するだけでも、シャッターを押す瞬間の構図や視点が理想に近づいてくる実感はある。ファインダーを覗いているあいだ、目に映る世界が絵葉書になって誰かが一言を書いてポストに投函する様子や、写真集をペラペラとめくっていくなかでの1ページだったり。最近はそんなことを考えながら撮っていたりする。

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今年の3月にカレンダーのような写真集をつくったのだが、1年を通して四季を感じられるそういう「長生きできる写真」を少しは積み上げることができたかなという思いからつくった。暦を入れたのはそれぞれの時期とリンクして見てもらえたらなと、実験的に入れてみた。

https://eripope.thebase.in/

この写真集は古いものでは5年以上前の写真もあるから、「長生きできる写真」をと意識して撮っていないものもある。でも、こうやって一貫性のある写真を撮り続けられてはいるんだなぁとは思う。

今回は小冊子くらいのものだけど、いつかはきちんと写真集として販売できるくらいのものを作りたいと思っている。夏になったら見たい写真、冬になったら見たい写真、というのを残していきたいと思っている。

なので、SNSにあげるときは「新しい写真を!」と撮ることだけに前のめりになるのではなく、いままで撮ってきた写真もずっと見てもらえるように、大切に届けていきたいなぁと思う。そんなわけで過去の写真も絵葉書を送るようにちょこちょこアップし続けていこう。そうやっていろんな人に、時が流れながら私の写真が届いて欲しいなと願っているし、精進していきた気持ちだ。

なんとなく、今回の梅雨明けのツイートをしたときに自分の気持ちを言語化できたのでnoteに書いてみた梅雨明けの朝でした。「長生きできる写真」については被写体についても思うことはあるので、また別の機会に書けたらと思います。
みなさんにとって素敵な夏になりますように!

最後まで読んでいただいてありがとうございます。写真展が続けられるようにサポートしていただけるとありがたいです…!